2010年01月31日

政治家、小沢一郎についてこう思う

ニュースが伝えないもの
またもや、小沢一郎をめぐる「政治とカネ」の問題が取りざたされています。多くの人々が、「またかと」と視るのも聴くのもうんざり、という気持ちを抱いていることでしょう。

私は、かれこれ10年以上も前から、小沢さんという政治家について考えてきました。いったい彼は正しいのか否か、尊敬すべきなのか否か、支持すべきか否か。私は、直接小沢さんを知っているわけではありませんが、直接・間接に知る人々や、陰に陽に小沢さんを支持する人々、真のジャーナリズムを目指している人たちの意見を検証しつつ、小沢一郎と民主党議員の面々、彼らの来し方、目指しているものについて考え、見守ってきました。

今、私はこう考えます。今もし、小沢さんが失脚させられたら、つまり起訴され、幹事長辞職に追い込まれ、政治家として命を奪われるようなことになったら、日本とってこれほど本当の意味で不幸なことは無いと。

もちろん私にすべてのことが見えているわけではありません。私が収集できる情報にも限度があります。でも、はっきり言えることは、政治の世界や世の中で「本当に何が起こっているか」は、新聞やテレビのニュース報道だけでは知ることはできないということです。それどころか、事実はマスコミを通していくらでも歪曲され、「起こっているとされていること」の重大性も変えられ、取るに足らないことが重大ニュースとして誇張たり、重大ニュースが隠蔽されたりすることは日常茶飯事だということです。マスコミ報道が、客観的で公正な報道などとは程遠いということはわかっていても、どのニュースが本当で、それはどの程度重大なことなのか、その判断を一般の人々が自力ですることは簡単ではありません。それをいちいち調べるには、膨大な時間と労力と能力が必要です。結果、テレビ繰り返し流される一方的な情報を何となく耳に入れているうちに、知らず知らず特定のイメージが植え付けられ、そうかもしれない、そういうことだったのかと、わかったつもりになってしまうのです。

毒をもって毒を制す
もう一つはっきりといえることは、小沢一郎というは、裏も表も知り尽くした権力のある政治家、ある意味「毒」を持った政治家だです。しかし、今の日本の「毒」にまみれた政・官・民の癒着構造にメスを入れるのは、同じ毒をもった小沢でないと無理だということです。管直人さんや岡田克也さんをはじめ、鳩山政権内には仕事のできる立派な政治家はたくさんいます。だけれど、清廉潔白な政治家だけでは、太刀打ちできないものがあって、逆に毒に飲まれてしまうかもしれません。脱官僚の政治主導の改革を断行するためには、今はどうしても小沢さんのいわば「毒をもって毒を制する」力が必要です。両刃の剣でかかる必要があるのです。

政権発足以来の仕事ぶり
政権発足以来4ヶ月、官僚権力の中枢である財務省にメスが入りました。幹部人事です。財務省主計官出身の藤井裕久を財務大臣に据え、元財務省事務次官の斉藤次郎を日本郵政の社長、そして勝栄二郎を財務省主計局長にしました。鋭い政治評論で知られる副島隆彦氏の解説によると、(要約開始)このような人事を行った理由は、財務省の元トップであったこの人々が、政府のいわゆる埋蔵金75兆円のありかと出し方を知っていたからだということです。そして、2010年度予算編成に当たり、亀井静香郵政改革・金融担当相が、「出さないと首を切る」と勝主計局長に圧力をかけ、特別会計の中から15兆円出させたのです。結果、補正予算を含め100兆を超える国家予算に比べて税収が36兆円という極めて厳しい経済状況のなかで、ぎりぎり何とか公約実現のための予算を確保し、かつ、国債発行を44兆円にとどめることができたというのです(要約終了)。実に見事な人事だったと思います。

この働きぶりは高く評価されるべきではないですか。事業仕分けで無駄な公共事業などの整理縮小も行いましたね。あれは、ほんの腕試しのようなもので、短時間での評価にはいろいろと課題も残りましたし、削減額はわずかな額でした。でも初めての試みとしては立派で、政治主導が実行された場面でした。しかし、こういった作業は、本来、政治家なら誰にでもできることですし、やらなければいけないことです。つまり権力がなくてもできる仕事です。しかし、権力がないとできないこともあります。世界的不況で税収が36兆円にまで落ち込むという想定外の状況で、適材適所の人事を行い、隠していたお金を出させた、これは小沢さんの権力があったからこそです。

しかし、毒にまみれた官僚構造を少しずつ切り崩しながら、しかも国家を機能不全に陥らせることなく、政治主導の改革を成功させるには、時間が必要です。だから今、小沢さんが失脚させられて、鳩山政権の足場が危うくなっていくと、この改革は中途半端に終わってしまう可能性が高く、日本にとって不幸な結果となります。

官僚たちの徹底抗線
いま、霞ヶ関で真っ青になっているのは、財務省だけではありません。鳩山政権は、厚生労働省、国土交通省、検察庁、外務省、防衛省などの事務次官や局長級などの幹部を更迭し、心臓部を入れ替えようとしています。これに対し、検察庁を中心とする官僚たち、自民党、大手マスコミ、各種業界団体が、一丸となって徹底抗戦をしかけています。自分たちの首と既得権益がかかっていますから、それはもう必死の暗闘です。マスコミのたたき方は凄まじいですね。天皇陛下と中国の習近平副主席との会見でたたき、沖縄普天間基地問題でたたき(これも、鳩山政権はただ迷走しているわけではないはず)、政治とカネの問題でたたき・・・。

昨年の衆議院選挙前に仕掛けられた小沢攻撃。「政治と金の問題」のスキャンダルで政治家を追い込むのは、検察を含む官僚機構とマスコミが自分たちの利権を守るための道具のようなもので、これこそ古典的な手法です。

政治資金規制法違反容疑で小沢さんの秘書が逮捕・起訴されたとき、その理由は「虚偽記載」でした。政治資金収支報告書に記載されていたのは、「新政治問題研究会」および「未来産業研究会」という二つの政治団体の名前です。この二つの団体は、西松建設による企業献金のための”隠れみの”として設立された「架空団体」とみなされています。東京地検特捜部は、小沢さんの秘書が収支報告書に「西松建設」からの政治献金と記載せずに、この実体のない架空団体の名前を記載したのは「虚偽記載」だとしたわけです。しかし、この二つの政治団体からの(つまり西松建設からの)献金をもらっていた政治団体は、小沢さんの陸山会だけではありません。

企業献金の実態
総務省が保管する政治資金収支報告書によると、両政治団体は、2006年の解散までに、「会費」と資金集めパーティーで、あわせて約5億9千万円のカネを集め、約4億7千万円を政界にばらまいています。献金やパーティー券購入の形で、ここから資金提供を受けていた政治家は、自民党13名(麻生内閣の二階敏弘経済産業省、尾身幸次元財務相、加藤幸一元幹事長、森喜朗など)を含め17人います(西松建設、資金提供全容)。民主党は、小沢一郎と山岡賢次国対委員長です。いずれも、「西松建設」ではなく、「新政治問題研究会」「未来産業研究会」の名前で報告されているものです。

それならば、なぜ、小沢さんの秘書だけが「虚偽記載」で逮捕されて、他の政治家に同様の捜査の手が及ばないのか、という疑問が出てくるのは当然です。当時の政権党は自民党でした。現職の政治家、しかも閣僚らがこの手の献金を受けていたことは、なぜ問題にされなかったのでしょうか。

例えば、尾身氏と西松建設の間の癒着については、『週刊現代』3月28日号(2009年)や『週刊文春』3月19日号(同年)にて以下のような指摘があります。(要約開始)小泉政権下で沖縄・北方担当大臣だった当時、総事業費700億円という「沖縄科学技術大学院大学」の建設プロジェクトが発案・推進されました。尾身氏はその後、06〜07年に掛けて財務大臣となり、西松から自身の政治資金管理団体「幸政会」に総額1430万円の献金を受けています。内、400万円は大臣任期中にうけとったものです。収支報告書の記載は「西松建設」ではなく、小沢さんのケースと同じ「新政治問題研究会」および「未来産業研究会」です。そして同07年、西松建設はこの「大学院大学」の建設事業の工事の一部を2億5800万円で受注しました(要約終了)。職務権限を乱用した悪質なケースと考えられます。

元首相の森喜朗(石川県選出)も同様に西松から献金を受け、西松建設は北陸新幹線の建設工事を受注しています。小沢さんと岩手県のダム建設事業の関係と全く同じ手法です。企業献金と公共事業の受注への斡旋収賄は日常茶飯事で、このように表面化したケースというのはほんの氷山の一角に過ぎません。

「迂回献金」と権力の乱用
この背景にあるのは、いわゆる「迂回献金」と呼ばれる政治献金の実態です。政治資金規正法では、企業から政治家個人への献金は禁止されていますが、政党や政党支部、政党が指定する資金管理団体への献金は認められています。ここがこの法律の抜け穴です。当然のことながら、企業は特定の政治家の便宜供与を求めて献金するわけで、政党支部や資金管理団体宛に献金するときに「○○先生に」と言って指定するわけです。つまり、企業は、政治家が所属する資金管理団体や政党支部を通して、間接的に政治家個人に献金することが可能なのが現状です。これを「迂回献金」と言います。

この迂回献金は常態化しています。今回、西松建設からの献金先は知られているだけで17人、事業規模が比較的小さくて家宅捜索などの捜査がしやすい事例ですが、これが大手ゼネコンの企業献金となったらおそらく手がつけられない規模になるでしょう。特に、強い権限―公共事業に関与できる職務権限―を持つ与党議員が献金を受けた場合は、事実上の「あっせん収賄」と見て間違いありません。にもかかわらず、検察が動くことはなく、事件になることはなく、政治家や秘書が容疑をかけらることもなく、放任状態です。新聞にもニュースにも載ることはありません。

小沢さんの言っている「権力の乱用」とは、このことなのです。私は、自民党もやってきたんだから、小沢さんだけ攻めなくてもいいじゃないか、などというレベルの言い合いをするつもりはありません。また、小沢さんと企業の関係や事実上収賄の事実をそのままでいいと言っている訳ではありません。もっと大きな問題が、この背後に隠されているということを言いたいのです。

「官僚システム」対「小沢」の対決
ここが重要です。このような、政・官・民のもたれあいで成りたってきたのが、これまで64年続いた官僚システムです。もたれ合っていたから誰も告発されず、摘発されず、甘い汁を吸い続けてきたのです。先に説明したように、政治資金規正法の抜け穴を利用して多くの政治家がクロなのにもかわらず、見逃すか摘発するかは検察の首振り一つです。官僚支配の中で大人しくしていれば見逃してもらえ、逆らえば摘発されるのです。

小沢さんと鳩山政権がやろうとしていることは、まさに悪しき官僚システムの解体ですから、真っ向からぶつかっているわけです。官僚が本当に恐れているのは「表も裏も知っている」小沢一郎です。だから昨年、政治資金規正法違反の疑惑で、真っ先に小沢を排除しようとしました。ところが、秘書を「虚偽記載」で逮捕し、代表を辞めさせることができたものの、陰の実力者としての地位を奪うことはできませんでした。その結果、政権交代となり、政治改革が始まって、いよいよ後がなくなっています。そこで、改めて持ち出した疑惑が、小沢さんの政治団体が購入した土地をめぐる4億円です。今度こそ逮捕へのシナリオを描いているのは間違いないでしょう。検察の最終目標は、小沢を幹事長の座から引き摺り下ろし、議員辞職まで追い詰め、政治生命を絶つことですから、どんな汚い手も使ってくると思います。

確かに、小沢さんの個人資産、政治資金、銀行からの融資との区別がはっきりしていない、その辺は私にもわかりません。このような疑惑を持たれる火種とならないようにすべてを明瞭にしておくべきでした。そのことは残念でなりません。収支報告書への記載ミスというような説明は、それが本当だとしても、やはりイメージダウンで、そのような初歩的なしかし重大なミスをすべきではありませんでした。もちろん、人間誰にもミスをすることはあります。でも政治と金の問題を追究してきた党の小沢さんだからこそ、自らの足元は誰が見ても文句なしのきれいな状態に保っていて欲しかったです。

検察側は、水谷建設からの5000万円の不正融資を土地の購入に当てていた、それを小沢の指示でやったと、裏ガネだ、ということで無理やり立件したいわけです。だいたい、水谷が5000万渡したという発言はどこまで信憑性があるのでしょうか。渡したか否か、受け取ったか否か、本当のところは一般の私たちには知る由もありません。もしかしたら、本当に書類上の「帳簿のつけ違い」の類のことかも知れません。秘書に信頼して任せておいた結果、誤解があった、という程度の。それだけなら家宅捜索や事情徴収される言われはなく訂正すればいいことです。私は、少なくとも、水谷建設からの不正献金を隠すために銀行からの融資を受けた、というような小賢しいことはやってはいないと思っています。何れにしても、小沢さんは「やましいことはない」の一点張りではなく、国民に対して説責任を果たす必要があります。

日本の真の民主主義のために
どちらにしても、これが小沢さんでなかったら、こんな事件になることはなかったのです。これまでも、政治家のスキャンダルはありましたが検察がどう動こうと、大きな目で見れば国の大勢に大きな変化はなかったように思います。しかし、今回ばかりは、「小沢」対「検察」の対決は如何によって、日本の将来は大きく左右されます。

もし、今国会中に起訴されるようなことになれば、幹事長職は辞任、離党せざるをえなくなるでしょう。連立政権は求心力を失い、大混乱に陥るでしょう。マスコミが加熱して日本中小沢スキャンダル一色となり、国会では鳩山さんは一連の責任を追及され、本当に国民のためになる審議はほとんど行われず、メディアに扇動されて鳩山政権の支持率はがた落ちになり、連立与党はイメージダウンで夏の参院選は敗北、自民党が元の鞘に納まるでしょう。脱官僚の改革は失敗に終わり、エリート官僚が支配する日本は永遠に変わらない。それが、検察側の筋書きです。

でも、もし小沢さんが今回のスキャンダルを切り抜けて生き延び、夏の参院選で民主党が勝利することができれば、トップ官僚たちが更迭され、清廉な政治家たちが思う存分力を発揮できる舞台が出来、脱官僚の政治改革は進むでしょう。そして、時間はかかっても、日本はまともな民主主義国家の道へ方向転換することが可能となるでしょう。私は、小沢さんは夏の参院選で勝利したら身を引くくらいの覚悟はできていると思います。私服を肥やすことが目的の政治家ではありません。自らの持つ権力を、日本に真の民主主義をもたらすための捨駒として使おうとしているのだと思います。それこそが、彼が半生をかけて目指して生きたものであり、私はその意味で、小沢一郎を偉大な政治家だと思っています。

民主党内部には意見の対立も多少あるようですが、鳩山政権の中枢の面々は、皆そういう思いを共有して踏ん張っていると思います。意欲ある若手の政治家たちもそれに続いています。今は忍耐のときです。何を言われても、どうたたかれても、鳩山政権には踏ん張ってもらいたいと思っています。

ここで書いたことは、読者の皆さんにとって俄かには信じられないことや、理解し難いも部分あるかと思います。しかし、はじめに戻りますが、大手マスコミのニュースは誰がどういう目的で流しているのか、本当に重要なことは何か、ニュースが伝えないものは何かを、自分で見極めなければならないと思っています。そして、なるべ真実に近いことを声に出して訴えていかなければと思うのです。



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2010年01月16日

子ども手当てに関する考察

政府の子育て支援の一環で、平成22年度から創設が予定されている子ども手当てについて、検討してみました。15歳以下の子どもに対し、今年度は月額1万3千円、23年度からは月額2万6千円を支給するというものです。初年度は2兆4千億円、以後は年間5兆円に上る歳出が見込まれています。

子育て支援という名のばらまき
内容を吟味して、先ずはじめに感じたことは、これほど目的が曖昧で将来の国にとって利益が不確定なもののために、毎年5兆円の国家予算を使うとは納得できないということです。それだけの予算をつぎ込むのであれば、明確な目的とその根拠を示し、将来の日本のためにそれだけの投資をする価値があることを示すべきです。

私は、民主党の子供手当ては、少子高齢化がますます進む日本の将来に向けての少子化対策の柱になるものだとばかり思っていました。つまり、年間5兆円もの予算をつぎ込むからには、子育てという仕事を国が金銭的に支援することによって、その先には少子化を食い止め、出生率を向上させるという大きな目的があるものかと思っていたのです。

でも、よく見てみたら、子ども手当て法案要綱には、「 この法律は、子どもを養育している者に子ども手当を支給することにより、次代の社会を担う子どもの成長及び発達に資することを目的とすること」と書かれています。少子化対策ましてや出生率などという言葉はどこにもなく、本当にそのまま、(その保護者を通して)子供一人一人に配られるお金であることがわかり、驚きました。所得制限が設けられなかったのも、この制度が、「どんな子供にも保障される権利」という理念から来ているものだからだそうです。つまり、子ども手当ては、親の収入に関係なく子供一人一人に向けて配られるもので、現行の児童手当のような経済的に苦しい家庭への支援である社会保障制度とは性質の異なるものであるということです。

では、これはむしろ景気対策でしょうか?確かに、15歳以下の子供を二人持つ親の立場からみると、月々5万2千円は大きな収入です。習い事の月謝になる家庭もあるでしょうし、食費の一部になったり、家族のレジャーに使われる場合もあるでしょう。必ずしも、子供のための養育費に使われるとは限りませんが、可処分所得が増えるので、何らかの消費に廻るとは思います。一方で、一人当たり月々2万6千円もらえるといっても、それを当てにしてじゃあ子供を産もうとか、もう一人増やそうとか、そういう発想につながるとはあまり思えません。なぜなら、子育てを取り巻く他の様々な環境(保育所、労働時間、職場復帰等の問題)の改善や制度が全く不十分だからです(これについては後でまた書きます)。だとすると、少子化対策としての効果は薄く、この制度は中学生以下の子供を持つ世帯の家計支援という面が一番大きいと言えます。しかし、一方で子供のいない世帯では増税ですから、不公平感もあり、景気刺激策というには方手落ちです。また、手当てのお金がすぐに消費されず貯蓄などに廻った場合は、景気刺激策としての効果は少なく、なんとも中途半端という感じが否めません。子育て支援という名の無策なばら撒きと称されてもおかしくありません。

「次代の社会を担う子供の成長及び発達に資するため」とは、理念としては悪くはありません。お金が有り余っているのなら大盤振る舞いもいいかもしれませんが、世界的大不況の中、また国の財政も逼迫している中、5兆円もの大金の単なるばら撒きなど、言語道断です。この分野に5兆円をつぎ込む覚悟なら、この際、本気で少子高齢化社会の問題に取り組むことを明言し、少子化対策、出生率向上のための具体的政策として立ち上げるべきです。


目的を明確に、有効な制度を
第二点目は、もし本当に「次代の社会を担う子供の成長及び発達に資する」ために何かしたいのだったら、手当ての配り方を工夫し、それと同時にお金では解決できない様々な育児環境や教育環境を取り巻く現状の問題点を解決するための政策を実行すべきです。そのことなくして、子供のために使われるとは限らないお金を一律に配っても、子供のためにもならず、少子化に歯止めはかからず、税金を無駄にするだけです。

年間5兆円という国家予算を支出するのです。子育て支援(金銭的、制度改正、環境改善など)により少子化に歯止めをかけ、将来の日本を担っていく世代を育成するという明確な目的を設定すべきです。そのために、どのような子育て支援が出生率の向上に効果的か、またどれほどの投資額が出生率の向上に繋がるか、因果関係を詳しく示す必要があると思います。

日本は、何でも新しい制度を導入するときに、他の先進国の制度をマネする傾向があります。今回の子ども手当ても、欧州各国の制度、特に出生率の向上に成功しているスウェーデンやフランスの制度の一部を見習ったものと思われます。

児童手当や保育への補助など、子育てに関連の総給付費の国内総生産(GDP)に対する割合を国別に見てみます。日本の現在の給付レベルは、欧州各国と比較して極めて乏しく、スウェーデン2.9%、フランス2.8%、イギリス2.2%に対し、日本はわずか0.6%です(内閣府報告書「社会全体の子育て費用に関する調査研究」平成17年)。例えばフランスでは、第一子には手当はなく、第二子には約1.5万円、第三子以降一人2万円(所得制限なし)と、インセンティブが儲けられています。また、家族手当として3人以上の子供を持つ家庭に、3人目以降一人2万円(約350万円の所得制限付き)が支給され、子供の多い家庭により手厚い支援がいくようになっています。さらに、年齢別加算があったり、障害の有無、片親の場合、など実にきめ細かく対応しています。その結果、1994年に1.65だった出生率は回復し、2005年に欧州では最高の1.94を記録しました。

もし、日本の月額2万6千円の子ども手当てが創設されれば、単一の手当ての金額としては、各国に勝るとも劣らない規模のものとなります。しかし、月額2万6千円をもらうことによって、安心して出産し、一人だけでなく第2子、第3子を儲けるようになるのでしょうか。答えはノーでしょう。先ず、第一子にも、第二子以降にも一律に支給するのでは、より多く産むインセンティブがなく、政策として極めて大雑把で稚拙だと感じます。また、繰り返しになりますが、子ども手当てのような制度は、育児・労働環境を取り巻く他の様々な状況(保育所、労働時間、不妊症の問題など)改善の取り組みや制度とセットになって初めて効果のあるものです。

例えば、フランスでは男女とも週35時間労働という日本では考えられない労働環境です。その他、男性の育児参加、託児所などの育児サービス、出産後の女性の就業率(約80%)など、大きな相違点があります。異なる国のシステムの一部だけ日本にとってつけても、同じように機能するわけはないのです。

本当に必要なのは、以下に並べた出産・育児への壁となっている様々な現状の改善です。働く女性、これから子育てをしたいと考える女性にとって切実な問題です。これらはお金だけでは解決できない問題です。

• 保育所が見つからない
• 職場復帰しても、現在の業務内容(残業が多いなど)では、育児との両立ができない
• 夫も仕事で忙しく、育児への協力が得られない
• 男性の育児休暇制度が徹底していない
• いったん止めてしまうと、職場復帰は難しく、パートなどの仕事しか選択肢がなくなる
• 子供を産みたくても不妊症のため産めない
• 不妊治療に保険が適応されない

高福祉・高負担への意識改革
第三に、財源の問題です。私は、少子高齢化社会を支えていくためには、有権者の財源に関する大胆な意識改革も必要だと思います。この問題こそ、欧州各国を見習った方がいいかもしれません。高福祉国では、国民所得に占める社会保障と税負担の割合(国民負担率)は、日本の比ではないのです。その割合は、日本では39%であるのに対し、フランス62%、スウェーデン66%と大きな差があります。財源が大きければそれだけ手厚い手当やサービスも可能に決まっています。

基本的に、「高負担・高福祉国」か「低負担・低福祉」か、二つに一つなのです。政治家は、支持率の低下を恐れて、増税をなかなか口にしようとしません。有権者も、負担は現状維持のままで高福祉だけ手に入れたいなどというのは虫がいい話です。この大前提が曖昧なままであることが、そもそも問題ではないでしょうか。

さて、子ども手当ての財源として税制改正大綱に示されたのが、子ども手当てと高校無償化の対象世帯に対し、所得税と住民税の扶養控除の一部を廃止するというものです。

当初は、民主党マニュフェストによると、「子供手当の導入」と「配偶者控除および扶養控除の廃止」がセットで施行されるということでした。この場合、恩恵を受ける側と損をする側で、かなりの差が出てくる計算でした。例えば、年収700万のサラリーマン家庭で、妻が専業主婦で中学生が二人の場合、配偶者控除と扶養控除の合計は114万円。これがなくなった場合の増税は16.4万円。子供手当てが2万6千円x12ヶ月x2人で62.4万なので、差し引き46万円の手取り増です。それに比して、妻が専業主婦で子供がいない世帯の場合、38万円の配偶者控除が無くなり、増税となる一方で、手当てによる収入増はありませんから、一番損を被ることになります。

これは言い換えれば、子供のいない人から子供のいる人への所得の転嫁、さらに高額所得者から低額所得者への所得の転嫁を図る政策ということです。その根底にあるのは「社会全体で子供を育てる」という考え方です。これから迎える少子高齢社会を乗り切れるかどうかは若い世代にかかっていますし、誰もが直接・間接に他人の子供の世話になるのですから、当然の考え方だと思います。

ただし、社会にあまり不平等感をもたらす制度は問題です。また、制度がもたらす損得勘定が個人の産む産まないの自由を左右したり、さらに言えば国が個人の生き方に干渉するような体制は避けなければならず、その線引きは微妙なところです。

結局、当初の民主党案にあった配偶者控除の廃止は見送られることになりました。扶養控除の一部廃止は、子ども手当てと高校無償化の対象世帯に限定するようです。所得税の扶養控除だけでなく、住民税の扶養控除を廃止するという部分も新たに付け加えられました。16歳未満の子供を持つ家族では、一人につき71万円の扶養控除(38万円の所得税控除、33万円の住民税控除)が廃止されます。要するに、不平等感を和らげ、恩恵を受ける側と損をする側の差をなるべく小さく収めようとした結果かもしれません。しかし、結果的に、これだけでは子ども手当てを賄うのにはとても足りません。

やはり、新たな財源、つまり近い将来増税が不可欠になってくるでしょう。今必要なことは、「国全体の将来のために、社会全体で子供を育てていなかなければならない」「その制度の拡充のためには、国民一人一人が今以上の負担を覚悟しなければならない」という意識を社会全体に育てることです。政治家は、そのことを訴えていく必要があります。目的の曖昧な子ども手当てのばらまきは止めるべきです。少子高齢化社会に対応するという、明確な目的に沿って、税の徴収の仕方や手当ての配分の仕方を工夫し、所得制限も設け、きめ細かい制度に練り直すべきです。そして、5兆円、或いはいくらになるかはわかりませんが、それだけの投資が、将来の日本にとって益となるような制度を構築するべきだと思います。
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2010年01月09日

クリスマス・プレゼントをめぐる考察 その(4) 葛藤からの開放、そして本当のクリスマス

クリスマス・プレゼントをめぐる考察を3回にわたって書いてきましたが、今回が最終回です。

この長年にわたる、クリスマスプレゼントをめぐる葛藤から、ようやく開放されるようになったのはここ2〜3年のことです。どんなに長くアメリカで暮らそうと、私の根本的な価値観を変えるつもりはありませんし、変えようとしても変えられないでしょう。かといって、いつまでも不満をこぼしていては、ホリデーシーズンがますます嫌いになるだけですし、周りに合わせて楽しんでいる振りをして、心の中では冷め切っているというのも、望ましい生き方ではありません。何事もそうですが、一つの考え方に固執して行き詰った時には、考え方の角度を少し変えてみると、思いもしなかった打開策が見つかるものです。ある時、私の考え方にも落ち度があることに気付いたのです。

確かに、私の子供時代のように、普段からおもちゃのない生活をしているのであれば、年に一度のクリスマスのプレゼントに躍り上がって喜び、感謝する気持ちも自然と湧いてくるでしょう。つまり、クリスマスにプレゼントをもらうことで「感謝の心とかモノを大切にする心を育まれる」という昔ながらの精神論が成り立つためには、普段はモノに満たされない暮らしをしている、ということが前提条件となります。

しかし、私たちの生活・・・平均的なアメリカ人の生活・・・を見渡してみれば、大人も子供もありとあらゆるものに囲まれ、それこそ不自由などほとんどないといっていいでしょう。クリスマスに限らず、普段の生活の中でも大量のモノを消費と廃棄とを繰り返しています。この物質的に飽和状態の社会には、皆が貧しかった時代の精神論の入り込む余地はほとんどないのです。今さら、クリスマスプレゼントの習慣を変えて、やり取りするプレゼントの個数を少し減らしたところで、有難みの程度にそれほど大きな違いがでるとも思えません。

これは、子供へのしつけの問題というより、むしろ私たち大人社会のモラルの問題です。モノに囲まれた環境で子育てをしながら、子供たちには自分の子供時代に培った精神論と同じものを植えつけようとしても、それは初めから無理な話なのです!そんなことに今さらながら気が付いたわけです。そして、その気付きによって、私自身はこの恵まれた現実の中でどう生きたらいいのか、子供たちに何を伝えたらいいのか、改めて模索していかなければならないと発想転換することにしたのです。そして、今のところ至った答えの一つが、英語で言う「Sharing」です。何も目新しいことではないかもしれませんが、モノに満たされた私たちにできること、すべきことは、持てる者が持たざる者と「分け合う」ということに尽きるのではないでしょうか。

このように考えるようになったとき、子供たちはすでに小学生になっていましたが、この頃から、学校や地域のコミュニティー、教会など主催で行われる様々なチャリティー事業に、積極的に参加するようになりました。アメリカでは、特に感謝祭からクリスマスにかけての冬場、恵まれない人々のための寄付活動が盛んに行われます。例えば、ホームレスの人々に配るための食料品の寄付、低所得家庭の子供たちに配る暖かいコート類の寄付、といった具合です。子供たちの通う学校では、食料品の寄付を募り、それぞれ自宅の食料棚から缶詰やパスタなどを持っていきました。今年は、息子が所属しているボーイスカウトでも、同様のチャリティー活動を行いました。地域の家々を廻って寄付をお願いし、集めた食料品を仕分ける作業を親子で手伝いました。小学校低学年の子供でも、十分できる活動です。

また、マムズクラブという母親サークルでは、低所得家庭やシングルピアレントの家庭など、プレゼントを買う余裕のない家庭の子供たち十数人のために、プレゼントそのものを寄付する活動も行いました。子供たちの年齢と性別と、その子の欲しいものをあらかじめ聞いておき、手分けしてクリスマスまでに用意してあげるのです。例えば、5歳の女の子用を担当の場合、ジーンズとおもちゃのジュエリーセットを買ってあげるという具合です。ラッピングまできれいにして各家庭に届けます。プレゼントを受け取る子供たちの喜ぶ顔が見えるようで、用意する側も嬉しくなります。

このような活動は、持てる者が持たざる者に「分け与える」こと、いわゆる「Giving」ですが、当たり前のことのようでいて、なかなか機会が無ければ実践できるものではありません。自分の家庭のためのクリスマスの準備をしながらも、他の恵まれない人々や家庭のために、ほんの少しのお金や時間や労力を費やすこと、子供と一緒にそのような活動に関わることは、その「Giving」の精神を実践するよい機会となっています。

でも、これは第一歩です。自分たちの取り分を減らしてまで、人のために分け与えているわけではありません。自分たちは今までどおりのプレゼントの習慣を続けながら、プラスアルファで、もらえない人のために寄付しているので、自分たちは痛くも痒くもありません。その意味で、これは私の考えるSharingには及びません。

しかしながら、恵まれない見ず知らずの人々について子供たちと話し合い、その人たちにどんなモノが必要かを考え、何をしてあげたら嬉しいと思うかを想像し、行動するということは、大きな第一歩です。まさに、私自身が「この恵まれた現実の中でどう生きたらいいのか、子供たちに何を伝えたらいいのか」模索する中で見出した答えのひとつと言えるでしょう。そして、これこそ、本当のクリスマスと言えるのではないかと思います。
posted by Oceanlove at 04:19| Comment(1) | カルチュラル・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月06日

クリスマス・プレゼントをめぐる考察 その(3) 見事玉砕!変えられない習慣

前回書いたとおり、プレゼントをめぐる習慣のおかげで、クリスマスは私にとって憂鬱な時期でもあります。では、なぜこの習慣を変えようとしないのか。子供によくないと思うならば、その習慣を止めるか変えるかすればいいと思われるでしょう。ごもっともです。でも、それができていれば、こんな所感を書く必要もなかったでしょう。

今思うと、結婚して間もない頃は、このアメリカ中に“蔓延っている“クリスマスの習慣を本当には理解していなかったのです。息子が生まれて初めてのクリスマス。夫の親族に、プレゼントはひとつで十分だから、とお願いしたのですが、全く意味が通じなかったようで、義母、義父、義兄などからそれぞれ3〜6個ずつ、計十数個もの包みが息子宛に送られてきて、その量に絶句したものでした。

初めの2〜3年は、そのうち私の意見も尊重されるだろう思って、一人にひとつで十分だからと、子供はともかく大人の私にはそんなにいらないからと、やんわりと頼み続けましたが、全く焼け石に水でした。夫も含め、誰も私の考えを理解してはくれません。この習慣を当然と思っているアメリカ人には、「大人なんだから」とか「もっとシンプルに」とか、そういう感覚は理解不能です。繰り返しになりますが、プレゼントについて私が意見を持ち出すと、「これが伝統のやり方なんだから」とか「贈る喜びケチをつけるな」とかいうことになり、夫とは互いに平行線です。しまいには喧嘩ごしになり、クリスマスの雰囲気がぶち壊しになります。本来のクリスマスの意味など、かけらもあったものではありません。

私だって、プレゼントは一切するなといっているわけではないし、日本人とアメリカ人の感覚が違うことくらい分かっています。でも、国際結婚しているわけだし、私の考えだって尊重されるべきなのです。互いに少しずつ妥協して、両者の中間点を採るべきではないですか。たかがプレゼント、されど・・・されどなのです。なんというか、私の生き方の根本と抵触するのです。特に子供には、モノを大切にする心や少しのモノでも感謝する心を教えたいし、それを家庭の中で実践したいのです。

与えるオモチャの量は、しつけの面でも影響があります。例えば、子供たちが各自で片付けたり管理ができるおもちゃの数には限度があります。整理整頓したり、大切に扱うことを教えるのには、少ない数から始めることでしょう。よその家にお邪魔すると、部屋中がおもちゃやぬいぐるみで溢れかえっている光景をよく目にします。

仕方なく、我が家では大量にあるオモチャをひとまず分別して、一部だけ与え、その他は手の届かない場所に収納しておき、定期的にローテーションまでしているのです!私の苦肉の策です。それなのに、父親を筆頭に周りの人間たちがそんな風にモノを買い与えては、そんなきめ細かな私の子育ても水の泡です。この社会の狂気的消費感覚が、子供たちの体に自然と染み込んで、それが当たり前と思うような大人に育ってしまうではないですか。

夫とその親族全員を敵にまわして(?)数年間、私なりの考え方を訴えてきましたが、結果は見事に玉砕したと言ってよいでしょう。最近になってやっとわかったのは、多くのアメリカ人にとって、子供の教育やしつけ、大量消費や無駄や環境の問題と、クリスマス・プレゼントの習慣は全く接点のない次元の異なることなのだ、ということです。個人がどう受け止めるかに関係なく、暗黙の社会ルールのようになっているということです。

そもそも「しきたり」とは、そういうものかもしれないと、思うに至りました。仮に、「いくつものプレゼントをやり取りすることは無駄だ」という考えを頭では理解してもらったとしても、「プレゼントの習慣を変えよう」とか「プレゼントは一つだけにしよう」ということには決してならないのです。それは「しきたり」だからです。

しきたりとは面白いものです。その渦中にいるとなかなか見えないのでしょうが、その文化の外にいる者の冷静な目で見ると、狂気的ですらあります。当のアメリカ人たちは、自国の伝統行事を楽しむ一方で、しきたりへ義務に縛られているようにも見えます。「買わなくては」「贈らなくては」という強迫観念にかられているのです。実際、「贈らない」という選択肢はないので、皆あわただしく買い物に走り回り、その責任を果たすために奔走するのですから。

私は、プレゼントは、気持ちだけで十分あり難いし、モノよりも、心のこもったカードでも書いてくれた方が私はずっと嬉しいと思います。でも、玉砕してしまった私は、彼らのしきたり通り、半ば義務的に贈るべきモノを贈り、笑顔でプレゼントを受け取る状況に身を甘んじています。みんなの見ている前で順番にプレゼントを開けて、「わー、素敵!」と大げさ目に喜んでいちいちハグしたりしなければならないのが、白々しく、精神的苦痛でさえありますが、仕方がありません。

次回に続く・・・
posted by Oceanlove at 14:46| Comment(0) | カルチュラル・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月05日

クリスマス・プレゼントをめぐる考察 その(2) プレゼントをめぐる葛藤

前回、アメリカのクリスマス・プレゼントをめぐる驚くべき実態についてご紹介しました。その続きです。

日本人の私には、このような習慣にはかなりの抵抗があります。もちろん、日本でも、誕生日とか母の日とか、何かの記念日などに贈り物をする習慣はありますし、心のこもったプレゼントは、贈るのも戴くのも嬉しいものです。戴いたものは、感謝して大切にしようと思いますし、例え好みに合わないものであったとしても、相手の気持ちに感謝したいものだと思っています。しかし、アメリカにおけるクリスマス・プレゼントの習慣は、その量的規模において、日本人の私には想像を絶するものがありました。

いえ、私の同じような国際結婚をした日本人女性でも、こちらの習慣を楽しんでいる方もいますので、必ずしも日本人だからそう思うのではないかもしれません。私という個人の価値観や生き方に照らして、かなりの抵抗を感じるといったほうが正確でしょう。私はもともと、派手な飾りとか大仰なプレゼント交換は好まない人間です。日本にいる頃から、商業化されたクリスマスには辟易していました。キリスト教徒でもない人間たちが、こぞって大騒ぎをするのを冷ややかな目で見ていたものです。

一方、アメリカでは、クリスマスはキリスト教の伝統行事で、宗教の違いに関わらず誰もが家族と過ごす国民的祭日であることは、もちろん理解しているつもりです。でも、あの度を過ぎたプレゼントの習慣だけは、私にはなんとも受け入れ難いものがあります。日本では、大騒ぎが嫌なら関わらなくても済みましたが、こちらでは家族の行事なので嫌でも巻き込まれてしまいます。

そんなにたくさんプレゼントをもらっても、当然のことながら気に入るものばかりとは限りません。実用的なものもあれば、あまり使えないものもあります。子供のおもちゃは、はじめは嬉しくて飛びついても、ちょっと使ってすぐに飽きてしまったり壊れたりして、ガラクタ同然になってしまうものもたくさんあります。贅沢かもしれませんが、人の好みを想像してモノを贈るのは、難しいものです。絶対外で着れそうもない好みの違うセーターとか、趣味の悪い食器などをもらって、困ったことも度々あります。20〜30ドルぐらいで、そんなに欲しいモノがたくさんあるわけでもありません。値段はともかくとして、とにかく「無駄」の一言に尽きます。

アメリカでは、返品や交換が可能な場合が多く、自分の好みのものと交換すれば無駄にせずに済みますので、私はよく利用します。でも、交換にいく手間隙とガソリン消費を考えると、どうでもよくなり、しまいっぱなしになったり、結局誰かにあげたり、リサイクルしたりして、手元に残らないケースも多々あります。

さらに気になるのは、その大量のプレゼントを包んでいる箱や色も柄も様々なラッピング用紙。日本では、きれいに丁寧に剥がして開けるのがマナーですが、アメリカではビリビリと豪快に破るのが当たり前。次々に破り捨てられるラッピング用紙は、一夜にしてゴミの山と化していきます。ものすごい量です。私は、きれいなままの袋やリボンはもったいないのでとっておきます。でも、ラッピング用紙のリサイクルなんて、野暮な話は誰もしようとしません。私など、クリスマス前、店で売られているカラフルな筒状のラッピング用紙を見ると、数日後にはゴミとなっていく様子が目に浮かび、ますますプレゼントの習慣に嫌気がさしてきます。

「私はプレゼントはいらない」と断わったことがありました。すると、夫いわく「逆に贈る相手の喜びを奪う」とか「この国の文化・習慣を尊重していない」とかいう議論になり、話は平行線です。なら言わせてもらいましょう。「そうか、安いものを大量にムダに消費することがキミたちの文化か」「その安モノは、アメリカの巨大資本が途上国の労働者に最低賃金でつくらせているものだゾ」「この国では、個人の自由が尊重されるのではなかったか。プレゼントはいらぬ、という私の意見を尊重したまえ!」

とりわけ私にとって耐え難いのは、物心もつかない子供たちがラッピングをビリビリ破り捨ててオモチャを取り出し、「ワーッ」と一瞬喜んではすぐ次のものを破っていく光景を見ること。こんなに洪水のような物の与え方をしたらモノをもらう有難みなど分かるはずもありません。私が子供の頃は、たくさんのおもちゃはありませんでしたので、一年に一度、誕生日かクリスマスにプレゼントをもらうと、それは嬉しくてその後何年も大事にしたものでした。「モノを大切に使う」という考え方は、幼い頃からの生活環境の中で自然に身についたものです。でも、アメリカのこのような習慣の中で、有り余るおもちゃを与えられて育つ子供たちは、感謝したり一つひとつのモノを大切に使う、ということを永遠に学ぶことはないでしょう。毎年、この時期が恐ろしく憂鬱です。

次回に続く・・・

posted by Oceanlove at 01:47| Comment(1) | カルチュラル・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月02日

クリスマス・プレゼントをめぐる考察 その(1) 驚くべき習慣

毎年12月。街にイルミネーションが輝き始め、クリスマスを待ちわびて、大人も子供もどことなく浮き足立つこの時期。各家庭でのクリスマスの飾り付けやプレゼントの準備に始まり、毎週末のように、学校や教会など様々な団体での関連行事やパーティーが開かれ、目が回るほどの忙しさです。本来なら、楽しんだり感謝したりする時期のはずです。でも、その忙しさとお祝いムードとは裏腹に、私にとっては少し憂鬱な時期。ある葛藤を抱える日々でもあります。その葛藤は、クリスマス・プレゼントのしきたりに由来します。クリスマス・イブの夜、家族・親戚中が集まり、ディナーをいただいた後に、かれこれ1時間以上もかけて山のように積まれたプレゼントを開ける習慣です。

クリスマスには、家族全員、お世話になっている人や親しい友人などにプレゼントをするのが習慣で、アメリカ人はそのためにかなりの予算を費やします。アメリカの年間個人消費の25〜40%がクリスマス商戦にかかっていると言われているくらいです。ちょうど日本のお歳暮やお年玉の習慣と似ていますが、こちらでは決してお金を渡すことはなく、必ず「モノ」を贈ります。子供たちだけでなく大人同士でもプレゼントを渡し合います。それも、一人に一個ずつではなく、一人複数渡し合います。例えば、私の義母は、夫と私、二人の子供たちにそれぞれに4〜5個、計20個近い包みを抱えてやってきます。一人当たりにかける費用は我が家の場合50〜100ドル程度で、それ予算内でいくつも買うので、一つ一つはそれほど高価なものではありません。私としては50ドルのものをひとつもらった方が嬉しいのに、彼らは20ドルのものを3個買ってあげる行為により大きな喜びを感じるらしいのです。

一人の子供に、親、祖父母、2組の叔父・叔母から、それぞれ3個ずつプレゼントが贈られると想像してみてください。その子供は合計12個ものプレゼントをもらうことになるのです!プレゼントにかける金額は各家庭の経済状況によって差があるでしょうが、プレゼント交換の習慣に大きな違いはありません。

クリスマスプレゼントにかける思いは、特別で熱烈です。そこにあるのは、きっと喜んでくれるだろうという期待や贈ることへの喜びであり、あくまでお祝い心です。クリスマスが近づけば、「あの子は、StarWarsが好きだから、StarWarsのおもちゃやゲームソフト、Tシャツを贈ろう」「この子は、バービー人形を集めているから、あと3体のバービーと、お絵かきセット、それからバービーのパジャマがいいかしら」「彼は釣りが趣味だから、釣竿と釣り用のジャケットと帽子を贈ろう」・・・・。そんな発想で、これもあれもと思いをめぐらして、ワクワクしながらたくさんのプレゼントを買って贈るのです。

想像してみてください。一人が開けるプレゼントの個数を平均10個とすると、家族4人で40個、親戚の人々10人が集まる場合には計100個の包みがツリーの周りにうず高く積まれることになります!この驚くべき、クリスマス・イブの夜のプレゼント交換。金持ちも貧乏人も、人種も宗教も関係なく、2億を超える人間たちが大量のモノを「買って、包んで、あげて、もらって、開けて、見て、使って、捨てる」という行事を何かに執りつかれたように繰り返している、それがクリスマスのプレゼントをめぐる実態です。

次回へ続く・・・
posted by Oceanlove at 13:25| Comment(0) | カルチュラル・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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