2010年07月15日

情操教育を通して見た日米教育比較 その(3) 「本当のゆとり教育」を目指して 

この記事は、3回シリーズ「情操教育を通して見た日米教育比較」
その(1)息子が参加した日本での音楽会
その(2)アメリカにおける新しい芸術教育の試み

に続く最終回です。

「ゆとり教育」から「脱ゆとり教育へ」
さて、再び話は日本の教育に戻ります。PISA(OECD生徒の学習到達度調査)における日本の順位が、2000年から2006年にかけて科学・数学・読解力の3分野全てで下がり、「理数離れ」「数学・科学応用力の落ち込み」「考える力の低下」ということが指摘されているとは前に書きました。文部科学省は、ゆとり教育を目指した学習指導要領に問題があったとしています。ゆとり教育に関しては、大まかに以下のようなことが指摘されてきました。

・授業時間が減った分内容も大きく削られたので、実質6時間で12のことを勉強していたのを、5時間で10に変わっただけ。一つ一つの内容に時間をかけたり、内容を深めた学習にはなっていなかった。その結果、取得する学習内容が減少し、各国との比較では「到達度調査」の順位が下がった。
・週休二日制は、「親子で過ごす時間」「学校以外の活動に充てる時間」を増やす意図があったにも関わらず、有効な活用ができていなかった。親子のコミュニケーションの増加にはつながらなかったり、家庭の経済力によっては土曜日の習い事や塾通いなどで生徒間の格差が広まったりした。
・ゆとり教育の目的の一つであった「創造性」や「解決能力」を養うということが、目に見える成果につながっていないこと。創造性教育を始めとするゆとり教育に必要な指導を、現場の教師たちが手探りで取り組むような状態だった。

そして、2008年に再び学習指導要領は改訂され、来年春から使われる小学生の教科書が軒並み3割厚くなることになったわけです。つまり、「脱ゆとり教育」を目指し、ゆとり教育で削減された内容が復活し、算数では33.3%増、理科では36.7%増の内容となっているといいます。

水泳で言えば、「全員が100メートル泳げるようになること」がかつての詰め込み教育だとすると、ゆとり教育では「全員が70メートル泳げるようにすること」とハードルを下げました。その結果、余裕はあるけれど、本来100メートル泳げる子供は物足りなく、塾通いなどは加速し、一方で全体としてのレベルは下がってきてしまったというのが、PISAの結果であり、ゆとり教育の弊害と見なされているわけです。そして再び「100メートルを目指す」内容になっているようです。

素人考えでいえば、全体的な学力の低下が指摘される中で、教科書の内容が現在より充実したものになることは悪い方向ではないとは思います。しかし、また詰め込み型の学習に戻ったのでは、例えPISAの順位が上がったところで、これから日本が目指すべき教育の姿とはいえません。そもそも、ゆとり教育の理念は、「生きる力の育成」だったはずです。中央教育審議会では、「生きる力」を以下のようにうたっています。

[生きる力]は、これからの変化の激しい社会において、いかなる場面でも他人と協調しつつ自律的に社会生活を送っていくために必要となる、人間としての実践的な力である。それは、紙の上だけの知識でなく、生きていくための「知恵」とも言うべきものであり、我々の文化や社会についての知識を基礎にしつつ、社会生活において実際に生かされるものでなければならない。http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/chuuou/toushin/960701e.htm

「脱ゆとり」と称される2008年の学習指導要領は、「ゆとり教育で削減された内容の復活」と同時に、「知識・技能を活用する学習(観察・実験、レポート作成、討論など)」の充実にも重点が置かれているようです。これは、非常に重要なポイントだと思います。子供たちが知識だけでなく活用力をつけるには、課題を考えたり、文章や図・グラフに表したり、発表や討論などをし合ったりする授業が必要となります。このような授業では、子供たちは「正解がなかったり回答がひとつではない課題について突き詰めて考えること」「他の人の意見を聞き尊重すること」「その上で自分なりの考えをまとめること」などを経験することになります。そのような経験は、前述の「これからの変化の激しい社会において、いかなる場面でも他人と協調しつつ自律的に社会生活を送っていくために必要となる、人間としての実践的な力」、つまり、「生きる力」につながっていくでしょう。脱ゆとり教育は、「詰め込み型への後退」ではなく、そのような「生きる力」を育む「本当のゆとり教育」への前進とならなければなりません

と同時に、私たちは、「生きる力」というのは一朝一夕に習得できるものではなく、必ずしも従来の学力テストで測れるものでもないことを理解しておく必要があります。学習指導要領が変わり、新年度からの教科書が厚くなっても、「OECD生徒の学習到達度調査」の各国別順位が急に上がるようなことはないかもしれません。というよりむしろ、本当の「生きる力」は、詰め込み教育型の能力判定テストと同じ尺度では測れないのですから、その順位に一喜一憂することは無意味になります。

日本の「本当のゆとり教育」と、アメリカの「芸術教育の新しい試み」
では、100メートル泳げる子と、10メートルしか泳げない子が共存するクラスで、「本当のゆとり教育」を実践するとは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか?私は、理想的な教育とは、「100メートル泳げる子供がシラけずに更に意欲的に上を目指し、且つ、10メートルしか泳げない子供があきらめずに20メートルを目指してがんばれるような環境を作り出す」ことだと思います。そういった環境は教師が一人で作り出すものではありませんし、生徒全員に個別の指導を行うとか、能力別のクラス編成にするといった類のことをいっているのではありません。泳げる子が泳げない子をバカにしたり軽蔑したりせず、泳げない子が引け目を感じたり自信をなくしたりしない、そんな環境。泳げる子が泳げない子を励ましたり、泳げない子が泳げる子の泳ぎを見習うことが自然に行われる環境です。そのような環境を作り出すための大前提として、教師がまず子供たちに教えなければいけないことは、「人は誰もが違うことを認めること」「互いを尊重しあうこと」「共感を持って行動すること」ではないでしょうか。

泳げる、泳げない。絵が得意、絵が不得意。計算が速い、計算が遅い。お金持ち、目立ちたがり、泣き虫、ドッジボールが上手い、忘れっぽい、大食い、世話好き・・・。本当に多種多様な能力とキャラクターの入り混じるクラスは、大人社会の縮図のようなものです。日本全体に広がる格差社会の影響は子供たちが受ける教育の量や質にも格差をもたらし始めています。好むと好まざるとに関わらず、このような現実をまず認めなければなりません。その中で、「互いを尊重し合い」「共感を持って行動する」ことを教える教育は、国語・算数・理科・社会の主要4科目を教える授業ではできるはずもないでしょう。ではどんな教育によって教えることができるのでしょうか?それはきっと、「自然や動物と触れ合う」「美しい音楽や芸術、文学にたくさん触れる」「スポーツでチーム一丸となって挑む」「ボランティア活動をする」そして何よりも「感動的な体験をたくさんする」ことによって育まれる、それに尽きると私は思うのです。だから、私は音楽や美術を含む情操教育はかけがえのないものだと思うのです。

ここまで、主に情操教育を通して見た日米の教育事情、それぞれの教育が抱える問題点と新たな挑戦について書いてきました。テーマがいささか壮大すぎ、日米の教育比較などと大仰なタイトルをつけてしまったことを後悔しています。でも、焦点が定まらぬまま文章を書きつづっているうちに、あることが私の中で忽然と繋がってきました。それは、本稿の二つのテーマ−日本の「本当のゆとり教育」とアメリカにおける「芸術教育の新しい試み」は同じ方向を目指しているということです。社会背景も教育の問題点も大きく異なる両国ですが、両者に共通しているのは、子供たちに「生きる力」−自律心や協調性、考える力、共感できる温かい心など−を育む教育を目指し変遷する姿でした。

しかし、アメリカでは音楽や美術の“失われた30年”を取り戻すことから始めなければならないのに対し、日本ではその情操教育の伝統は脈々と受け継がれ、義務教育におけるその地位も時間もしっかりと確保されているのです。公立小学校で、主要4科目以外の学習−音楽・美術・体育・書道・道徳など−に全体の4割近い時間が当てられていること−誰もが当たり前のように思っているこの情操教育は、日本の誇るべき財産なのです。もちろん、日本の教育には今回取り上げなかった様々な問題もあるでしょうし、現場の先生方には私には見えないご苦労もあるでしょう。これからもっと創意工夫が求められ先生方の力量が問われることにもなるかもしれません。でも、私がぜひ、声を大にして言いたいのは、日本の学校教育が既に持っている素晴らしい財産を失わないで欲しい、まずはそれを大切にしていって欲しいということです。そして、(アメリカより)優れているのだから・・・と慢心せずに、さらによりよい教育を目指していって欲しいということです。

話は、一番最初に戻りますが、息子にとって連合音楽会は素晴らしい体験でした。でも今回私が感銘を受けたのは、それだけではなかったとも書きました。二人の子供たちは、それぞれ音楽の授業でリコーダーの練習もしましたし、習字の道具をお友達から借りて書道をしたり、体育では何度もプールの授業がありました(アメリカのほとんどの公立学校にはプールの設備はありません)。ドッジボール大会では、全校生徒が学校の体育着を着ていました。「この体育着は、ワールドカップに出場した日本チームのユニフォームのように、私たちの学校のユニフォームなのです。だから責任と誇りをもって大会を楽しみましょう」という先生言葉は、団結力やチームワークの大切さを伝えるメッセージとして印象的でした。娘の教室ではバッタやカマキリを育てていました。最終日に、蝶が卵からかえる瞬間を目撃した時の子供たちの目は実に活き活きとしていました。息子のクラスで行った新聞制作やお友達への誕生日カード作りなどの手間隙かかる創作活動も、人と人をつなぐ素晴らしい授業だと思いました。テストの点数にはすぐには反映されないかもしれないけれど、このような子供の「生きる力」を育む素晴らしい指導を私は目の当たりにし、大きな感銘を受けたのです。

まだあります。毎日朝の会で全員で歌を唄うこと(アメリカでは朝の会なるもの自体ありません)、全員で教室や学校のそうじをすること(あちらでは学校のそうじは一切、清掃職員に任されています)、授業の始まりと終わりに挨拶をすること、帰りの会で「今日あった良いこと」を報告しあうこと・・・・。日本では当たり前の光景かもしれませんが、アメリカから見たら驚くような、誇るべき素晴らしい日本の学校教育の一端です。

改めて、子供たちに日本での体験入学の機会が与えられたことに心から感謝します。お世話になった先生方、仲良くなったお友達、日本の学校生活の経験の一つ一つが子供たちの胸に刻まれ、彼らの人生の糧となってくれることでしょう。最後に、本稿を書くための資料をいろいろ調べている最中に目に留まった以下の二つの文章をそのまま引用したいと思います。

文部科学省・中央教育審議会の答申より。

[生きる力]は、理性的な判断力や合理的な精神だけでなく、美しいものや自然に感動する心といった柔らかな感性を含むものである。さらに、よい行いに感銘し、間違った行いを憎むといった正義感や公正さを重んじる心、生命を大切にし、人権を尊重する心などの基本的な倫理観や、他人を思いやる心や優しさ、相手の立場になって考えたり、共感することのできる温かい心、ボランティアなど社会貢献の精神も、[生きる力]を形作る大切な柱である。アメリカ・アリゾナ州の州教育長であるトム・ホルン氏の言葉。

When you think about the purposes of education, there are three," Horne says. "We're preparing kids for jobs. We're preparing them to be citizens. And we're teaching them to be human beings who can enjoy the deeper forms of beauty. The third is as important as the other two."

教育の目標は3つある。第一に子供たちを将来職を得る準備をさせること、第二によき市民となる準備をすること、そして、第三に人間らしさ−生きることの奥深い美しさを味わうこと−教えることである。3番目は、他の二つと同様に大切である。


posted by Oceanlove at 02:34| カルチュラル・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月09日

情操教育を通して見た日米教育比較  その(2)アメリカにおける新しい芸術教育の試み

この記事は、3回シリーズ「情操教育を通して見た日米教育比較」の第2回です。
前回、アメリカの公教育の中で音楽などの芸術教育が行われなくなってしまっている現状について書きました。アメリカでの公教育の実情や子供たちの学力について、少し詳しく見て見ます。

一年間の授業日数の日米比較
ここで、年間の授業時間数について日米比較してみました。

A:国・算・理・社(主要科目時間数)
B:音・図・体・道・その他(その他科目時間数)

日本
A:600(61.2%)
B:380(38.8%) 
合計980時間

アメリカ
A:547(70.1%)
B:233(29.9%) 
合計780時間

まず、日本の某市立小学校の今年度の学校要覧によると、4年生では一年間の国語・算数・理科・社会の4科目の合計時間数が600時間、音楽・図工・体育・道徳・総合の合計が380時間の計980時間となっています。主要4科目の割合は61%、その他の科目では38%となっています。

一方、アメリカの公立小学校小学1〜4年生の平均的な時間割を見てみます。アメリカ教育省教育統計センター(National Center for Education Staistics) 
の統計によると、一週間の授業時間数は31.2時間、そのうち英語(国語)・算数・理科・社会の4科目に費やされる時間は21.9時間と70%を越えています。一週間の時間数で見ると、英語は11.2時間、算数は5.6時間、理科と社会はそれぞれ2.3時間で、実に全体の35.6%が読み書きに費やされています。

前述の通りアメリカでは一年間の登校日数が180と短いので、実質の授業日数をおよそ175日として年間の合計時間数を換算すると、主要4科目は約547時間、その他の科目は233時間、合計では780時間となります。つまり、年間の授業時間数がおよそ200時間も少ない分、どうしても主要4科目に偏重せざるを得ないのです。それでも、主要4科目の授業時間数は日本の時間数を大幅に下回っているのですから、音楽・図工・体育といった科目に費やす余裕がないことは容易に想像できます。

落ちこぼれゼロ政策の失敗
さらに、追い討ちをかけるような制度が、ブッシュ政権時代の2001年に導入されました。通称「落ちこぼれゼロ政策」(“No Child Left Behind Act”)と呼ばれる政策です。毎年、年度末に各州ごとに一斉の学力判定テストが行われ、この学力テストで合格ラインを満たさない子供は進級させないことで、「落ちこぼれゼロ」を達成しようとしたのです。連邦政府の教育関連予算は、この政策の実施のため2001年の422億ドルから2007年の544億ドルへと大幅に増加したりしました。しかし、一斉テストによって一人一人の学力が把握ができる一方で、様々な弊害が指摘され、政策の有益性が疑問視されています。

学校現場では、学校全体の成績が良くないと学校や教師の評価が下がり、学校の評判が下がると子供たちをより評判のよい学校に行かせようとする親が増えるので生徒数が減り、その結果学校の予算も削られることになります(生徒数に応じて予算が配分される仕組みです)。従って、現場では学力判定テストの点数を上げることに躍起になり、学年末近くになると他の授業を削ってテスト対策に多大な時間を費やします。落ちこぼれゼロ政策が施行されてからの5年間で、英語と算数の授業がさらに増加する一方、他の科目が減少した学校は全体の44%に上っています。小学生のテスト内容は、英語と算数だけなので、通常の理科や社会の時間までが削られて、丸一日英語と算数の復習に追われるといった事態になるのです。

理科や社会が削られるのですから、音楽や図工に当てる時間など毛頭ありません。カリフォルニア州では、週教育委員会が、それぞれの学年における音楽、美術、演劇などの習得レベルの指針を一応は出しているのですが、2006年の調査では、小・中・高合わせて89%に当たる公立学校でこのレベルが満たされていませんでした。さらに、1999年から2004年の間に、音楽の授業を受けている生徒は小・中・高合わせて46%減少、音楽の教師の人数も26.7%減少しました。正規の音楽教師の採用がない学校は全体の67%にものぼっています。

学習到達度調査の日米比較
では、子供の学力についてはどうでしょうか。学力について、客観的な評価をすることはなかなか難しいことですが、文部科学省が日本の子供の学力を他国と比較する際に用いているPISA(Programme for International Student Assessment)の順位を参考にすることにします。PISAは、15歳の子供を対象に2000年から3年ごとに行われている「OECD生徒の学習到達度調査」で、2006年度には57カ国が参加しています。ここでは、比較のため日本とアメリカの順位をまとめてみました(表2)。

     表2:学習到達度調査の日米比較

日本    
      科学 数学 読解力    

2000年 2位 1位 8位    

2003年 2位 6位 14位    

2006年 6位  10位 15位    

アメリカ
    科学   数学   読解力(註)

2000年 14位  19位  9位

2003年   22位  28位  −

2006年   29位  35位  18位


(註)アメリカの「読解力」に関しては、データ不備で評価が無いので、アメリカ教育省所管の国立教育統計センターのリポートhttp://nces.ed.gov/pubs2008/2008017.pdf を使用しました。小学4年生の読解力の国際比較では、アメリカは2001年には9位(28か国参加)、2006年には18位(45カ国参加)という結果が出ています。

PISAにおける日本の順位は、2000年から2006年にかけて科学・数学・読解力の3分野全てで下がっていることから、「理数離れ」「数学・科学応用力の落ち込み」「考える力の低下」が指摘されました。それに対する文部省の見解は、学力低下の原因として授業時間の不足を挙げ、「活用力を上げるには基礎基本の知識が必要だ」「授業時間が足りていない」と、「ゆとり教育」を目指した学習指導要領に問題があったとしています。「ゆとり教育」に関しては、それだけで大きなテーマですが、次回改めて考察してみたいと思います。

一方のアメリカでは、ご覧の通り、日本よりはるかに順位は低く、先進国の中でも上位とはいえない状況です。2000年から2006年にかけて、科学で14位、22位、29位、算数で18位、28位、35位、読解力でも9位から18位へと順位を大幅に下げています。授業日数や学習時間が元々少ない上に、落ちこぼれゼロ政策で、他の教科を犠牲にしてまで英語や算数だけに偏った勉強をしている結果がこの有様です。さもありなんです。もちろん、アメリカは日本とは比べ物にならない格差社会である上に、人種問題、貧困問題、移民問題など深刻な問題が多数存在していますので、公的教育のレベルを一定に保つのは非常に困難です。少数のトップは世界のトップでありながら、ハイスクール・ドロップアウト(高校中退者)は、一年間に120万人、全体のおよそ3割にも上るのが現実のアメリカ社会です。

危機的状況にあるアメリカの公教育
教育問題は常に政治のテーマになっていますし、教育改革はお決まりのように毎回の選挙公約のひとつになっていたりします。最近では、三月にオバマ大統領が、中退者の多い高校がその流れを食い止めるための経済的支援と教師の拡充に9億ドルの予算を計上すると発表したのが耳に新しいところです。しかし、このような政府による教育政策も焼け石に水のように思われます。なぜなら、教育関連予算は慢性的な赤字となっている上、一昨年からの世界的不況の影響で、予算不足は悪化の一途をたどっており、各州と学区の現場は新たに授業日数を削減するという危機的状況に直面しているからです。最近では、なんと予算不足分を穴埋めし教員の解雇を防ぐために、週休3日制を取り入れている州が増えているのです。

現在、カリフォルニア州、バージニア州、ワシントン州など全米17州100校が週4日制を取り入れています。削られた一日分の授業は、4日間に振り分けられるため、一日あたりの時間数は増えることになります。しかし、用務員、カフェテリア(給食担当)の職員、スクールバスの運転手などの人件費や、交通費、光熱費を削減することができるのです。授業時間数は変更しないので教員の給与が減らされることはありませんが、他の職員、運転手などの給与は一日分減らされ最大およそ2割の削減になるというのです。週休3日を取り入れている学区はそれほど多いとはいえませんが、中でも多いのはコロラド州で、州内の前178学区のうち約3分の1が導入しています。ハワイ州では、2009年、年間17日の「休暇の金曜日」の導入を義務付けました(ウォール・ストリート・ジャーナル:2010年3月8日)。

アメリカに暮らし、普通の公立小学校に子供を通わせている親として、教育をめぐるこのような状況に危機感を覚えますし、子供たちの将来は、そしてアメリカという国の将来はどうなってしまうのかと憂慮せずにいられません。とても学校だけには任せておけず、多くの親たち、教育の専門家、NPO団体、地域のコミュニティー、キリスト教会などが、学校内外の様々な場で、スポーツや芸術活動、ボランティア活動に関わりながら子供たちの育成に関わっていこうと考え、行動を始めています。

アメリカの公教育における新しい芸術教育の試み
さて、話を音楽や美術などの芸術教育に戻します。このようなアメリカの公教育の危機的状況の中で、芸術教育に新たな潮流、すなわち「包括的で創造的な芸術教育」が始まっています。この新しい構想は、最先端の脳科学研究や人間の認知発達の研究成果−「芸術教育は、学校教育に期待されること、つまり親や社会が子供たちに与えたいことのすべてに深く関係している」−を根拠としています。音楽に親しむことが、脳の数学的思考、パターンの認識、記憶力などと深い関係があること、算数や読解力のみならず、集中力、認知力、ものを考える力、そして情緒の発達といった面にも大きく貢献しているという科学研究の結果が、より広く認知されつつあり、見過ごされてきた音楽や芸術教育の重要性が見直され始めているのです。大学の研究機関やNPOなどで、学校で音楽や美術の授業を取り入れることと、学校の標準テストの成績のプラスな相関関係についての多くの研究論文が発表され、教育現場でも公教育活性化のための画期的なツールとしての芸術の必要性を訴える声も高まってきています。

以下の文章は、フラン・スミス氏による記事「Why Arts Education is Crucial, and Who’s Doing it Best」を一部抜き出し要約したものです。


様々な公共政策に提言を行っているNPO団体“ランド・コーポレーション”の芸術に関する報告書(2005年)には次のように書かれています。「芸術によってもたらされる喜怒哀楽や共感は、単なる、個人の人生を豊かにするだけではない。芸術は、周りの人々との結びつきを強め、一種のコミュニティーを作り出し、人々をより広く深く世界へと繋げていく。そして、違った観点から物を見ることを教えてくれる。学校における音楽や芸術のカリキュラムは、格差の広がった子供たちのギャップを埋めることにも貢献している」。

また、「芸術は共感と忍耐を体験させてくれる」とは、芸術教育の普及に力を入れるウォーレス財団の研究・評価部門のディレクター、エドワード・パウリー氏の弁で、ジャズ音楽を鑑賞したり、「セールスマンの死」(アメリカ人作家アーサー・ミラーによる戯曲)を鑑賞したり、「アラバマ物語」を読むといった衝撃的な経験は、他のどんな教科からも学べるものではなく、芸術的体験からしか得られないとも述べている。

そこで訴えられている教育における新しい芸術教育とは、かつて学校で教えられてきた単なる歌や絵画、あるいは学問的な音楽や美術の授業とは少し異質なものです。それは、人間の学習能力を開花させ発達させるために有益であるのみならず、自律心や協調性、問題解決能力、創造力、積極性など、人間的成長に資するまさに「生きる力を育む源」として必要不可欠な体験としての芸術なのです。それが、先に述べた「包括的で創造的な芸術教育」の構想なのです。

この新しい芸術は、従来の音楽や美術の授業という枠にとらわれず、創造的なアプローチで柔軟に教育の中に取り入れられています。例えば・・・

音楽を他の学習のためのツールにする(分数を習う時音符を使う)
芸術を他の主要科目の要素に取り入れる(奴隷制度の歴史を学ぶ授業で自分たちが演劇を書いて演じる)
学校全体を芸術性豊かな環境に変える(モーツアルトの曲を校内放送で流す、制作アートで校内を飾る)


などです。子供たちに、この新しい芸術を体験する機会を与えよう、カリキュラムにも取り入れようという動きは、学校教育という枠を超え、アーティスト達やNPO、大学の教育学部や芸術学部、自治体や地域コミュニティー全体のコラボレーションという形ですでに各地で始まっています。例えば・・・

テキサス州ダラス市では、芸術家、慈善団体、教育関係者、企業家たちが共同参加して、市内のすべての学校に芸術の授業を取り入れ子供たちを市全体の芸術活動に取り込むための「ダラス芸術教育計画」を立ち上げました。何年も働きかけを続けた結果、現在、過去30年間で初めて、ダラス市のすべての小・中学校で週に45分間の美術と音楽の授業が行われるようになったのです。

アメリカの州の全ての子供たちに芸術教育を提供するのにはまだまだ到底及びませんが、ニューヨーク・シティー、シカゴ、ミネアポリスなどの各都市、アーカンザス州、イリノイ州、アリゾナ州などでもこのような新しい芸術教育の潮流が始まっています。

次回、「情操教育を通して見た日米教育比較 その(3)本当のゆとり教育を目指して」に続く・・・


posted by Oceanlove at 23:42| カルチュラル・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月05日

情操教育を通して見た日米教育比較  その(1) 息子が参加した日本での音楽会

日本の小学校での体験入学
我が家では、アメリカの学校が夏休みに入る毎年6月に1ヶ月ほど里帰りをします。その折に、二人の子供たちが小学校で3週間ほど体験入学をするのがここ数年の恒例となりました。今年、長男は小学4年生、長女は3年生のクラスに入れてもらうことになりました。このような短期間の入園・入学は、すでに幼稚園の頃から経験していますので、日本の生活習慣や学校生活にも大分慣れており、比較的すんなりと教室の中に溶け込んでいるようです。先生方やクラスのお友達も、「今年も待ってたよ」と温かく笑顔で迎えてくれました。

私の夫はアメリカ人です。子供たちはアメリカ生まれアメリカ育ちですが、私も夫も、彼らにできる限り両方の国の文化や伝統を受け継いで欲しいと切に願っています。こうして、祖父母の家での日本の生活・・・ご飯・味噌汁・納豆・漬物中心の朝食を食べ、寝る時は畳に布団を敷き、子供たちだけで歩いて通学する(アメリカでは車で送り迎えで、安全上子供だけで出歩く機会はまずありません)、そんな当たり前の生活を体験する中で、言葉を覚えるのみならず、アメリカとは異なる社会や文化、日本人の行動様式やものの考え方といったものを肌で感じて欲しい、そんな思いで子供たちを送り出しています。

公立小学校が、外国から来る子供たちをこのように温かく迎え入れてくれる体験入学という制度は、アメリカではあまり聞いたことがなく、皆に驚かれます。親としては、日本にこのような機会があることを大変ありがたく、快く迎え入れてくれる学校の先生方、クラスのお友達、保護者の皆さんにはただただ感謝しています。

息子が参加した連合音楽会
さて、私の実家のある某市では、毎年市内の全ての小学校の4年生全員による「連合音楽会」が開かれます。各学校ごとに、楽器の合奏や合唱を披露するもので、その歴史は昭和30年代にまでさかのぼる伝統のある音楽会です。私自身も、かつて参加したことを今でもよく覚えています。先週、息子の授業参観の日に、子供たちの演奏を生で聴くことができました。息子は、たった2週間しか練習する期間がなかったのですが、合奏ではタンバリンを、合唱は歌の歌詞を一生懸命覚えてみんなと一緒に歌うことができました。

曲目は、合奏はいきものがかりの「ジョイフル」、合唱は「You and I」という曲です。「ジョイフル」では、リコーダー、鍵盤ハーモニカ、アコーディオン、木琴、鉄琴、複数の打楽器、ピアノなど、様々な楽器が使われ、リズミカルでテンポの速いメロディーにのって迫力のある演奏を披露してくれました。「You & I」は、若松歓氏が作詞作曲し、かつて日本と韓国の子供たちの合唱で歌われた曲です。「歓びも悲しみも分かち合えたらいいのに」「世界中の友達がひとつになって、この思い宇宙(そら)に届けたい・・・」。歌詞が素晴らしく、人と人の心をつなぎひとつにしてくれる、胸を打たれる曲でした。

演奏の前に、子供たち一人一人が音楽会に参加した感想、練習の様子、どんなところが大変だったか、などを披露してくれました。「初めは、楽器ができるかどうか心配だったけど、少しずつ練習して吹けるようになったときはとても嬉しかった。」「一人一人が違う楽器を担当して、みんなで合わせたら素晴らしい曲になった」「音楽は、耳で聞くものではなく、心で聞くものだと先生に教わった」・・・。そんな、素直な初々しい感想が聞き、この子供たちは、知らず知らずのうちに、みんなと協力して何かひとつのものを作り上げる素晴らしさ、友達との共感など、音楽を通して何にも変えがたい素晴らしいことを学んだんだな・・・ととても嬉しくなりました。

息子は、自らこのような音楽演奏に加わったのは初めてのことでした。シャイな性格で、人前で何かの演技をするなど大の苦手の彼が、周りの子供たちの楽器に合わせリズムに乗ってタンバリンを叩いている様子、覚えたての歌をみんなと心を一つにして一生懸命うたっている姿は、私の親としての喜び、子を誇りに思う気持ちを大いに掻き立ててくれました。息子ながらに、音楽の素晴らしさを心に感じるものがあったのでしょう。音楽に限ったことでありませんが、子供が様々なことを経験し成長する姿をを見守ることほど親にとって嬉しいことはありません。

しかし、今回私はその個人的な喜びと同時に、別のある感銘を受けました。それは、日本の学校教育のなかで、情操教育の大切さが認められ、音楽や美術などの授業がしっかりと確保されていることについてです。今回、私は息子の体験入学で、特に音楽に力を入れている部分を見せてもらったわけですが、これは音楽に限ったことではありません。図工や書道、体育、家庭科、道徳などを含めて、主要科目とされる国語・算数・理科・社会以外の科目にも、実に多くの時間が確保されています。息子のクラスの一週間の時間割表を見てみると、週29時間の授業のうち、主要4科目は17時間で全体の58%、その他の授業が実に42%を占めています。

日本の義務教育では当たり前のことのように思われていますが、実はそれは、日本の外、特に私たちの住んでいるアメリカから見たら逆に驚かれるような、とても羨ましいことなのです。なぜならアメリカでは公教育(特に小学校)の中で音楽や芸術の授業がほとんど行われなくなってしまっているという現実があるからです。私の子供たちが通うカリフォルニアの公立小学校でも、正規の音楽や図工の授業はなく、楽器はおろか歌をうたう機会もほとんどありません。アメリカでは、日本のように全ての生徒たちが音楽や美術の基礎を学べる環境は全く整っていないのです。

アメリカの公教育事情
どうしてアメリカではこのような状況になってしまったのでしょうか。実は、アメリカでも1970年代までは公教育のカリキュラムに音楽や美術が含まれていました。全ての子供たちが音楽の基本や合唱を習い、様々な種類の楽器に触れ、音楽鑑賞をする機会があったのです。美術についても同じです。水彩、チャコールの他様々なメディアを使って創作活動をし、偉大な画家についても学びました。そのために必要な、教材は提供されていましたし、楽器は僅かな料金で学校から借りることもできました。

しかし、1980年代以降、教育費の予算カットで真っ先に削られたのが音楽や美術の授業です。専門の教師たちは解雇され、専門外の教師たちが何とかその肩代わりをしようとしてきました。しかし、それは教師の負担増につながりますし、できることにも限度がありました。やがて、子供たちが音楽や芸術に触れる機会は激減していったのです。親や、教育関係者の中にも、公教育における芸術の必要性を感じない人々が増えてきていると指摘もあります。1980年代以降に育った世代は、学校で音楽や美術の授業を受けていないので、その重要性や価値が分からないのです。従って、芸術は素晴らしいけど、公教育においては必要不可欠なものではない、という認識が一般化してしまったのです。過去30年という長い年月にわたり、多くの公立学校での芸術教育の扉は閉ざされてきました。付け加えると、音楽や美術の授業がないだけでなく、体育も最低限(例えば4年生以上のみ週に2回)しかありませんし、家庭科や道徳といった科目もほとんど聞いたことがありません。

ただし、私立の学校については別で、独自のカリキュラムで現在でも公立学校とは比べ物にならないレベルの音楽・美術の教育が行われています。公立でも一部の学校(比較的裕福な家庭の多い地区の学校など)では、保護者からの寄付や寄付金集めのイベントなどの収益金で独自に専任教師を雇い、音楽や美術を授業に組み入れているような学校もあります。また、正規の授業はなくても、高学年以上になると希望する生徒は学校のバンド(吹奏楽部)に参加するなど、課外授業のような形で音楽に親しむ機会がある場合もあります。

では、音楽や美術の授業がない分、「国語・算数・理科・社会の主要4科目の授業数が日本に比べてずっと多いのか」とか「日本の子供より学力が高いのか」という素朴な疑問が湧いてくるのではないでしょうか。その答えは両方ともNOです。それは、アメリカでは年間の授業日数がかなり少ないことに所以(日本ではおよそ200日に対してアメリカでは180日以下)しますが、日米の授業時間数の違いやと子供の学力について次回少し詳しく見てみます。


「その(2)アメリカにおける新しい情操教育の試み」へ続く・・・


posted by Oceanlove at 13:16| カルチュラル・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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