2010年12月28日

2010年クリスマス、子供たちに伝えたこと

🎨「クリスマス」と「汗と血のにじむ歴史」
さて、前回の記事「ヴィクトリアン・クリスマスの伝統とアメリカの歴史」では、現代に繋がるヴィクトリアン・クリスマスの伝統をご紹介しながら、ゴールドラッシュ、南北戦争、インディアンの最後、鉄道建設と、19世紀後半のアメリカの出来事を駆け足で振り返ってみました。こうして改めて歴史を眺めてみると、おびただしい汗と血が流され何千何万の人々の犠牲の上に、アメリカは変化と発展を遂げ、今の私たちの社会が形作られてれてきたことが分かります。そして、ふと気付きます。このような変化と発展の歴史の只中においても、人々は毎年クリスマスを祝う行事を繰り返してきたのだ・・・と。最前線で戦争を闘った兵士たち、西部開拓の労働者たちやその家族たちは、それぞれどんな思いで毎年クリスマスというひと時を過ごしてきたのでしょうか・・・。

そんなことに思いを馳せながら迎えた、2010年の私たちのクリスマス。各家庭のクリスマスデコレーション、町やショッピングモールを彩る巨大なツリーやイルミネーションは、(不況のさ中にあるとはいえ)究極の豊かさを謳歌する現代のアメリカのミドルクラスの象徴のようです。輝く光を見ていると、どこからともなく湧き上がってくるのが、私たちもまた歴史の只中にいるのだ・・・という思いです。変化と発展は終わったわけではなく、おびただしい汗と血の流れる歴史は21世紀の今も続いているという事実。私たちがこうしてクリスマスを迎えている今現在も、世界のあちこちで戦争や闘争が続いているという事実です。

「クリスマス」と「人々の汗と血のにじむ歴史」。両者は何とも不似合いで、組み合わせて語ることには違和感を禁じえないかもしれません。なんとなくクリスマスムードに水を差すような話には目を背けたいのが人情かもしれません。クリスマスは、家族皆で楽しい時を過ごす伝統の祝日・・・それでいいではないかと。でも私にとって、クリスマスのこの時期ほど、人間社会の様々な矛盾と、その中で人生をどう生きるべきかといった大きな問いを意識しないときはありません。より明るい日差しの下では自らの影がより濃いように、明るく楽しいクリスマスを演出すればするほど、その正反対のもの、影に包まれたものの存在が心に迫ってくるのです。

そこで、私が感じている「人間社会の様々な矛盾」を、「市場主義経済によって生きる矛盾」と「共同体に属する個人の矛盾」の二つに絞ってしばし触れてみたいと思います。

🎨市場主義経済によって生きる矛盾
「市場主義経済によって生きる矛盾」とはどういうことでしょうか。我が家のツリーの下に積まれているとても家族4人分とは思えないプレゼントの山は、消費社会の象徴です。普段から、必要十分なモノに囲まれながら生活している現代のアメリカのミドルクラスの私たちに、もうこれ以上贈り物など必要がない、無駄な消費は止めにしようなどと言えば、クリスマスの楽しみもなくなってしまうかもしれません。しかし、いったいどれほどのモノがいるというのでしょう?現代の私たちは、必要があるから贈っているのではなく、必要はなくても贈る習慣だから贈っています。生活必需品であればクリスマスでなくとも購入するわけで、家電製品にしても日用品にしても、無くても困らないけどあれば嬉しい、生活をより豊かにしてくれるというのが現代の贈り物です。

比べるのもおかしな話ですが、19世紀の労働者なら靴の底が擦り切れてきたけれど今は我慢してクリスマスに新調しようとかいう話だったのが、現代人なら、ゲーム機のニュー・バージョンが出たから買おうとか、彼はゴルフが趣味だからもう一本ゴルフクラブをプレゼントしよう、などという贅沢な話になるわけです。より多機能、より便利、高品質なものにどんどん買い換えたり豊富に揃える、そういう時代です。買って数年しかたっていなくても修理する部品がなかったり、修理するより新製品を買ったほうが安くつく場合さえあり、モノを大切に長く使うという心がけにも、昔ほどの価値はなくなってきています。

しかし、「クリスマスのプレゼントなどいらない」、「こんな無駄な消費は止めにしようではないか」という考え方は、ある意味、私たちの市場主義経済がよって立つ基盤と矛盾します。グローバル経済においては、技術革新や新市場の開拓で売れるモノやサービスを作り続けなければ、企業は淘汰されていきます。企業経営が成り立たなければ雇用が確保できず、人々の生活基盤はたちどころに崩れていきます。

2008年以来の世界的不況で、現在アメリカ全体の失業率は9.3%、カリフォルニア州では12.4%です。親が失業した家庭では、失業手当てで何とか生活を切り詰めて凌いでいますし、家のローンが払いきれずに家を失ってしまった家庭もあります。職探しを数ヶ月、数年続けても再就職できず、子供が4年制大学へ行く道をあきらめ、コミュニティーカレッジへ進学したり、フリーターになったりするケースを身近に見てきました。

アメリカでは従来、小売業界の年間売り上げの25%−40%を占めるのが感謝祭以後のクリスマス商戦でした。この時期に消費者がプレゼントやサービスにどんどんお金を使うことが、雇用の確保につながり、雇用が維持されれば消費にまわる、そうして経済は回り続けてきたのです。つい最近までの多重ローンによる消費や不透明な金融商品の横行など、「度が過ぎた」近年のアメリカの金融システムが大不況を引き起こしたことは疑いの余地もありません。でもそこまで「度が過ぎない」までも、私たちの社会と暮らしの基盤である市場主義経済はイコール利益至上主義で、それによってどんな結果(例えばエネルギー問題、格差の広がり、環境汚染など・・・)がもたらされようと、消費者マインドを狂気的なまでに掻き立てて消費を拡大させていくことが至上命題となるのです。無駄な消費はいらないといってしまえば、それによって立つ社会基盤が崩れる、それが「市場主義経済によって生きる矛盾」です。

ところで、クリスマスには、子供たちが両親からだけでなく、叔父・叔母、祖父母などからもたくさんのプレゼントをもらう習慣のあるアメリカでは、一人の子供が3つも4つも、多ければ10個も20個ものプレゼントの包みを贈られます。これは、同じ消費社会とはいえ日本とは大きく異なり、「プレゼントは何か欲しいものは一つ」といって育てられた私には、特に馴染めない習慣です(このことについては、過去の記事「クリスマスプレゼントをめぐる考察」
(1)驚くべき習慣
(2)プレゼントをめぐる葛藤
(3)見事玉砕!変えられない習慣
(4)葛藤からの開放、そして本当のクリスマスで詳しく書いています。)とにかく、アメリカの子供たちは、何が欲しいのかさえ分からない幼児のうちからおもちゃの洪水を浴びせられ、分別も付かないうちからありとあらゆるモノに囲まれて育っています。

しかし、ファッション、趣味、エンターテイメント・・・快適で満足のいくライフスタイルを送るために、金銭とエネルギーと資源を費やしているのは私たち大人。子供にモノを与えすぎはよくないとか、甘やかせることになるとか、そういう議論はもはや成立しにくくなっています。次々に物を買い替え、使っては捨てて、常に新しい製品を作り出す行為を繰り返すことに、個人としては抵抗を感じていても、全体としては市場主義経済に巻き込まれ、そのシステムは肯定され続けているのが現代の社会なのです。

🎨「共同体に属する個人の矛盾」
もう一つの「共同体に属する個人の矛盾」とは、簡単に言えば、個人は、国家や人種や宗教といった共同体に属する限り、共同体の意思決定から逃れられないというような意味です。

12月25日、米軍駐留が今年で最後となるイラクでは4万8千人、そして今も戦闘や暴動の続くアフガニスタンでは約10万人のアメリカ兵たちがクリスマスを迎えました。オバマ大統領は、クリスマスを過ごしているハワイから、アフガニスタンをはじめ世界各地の米軍基地に駐留する兵士とその家族に向けて、国への奉仕を労う感謝のメッセージを伝えました。また同日、デイビッド・ペトレイヤス米最高司令官が、アフガニスタン西部ファラ州にある米軍基地をクリスマス訪問したこともニュースで大きく伝えられました。全米各地のキリスト教会のクリスマス礼拝でも、軍人とその家族への祈りが捧げられます。アメリカ人にとって、祖国のために戦地でクリスマスを迎える兵士たちへの感謝の気持ちや、その家族らを思う気持ちというのは格別なものがあるのです。

それにしても、キリストの誕生を祝い家族団欒の時を過ごすクリスマスと、人間同士、国同士がいがみ合い殺し合う戦争ほど相反するものが、この世にあるでしょうか。アフガニスタンにおけるアメリカ兵の死亡者は1,424人、他の同盟国の兵士、アフガンの兵士と民間人を合わせたアフガニスタンでの犠牲者数は合計1万9,600人です。イラク戦争では、2003年から7年間でアメリカ兵だけでも4,417人のが死亡しました。同盟国の兵士、イラク人兵士と民間人合わせた犠牲者は90万人を超えると言われています。おびただしい血が流されている事実は、過去の歴史においても21世紀の今も変わりません。

クリスマスや信仰心と戦争を結びつけるなんて変でしょうか?クリスマスに兵士たちの無事を願う気持ちは皆同じ、それでいいのかもしれません。でも、自分の家族や友人さえ・・・アメリカ人なら、祖国を守ってくれるアメリカ兵さえ無事だったらいいとは、誰も言わないでしょう。キリストの救いは白人だけのものではなく、キリストは全ての人々に愛し合いなさいと教えたのではなかったでしょうか?その「全ての人々」には、白人も黒人もインディアンも、外国人も異教徒も、みな含まれているはずではなかったでしょうか?現代のクリスマスは宗教色は薄れ、富める者も貧しい者もキリスト教徒も異教徒も、家族や友人と楽しいひと時を過ごす祝日となりました。ですから、アメリカ兵のためだけでなく、アフガン兵や銃弾の飛び交う町で暮らすアフガンの人々や、世界の貧しい国の人々や、すぐ側にいるホームレスの人々のことを考え、祈るべきではないですか。

神の名のもとに異教徒を迫害し戦う時代は、歴史の彼方に過ぎ去ったと思うのは錯覚で、戦争と切っても切れない人類の歩み。国家権力と結びついたキリスト教が、異教徒を容赦なく迫害してきた歴史は今も繰り返されています。いや、それは違う、これは対テロ戦争なのだと、21世紀の私たちはテロリストという新しい敵と戦っているのだと言われるかもしれません。しかし、テロリストという新しい敵はどのようにして発生したのか、なぜ私たちの敵とみなされているのかということについて、深く考えてみたことはありますか?

戦地に赴いている兵士たちを責めるつもりでは毛頭ないのです。彼らが他の人間に銃を向けているとしても、いったい誰が彼らを責められるでしょうか。自宅の暖かなリビングルームで団欒の時を過ごしている私たちは、自分たちの代わりに彼らを送り出し、直接手を下していないだけだなのです。それが過言というのなら歴史を見てください。インディアンの居住地を奪う虐殺の戦いに直接加わっていなかったとしても、開拓地に住み着いた白人たちは皆インディアンを迫害をした勢力の一部だったことに変わりはありません。兵士たちも、私たち一般市民も国家という共同体の一部なのです。

キリストの教えた愛と救いの教えを信仰しクリスマスを祝いながら、異国に侵略し人を殺す戦争を続ける・・・。なぜ、人類はこんな相反する二つの行為を続けられるのか、そんな素朴な疑問を感じることがあります。でも、それは、私たちがある共同体に属する以上、強力な共同体の意思決定から逃れることはできない「共同体に属する個人の矛盾」です。いや、民主主義国家では、個人の意思が反映されたものが共同体の意思だと言うかもしれません。しかし、民主主義はいつも正しい選択をするとは限らず、時に非情な結果をもたらします。例えば、他国への攻撃が民主主義による意思決定の段取りを踏んだとして、仮に51対49の僅差であっても賛成派が多数であれば、49%の反対の声は歴史にとってはほとんど意味の無いものになってしまうのですから。民主主義の欠陥に私たちはもっと敏感になるべきでしょう。

今日の私たちが戦っているのは、19世紀的な帝国主義や領土拡大を目的とした国家同士の戦争ではありません。豊かな生活を送り続けていくための、エネルギー、地球資源、金融、情報、科学技術などの獲得と支配を目的とした地球の覇権をめぐる争いです。そして今日、国家のみならず、人種、宗教、エリート集団、テロリストといった様々な共同体の意思決定が大きく交錯しています。安全で便利で豊かな生活を送りたいのなら、その共同体は争いを勝ち抜いて地球の覇権を獲得するか、獲得した国の仲間になり対価を払って分け前をもらうかしかない・・・。

個人として戦争反対を主張し、世界中に軍事戦略を展開する共同体(アメリカのような国)を批判することもできますが、その共同体から恩恵を受けているのも個人ですから、そこには明らかな矛盾があります。日本人もアメリカ人も、属している共同体の意思決定から逃れることはできないという矛盾におかれた個人の宿命は同じかもしれません。ただ、付け加えるとすれば、日本は二度と過去の過ちを繰り返すはずが無い、アフガニスタンにいるアメリカ兵は自分たちとは何の関係も無いと思い込んで、伝統とはほとんど関係の無いクリスマスにお祭り騒ぎをしているとしたら、日本人はより一層おめでたい人々かもしれません。

🎨2010年クリスマス、子供たちに伝えたこと
さて、「資本主義社会の矛盾」と「共同体に属する個人の矛盾」、そんなことを考えながらクリスマスを過ごした筆者も、とりわけよい答えを持っているわけではありません。アメリカのクリスマスの習慣を継承し、たくさんのプレゼントを贈ったり贈られたりしました。家族で過ごす時間を大切にし、まだサンタクロースを信じている子供たちに、子供時代の夢のある楽しいクリスマスの思い出を作ってあげるのも親の務めと思います。でも、同時に、クリスマスに私の心の中にある思い−この記事に書いてきたこと−を少しずつ伝えたり、一緒に考えていくことも親の努めだと思います。どんな風に子供に分かるように伝えていくか。世の中の仕組みが分かるようになるのには時間がかかるし、難しい話をしても混乱してしまうだけ・・・。でも、突き詰めていくと、伝えたいことは実はとてもシンプルなことなのです。

私には、アメリカのクリスマスの原形ともいえる記憶があります。子供の頃に読んだローラ・インガルス・ワイルダー作「大草原の小さな家」の物語に描かれたクリスマスです。第二作「プラムクリークの土手で」の物語の舞台は1870年代のミネソタ州の小さな町ウォールナットグローブ。日中の最高気温が氷点下10度程度にしか上がらない厳しい冬、前回の記事に書いた、西部開拓時代のヴィクトリアン・クリスマスの情景が登場します。

主人公のローラは7歳。イブの夜、ローラは家族と共に町の教会のクリスマス礼拝に出かけます。教会には、天井まで届く大きなクリスマスツリーが飾られ、キャンディー・ケインや松ぼっくりのオーナメント、そして機関車のおもちゃや青い目の人形など、様々なプレゼントが吊るされているのです。でも、ローラの目はツリーの上の方に吊るされた暖かそうな、私の記憶ではピンク色の、ケープ(肩にはおる外套)に釘付けになっていました。あれが私のものだったらどんなに素晴らしいだろうと・・・。ミサの終わりに、牧師さんが順番に子供たちの名を呼んでプレゼントを渡してくれます。そして、それが、ローラにプレゼントされたときのローラの喜びようといったら・・・。

物語には、クリスマスにまつわる楽しいエピソードが他にもたくさん出てきます。メアリーはこっそり父さんに毛糸のソックスを編み、母さんはこっそり古い布切れでローラのために人形を作り・・・クリスマス前は家中が秘密だらけになるのです。みんな、自分へのプレゼント以外の秘密はみんな知っていて、黙っているのに四苦八苦します。モノの乏しかった時代ですから、プレゼントはあり合わせの材料を使った手作りのものでしたが、どんなものでも重宝で大切に使いました。布人形のプレゼントをもらったローラは大喜びし、シャーロッテと名づけたのを覚えています。

インガルス一家は、農業を営むつつましい家庭です。父さんのチャールズは開拓者精神の持ち主で、広い農地を求めて当時まだインディアン・テリトリーだったカンザス州からミネソタ州、サウス・ダコタ州へと馬車で移動します。19世紀後半のアメリカ・インディアンと白人の最後の闘争があった時代です。物語にも実際にインディアンと鉢合わせるエピソードがありましたが、争うことはなく、父さんのタバコをインディアンに差し出す場面が記憶に残っています。

厳しい大自然の中、一家を食べさせ子供を養育すること自体決して楽ではなかった農民の生活、しかも、凍て付く冬の現金収入の乏しい生活は、現代の私たちには想像のつかない過酷なものだったに違いありません。にもかかわらず、物語が私たちの心の琴線を爪弾き温かな感動を呼び起こすのは、様々な困難な中でも揺るがぬ信仰心と勇気、そして家族愛を持って生き抜く人々の姿が活き活きと温かく描かれているからなのでしょう。ごつごつした手の陽気な父さんと、いつも優しく賢い母さん、子供たちは両親の愛情にしっかり包まれていました。少女時代の私は、ローラたちへの親しみと異国への憧れが入り混じった気持ちで、夢中で読みふけったものです。

もう一つ、忘れられない下りがあります。正確には覚えていませんが、クリスマスを迎える頃、母さんとローラがこんな会話をするのです。母さんはこう言います。
「クリスマスは、自分のことではなくて、人のことを考え人のために祈る日なのですよ。」
するとローラは聞きます。
「じゃあ、人のために祈っていたら、いつもクリスマスなの?」
「そうですよ、人のために祈るのならば、毎日がクリスマスですよ」

私の記憶に残る、アメリカのクリスマスの原形・・・それは豪華なツリーでもプレゼントでもなく、母さんがローラたちに伝えたこの言葉そのものだったと思うのです。様々な人間社会の矛盾の中でどのように生きるべきか、という問いの答えは、実はとてもシンプルなことだと気付かされます。「人のために祈るならば、毎日がクリスマス」。子供たちに物語の話を伝え、私自身、毎日少しの時間、周りの人や世界の人々のことを考えて祈りたい、そんな思いをあらたにした2010年のクリスマスでした。


posted by Oceanlove at 14:29| カルチュラル・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月24日

ヴィクトリアン・クリスマスの伝統とアメリカの歴史

🎨ヴィクトリア建築とクリスマス・デコレーション
先週、息子の学校の課外学習に保護者サポーターで参加し、モデスト市のダウンタウンにあるマックヘンリー・マンション(MacHenry Mansion)を一緒に見学しました。マックヘンリー・マンションは、1883年に地元の富豪であり銀行家のロバート・マックヘンリーによって建てられた、ビクトリア様式の瀟洒で美しい2階建ての邸宅です。1972年にモデスト市に寄贈され、大掛かりな修復を経て、外観、内装、調度品なども19世紀後半の当時のままに再現されています。

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室内は1階に応接室、リビングルーム、書斎、ダイニングルーム、キッチン、バスルームなどがあり、2階にはベッドルーム6部屋とバスルームがあります。一般家庭には電気も水道もない時代の、最高に贅を尽くした生活の様子が随所に見られます。当時は炭で暖をとっていたため各部屋ごとに暖炉があるのが特徴です。リビングやキッチンにはガス灯が使われており、天井から鉄製のシャンデリアへとつながったガス管の開閉口を、先端がかぎ状になった長い鉄製の棒を使って開閉し灯をともすのだと、ツアーのガイドさんが教えてくれました。重厚な木彫りの装飾の施されたドアや天井や階段の手すり、キッチンの料理用の鉄製の薪ストーブ、現代のものよりかなりサイズの小さい椅子やベッドなどの家具、婦人が身に付けていたウエストのきつく締まったドレスなどを見ていると、100年以上前にここに住んだ人々の暮らしぶりが生き生きと蘇ってくるようです。

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12月に入ると、マンションはクリスマスの飾りでいっそう豪華さをまし、見学者たちの目を楽しませてくれます。当時は電気が通っていないので、ツリーにはライトがありませんし、町のイルミネーションなども当然ありません。明かりは一部の部屋に設けられたガス灯とキャンドルですから、夜ともなれば、現代の輝くクリスマスの夜景を見慣れた私たちには想像もできない暗さだったことでしょう。絵本の挿絵などで、灯のともされたキャンドルがツリーに掛かっているのを見たことがあります。ツリーに燃え移ると危ないので、手軽には灯りがともせなかったでしょうが、家族団らんの時、またイブの晩など特別な時に灯されたということです。オーナメントは松ぼっくりやとうもろこしの芯を使ったもの、木片を型どった天使、銀製のスプーンなど、今のツリーに比べたら、随分地味で素朴な感じがします。

この建物が建てられた1880年代頃というのは、帝国主義を誇ったイギリスのヴィクトリア朝(1837-1901)の成熟期にあたります。この頃花開いていたビクトリア文化は、ヨーロッパからの移民たちを伝って開拓時代のアメリカへ、そして、ゴールドラッシュのカリフォルニアへと伝わっていきました。今日の私たちが受け継いでいるクリスマスの伝統や習慣も、この頃広まったヴィクトリアン・スタイルが色濃く反映されています。そこで、今回は、ヴィクトリアン・クリスマスを通して、19世紀後半の西部開拓時代のアメリカの姿を振り返ってみました。

🎨ヴィクトリアン・クリスマスとは
ヴィクトリアン・クリスマスを、どんな風に表したらよいでしょうか。ツリーを様々なオーナメントで飾り、エバーグリーンの枝で作ったリースをドアに吊るしたり、階段の手すりや暖炉の回りを飾るなど、豪華なデコレーションでクリスマスの雰囲気を盛り上げます。親しい友人たちにクリスマスカードを送り、贈られたカードを暖炉の棚に飾ります。クリスマス・キャロルを歌ったり、聖書のクリスマス物語を演じる楽しいイベントやパーティーが続きます。貧しい人々に寄付をするチャリティー活動も、ヴィクトリアン・クリスマスの重要な一部です。

でも、これらは12月の初旬から半ば頃までの社交的な催しで、12月24日のイヴと、25日のクリスマス当日は、あくまでも家族皆で祝います。キリスト教徒なら教会のクリスマス礼拝に皆で出席するでしょう。そして家族揃ってクリスマスのディナーを囲み、子供たちだけでなく大人同士でもプレゼントを贈りあい、団欒の時を過ごす・・・現代のアメリカで暮らす私たちが経験するクリスマスの伝統は、ヴィクトリアン・クリスマスそのものと言っても過言ではありません。

筆者の自宅リビングに飾られたツリー


このようなヴィクトリアン・クリスマスの習慣が広まったのは、19世紀のイギリス、ヴィクトリア王朝時代(1937-1901年)です。ヴィクトリア女王と夫アルバートの間には9人の子供があり、結婚生活は幸福なもので、愛情豊かに子育てをしたといわれています。アルバートは、祖国ドイツのクリスマスの伝統をイギリスに持ち込み、室内にツリーを飾り家族と共にクリスマスを祝いました。王室の家族がツリーとキャンドルライトを囲むイラストが、1848年の雑誌「Illustrated London News」で伝えられると、そのスタイルは瞬く間に英国中に広まり、オーナメントで飾られたツリーは、ヴィクトリアン・クリスマスの象徴的存在になっていきました。ツリーを飾る伝統はドイツ系移民たちを通して既に北アメリカにも伝わっていましたが、1850年に先のイラストが「Goody's Lady's Book」という雑誌に載ったのをきっかけに、ツリーを飾る習慣はアメリカでも大評判となりイギリスを凌ぐ大流行となっていったのです。

ヴィクトリアン・クリスマスの初期、19世紀中ごろのオーナメントは、松ぼっくり、ドライフルーツや木の実、ポップコーンで作ったリースやペーパークラフト、手編みの手袋や手作りの人形など、シンプルで素朴なものでした。この時代は、産業革命を経てイギリスを始め西欧の国々の経済が大きく発展し、人々の生活はより豊かで便利なものへと大きく変化していった時代です。大量生産された製品がギフトとして市場に出回るようになり、工場労働などの賃金収入でプレゼントを買い贈ったり贈られたりするという習慣が広まりました。それまでの「身近にあるもの」「手作りのもの」から「買えるもの」「新しい製品」へとクリスマス・プレゼントの習慣を大きく変えていきました。1870年代以降、ビクトリア時代の後期になると、ツリーの飾りつけも豪華さをまし、工場生産された様々な形のオーナメント、キャンドル、ガラス細工の動物やエンジェル、おもちゃの機関車など、時代を反映したものとなっていきました。

🎨開拓者たちのクリスマス
19世紀中頃のカリフォルニアはフロンティア、開拓者たちの町。カウボーイ、炭鉱労働者、農民、牧場経営者、兵士、商人とその家族、様々な人種、宗教、伝統をもつ人々が混沌と共存していました。フロンティアのクリスマスは、それぞれの人種・グループが持ち込んだ特有の伝統が混ざり合い、宗教色の濃いものから次第に家族で祝う祝日へと変質をしていきました。ドイツ移民はドイツの伝統を、イギリス移民はイギリスの伝統を継承しながらも、年に一度の祝日として、子供たちや家族同士でプレゼントを贈り、特別な料理やデザートで祝う年に一度のお祭りとなっていったのです。

といっても、ただでさえ貧しく物質的にも乏しかった西部開拓者たちの生活に、それほど豪華な飾りや贈り物をする余裕があるはずもなく、当時のクリスマスは現代の私たちには想像もつかないようなつつましいものだったかもしれません。オーナメントも、プレゼントも、多くが手作りのもので、砂糖は貴重品だったのでお砂糖を使ったキャンディーやお菓子はまさにご馳走でした。それでも、聖書に書かれたクリスマス物語を読み、クリスマスキャロルを歌い、楽しい家族の時間を過ごすのです。イブのよる、子供たちは暖炉にストッキングを吊るして、ドキドキしながらベッドに入ります。翌朝、見つけるのものは、黒砂糖のお菓子がひと包み、手作りの綿入れの人形、毛糸のソックス・・・そんなシンプルなものだったかもしれません。それでも、子供たちの目は驚きと喜びに輝き、お菓子をほおばったに違いありません。

マックヘンリー・マンションに住んだ富豪も、まだまだ貧しかったも農民たちも、ツリーを囲み、心のこもった贈り物をし、家族や親しい友人たちと団欒の時を過ごした19世紀後半のアメリカの伝統的なビクトリアン・クリスマス。古き良き時代・・・そういってしまうとノスタルジックで何もかも素朴で温かいもののように感じてしまいますが、歴史を振り返れば、その時代は、アメリカ全土で多くの血が流されていた時代でもありました。クリスマスなのに、水をさすようなことを・・・と言われるかも知れませんが、ここであえて19世紀後半のアメリカの歴史を駆け足で振り返ってみます。

🎨19世紀中半ばのカリフォルニア
カリフォルニア州は、1846-48年のアメリカ・メキシコ(米墨)戦争を経てメキシコから割譲され、1850年にアメリカ合衆国の31番目の州となっています。時はゴールドラッシュ期(1848-55年)の真っ只中。一攫千金を夢見て、およそ30万人の人々がカリフォルニアに移り住んだといわれています。東部から移住した人々のうち、およそ半数は南アメリカの最南端ケープタウンを廻る8ヶ月の船旅もしくは、それより少し期間が短縮されるパナマ運河を使う航路で、残りの半数がアメリカ大陸を横断する陸路で6が月近くかけてカリフォルニアを目指しました。パナマ航路は、ジャングルの徒歩での移動を含む過酷なものだったようです。

カリフォルニアを目指したのは白人だけではありません。メキシコ、ペルー、アイルランド、ベルギー、ドイツ、そして中国など世界中から多くの人々が移住しました。ゴールドラッシュ以前は、少数の移民たちが住み着いた小さな町だったサンフランシスコ市の人口は、1848年の800人から1850年には2万5千人に膨れ上がりました。しかし、多くの場合、金儲けの夢ははかなく破れ、もってきた所持金を全て使い果たしてしまうのが現実だったようです。また、苛酷な労働環境のため、せっかくカリフォルニアに辿りついたのに、始めの六ヶ月で5人に一人は命を落としていったとも言われています。メキシコ人や中国人などの移民たちは、その後も人種差別や偏見、重税などにより長期間、苦難の道を歩むことになります。

その後、1861年から1865年にかけて、アメリカは南北戦争を戦っています。ヨーロッパ列強に対抗して工業化と保護貿易で国力増強を進めたいアメリカ北部合衆国と、奴隷制度とプランテーション農業を基盤とした自由貿易維持し、合衆国から独立を目指す南部の州連合国が戦ったのです。これに先立つカリフォルニア州やテキサス州の獲得による領土拡大は、北部に有利に働き、戦争の勃発に少なからず影響を及ぼしました。1962年のリンカーン大統領による奴隷解放宣言はアメリカ史上極めて大きな意味を持つ出来事でした。しかし、北軍の165万人、南軍の90万人が戦い、両軍合わせて62万人の兵士が死亡するという、アメリカ史上最大の戦死者を出した戦争でもありました。そして、産業革命を経たアメリカが、鉄道、テレグラフ通信、蒸気船、大量生産された武器類を大々的に使った戦争であったことも特記すべきでしょう。この後、南北統一を果たしたアメリカは、合衆国として国力を安定・増強させ、西欧列強の一角として世界に君臨することになっていきます。

🎨アメリカ・インディアンの最後
もう一つ、この時代の背景にあるものとして忘れてはならないのが、元々の原住民であるアメリカインディアンたちが強いられた計りつくせぬ大きな犠牲と苦しみです。白人にとって、フロンティア・スピリットとして輝かしいイメージで見られることの多い「西部開拓」は、すなわち、「インディアン掃討」です。1600年代に始まった白人入植から200年以上にわたり銃を武器に持つ白人との抗争、略奪、虐殺などで、多くのインディアンたちが犠牲となり居住地が奪われていきましたが、1860-70年頃には、西部のインディアンたちが一斉に蜂起し、最後の抗争が繰り広げられていました。1876年のモンタナ州リトルビッグホーンの戦いは、数、地理、戦術で勝ったインディアン(スー族やシャイアン族の連合部隊)が、ジョージ・アームストリング・カスター率いる米陸軍第7騎兵隊を打ち破り、カスター以下225名の兵士が戦死しました。あの有名なクレイジー・ホースも参加し、インディアンが白人を破った有名な戦いです。しかし、次第にインディアンの蜂起は鎮圧され、多くの部族が絶滅、保留地へ強制移住の道を辿っていきます。

ゴールドラッシュ時代以降の西部でも、北カリフォルニア、シエラ・ネバダ山系の裾野一帯へと各地に金鉱が拡大するに伴い、インディアンの居住地は次第に奪われていきました。1890年には、サウスダコタ州ウーンデッドニーにおいて、酋長のシハ・タンカ率いるスー族を米騎兵隊が銃撃し、約300人の非武装の老若男女が殺されました(ウーンデッドニーの虐殺)。これを期に、アメリカ政府は、「フロンティアの消滅」、つまりインディアンの掃討が完了し、もはや「未開拓の地がなくなった」ことを宣言したのです。これにより、1622年に始まったとされるインディアン戦争(1622−1890)に幕が下りたのです。

🎨大陸横断鉄道の建設
カリフォルニアのゴールドラッシュに続く大きな事業は、鉄道建設です。アメリカ大陸の東西を結ぶ大陸横断(Trans Continental)鉄道の建設が開始されたのは1863年のことです。サクラメントから東方向への建設を請け負ったのがセントラル・パシフィック鉄道会社、一方、ネブラスカ州オマハから西方向への建設を請け負ったのがユニオン・パシフィック鉄道会社でした。セントラルパシフィック鉄道では、西部の鉄道建設に合計1万2千人を雇いましたが、その9割が中国人、1割がアイルランド系移民でした。多くは、ゴールドラッシュ期にやってきた炭鉱労働者です。中国人は体力が弱くて肉体労働には役に立たないだろうという当初の予測は外れます。労働力不足を補うため、鉄道会社がわざわざ中国までリクルートに行き、低賃金で雇われた中国人たちが続々とカリフォルニアにやってきました。

東西両地点からからアメリカ中央部に向かって建設が進んだ鉄道は、6年の歳月をかけて2000マイル(3200キロ)が繋がります。1869年5月10日、機関車がユタ州の「最後のとんがり」と呼ばれるのユタ州プロモントリー峰標高(1494メートル)を無事通過した時点で、世紀の大事業は完成を見ます。これにより、それまで郵便の運搬に早くても一ヶ月、人の移動(カリフォルニア・トレイル、オレゴン・トレイルなど)には馬車で6ヶ月かかっていた東西の通信が、共に8日間に短縮されたのです。東西間の人とモノの移動を格段に早め、西部の経済発展を大きく貢献した鉄道建設は、アメリカの19世紀におけるもっとも輝かしい偉業のひとつと言えるでしょう。

次回へ続く・・・
posted by Oceanlove at 15:42| カルチュラル・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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