さて、前回の記事「ヴィクトリアン・クリスマスの伝統とアメリカの歴史」では、現代に繋がるヴィクトリアン・クリスマスの伝統をご紹介しながら、ゴールドラッシュ、南北戦争、インディアンの最後、鉄道建設と、19世紀後半のアメリカの出来事を駆け足で振り返ってみました。こうして改めて歴史を眺めてみると、おびただしい汗と血が流され何千何万の人々の犠牲の上に、アメリカは変化と発展を遂げ、今の私たちの社会が形作られてれてきたことが分かります。そして、ふと気付きます。このような変化と発展の歴史の只中においても、人々は毎年クリスマスを祝う行事を繰り返してきたのだ・・・と。最前線で戦争を闘った兵士たち、西部開拓の労働者たちやその家族たちは、それぞれどんな思いで毎年クリスマスというひと時を過ごしてきたのでしょうか・・・。
そんなことに思いを馳せながら迎えた、2010年の私たちのクリスマス。各家庭のクリスマスデコレーション、町やショッピングモールを彩る巨大なツリーやイルミネーションは、(不況のさ中にあるとはいえ)究極の豊かさを謳歌する現代のアメリカのミドルクラスの象徴のようです。輝く光を見ていると、どこからともなく湧き上がってくるのが、私たちもまた歴史の只中にいるのだ・・・という思いです。変化と発展は終わったわけではなく、おびただしい汗と血の流れる歴史は21世紀の今も続いているという事実。私たちがこうしてクリスマスを迎えている今現在も、世界のあちこちで戦争や闘争が続いているという事実です。
「クリスマス」と「人々の汗と血のにじむ歴史」。両者は何とも不似合いで、組み合わせて語ることには違和感を禁じえないかもしれません。なんとなくクリスマスムードに水を差すような話には目を背けたいのが人情かもしれません。クリスマスは、家族皆で楽しい時を過ごす伝統の祝日・・・それでいいではないかと。でも私にとって、クリスマスのこの時期ほど、人間社会の様々な矛盾と、その中で人生をどう生きるべきかといった大きな問いを意識しないときはありません。より明るい日差しの下では自らの影がより濃いように、明るく楽しいクリスマスを演出すればするほど、その正反対のもの、影に包まれたものの存在が心に迫ってくるのです。
そこで、私が感じている「人間社会の様々な矛盾」を、「市場主義経済によって生きる矛盾」と「共同体に属する個人の矛盾」の二つに絞ってしばし触れてみたいと思います。
🎨市場主義経済によって生きる矛盾
「市場主義経済によって生きる矛盾」とはどういうことでしょうか。我が家のツリーの下に積まれているとても家族4人分とは思えないプレゼントの山は、消費社会の象徴です。普段から、必要十分なモノに囲まれながら生活している現代のアメリカのミドルクラスの私たちに、もうこれ以上贈り物など必要がない、無駄な消費は止めにしようなどと言えば、クリスマスの楽しみもなくなってしまうかもしれません。しかし、いったいどれほどのモノがいるというのでしょう?現代の私たちは、必要があるから贈っているのではなく、必要はなくても贈る習慣だから贈っています。生活必需品であればクリスマスでなくとも購入するわけで、家電製品にしても日用品にしても、無くても困らないけどあれば嬉しい、生活をより豊かにしてくれるというのが現代の贈り物です。
比べるのもおかしな話ですが、19世紀の労働者なら靴の底が擦り切れてきたけれど今は我慢してクリスマスに新調しようとかいう話だったのが、現代人なら、ゲーム機のニュー・バージョンが出たから買おうとか、彼はゴルフが趣味だからもう一本ゴルフクラブをプレゼントしよう、などという贅沢な話になるわけです。より多機能、より便利、高品質なものにどんどん買い換えたり豊富に揃える、そういう時代です。買って数年しかたっていなくても修理する部品がなかったり、修理するより新製品を買ったほうが安くつく場合さえあり、モノを大切に長く使うという心がけにも、昔ほどの価値はなくなってきています。
しかし、「クリスマスのプレゼントなどいらない」、「こんな無駄な消費は止めにしようではないか」という考え方は、ある意味、私たちの市場主義経済がよって立つ基盤と矛盾します。グローバル経済においては、技術革新や新市場の開拓で売れるモノやサービスを作り続けなければ、企業は淘汰されていきます。企業経営が成り立たなければ雇用が確保できず、人々の生活基盤はたちどころに崩れていきます。
2008年以来の世界的不況で、現在アメリカ全体の失業率は9.3%、カリフォルニア州では12.4%です。親が失業した家庭では、失業手当てで何とか生活を切り詰めて凌いでいますし、家のローンが払いきれずに家を失ってしまった家庭もあります。職探しを数ヶ月、数年続けても再就職できず、子供が4年制大学へ行く道をあきらめ、コミュニティーカレッジへ進学したり、フリーターになったりするケースを身近に見てきました。
アメリカでは従来、小売業界の年間売り上げの25%−40%を占めるのが感謝祭以後のクリスマス商戦でした。この時期に消費者がプレゼントやサービスにどんどんお金を使うことが、雇用の確保につながり、雇用が維持されれば消費にまわる、そうして経済は回り続けてきたのです。つい最近までの多重ローンによる消費や不透明な金融商品の横行など、「度が過ぎた」近年のアメリカの金融システムが大不況を引き起こしたことは疑いの余地もありません。でもそこまで「度が過ぎない」までも、私たちの社会と暮らしの基盤である市場主義経済はイコール利益至上主義で、それによってどんな結果(例えばエネルギー問題、格差の広がり、環境汚染など・・・)がもたらされようと、消費者マインドを狂気的なまでに掻き立てて消費を拡大させていくことが至上命題となるのです。無駄な消費はいらないといってしまえば、それによって立つ社会基盤が崩れる、それが「市場主義経済によって生きる矛盾」です。
ところで、クリスマスには、子供たちが両親からだけでなく、叔父・叔母、祖父母などからもたくさんのプレゼントをもらう習慣のあるアメリカでは、一人の子供が3つも4つも、多ければ10個も20個ものプレゼントの包みを贈られます。これは、同じ消費社会とはいえ日本とは大きく異なり、「プレゼントは何か欲しいものは一つ」といって育てられた私には、特に馴染めない習慣です(このことについては、過去の記事「クリスマスプレゼントをめぐる考察」
(1)驚くべき習慣
(2)プレゼントをめぐる葛藤
(3)見事玉砕!変えられない習慣
(4)葛藤からの開放、そして本当のクリスマスで詳しく書いています。)とにかく、アメリカの子供たちは、何が欲しいのかさえ分からない幼児のうちからおもちゃの洪水を浴びせられ、分別も付かないうちからありとあらゆるモノに囲まれて育っています。
しかし、ファッション、趣味、エンターテイメント・・・快適で満足のいくライフスタイルを送るために、金銭とエネルギーと資源を費やしているのは私たち大人。子供にモノを与えすぎはよくないとか、甘やかせることになるとか、そういう議論はもはや成立しにくくなっています。次々に物を買い替え、使っては捨てて、常に新しい製品を作り出す行為を繰り返すことに、個人としては抵抗を感じていても、全体としては市場主義経済に巻き込まれ、そのシステムは肯定され続けているのが現代の社会なのです。
🎨「共同体に属する個人の矛盾」
もう一つの「共同体に属する個人の矛盾」とは、簡単に言えば、個人は、国家や人種や宗教といった共同体に属する限り、共同体の意思決定から逃れられないというような意味です。
12月25日、米軍駐留が今年で最後となるイラクでは4万8千人、そして今も戦闘や暴動の続くアフガニスタンでは約10万人のアメリカ兵たちがクリスマスを迎えました。オバマ大統領は、クリスマスを過ごしているハワイから、アフガニスタンをはじめ世界各地の米軍基地に駐留する兵士とその家族に向けて、国への奉仕を労う感謝のメッセージを伝えました。また同日、デイビッド・ペトレイヤス米最高司令官が、アフガニスタン西部ファラ州にある米軍基地をクリスマス訪問したこともニュースで大きく伝えられました。全米各地のキリスト教会のクリスマス礼拝でも、軍人とその家族への祈りが捧げられます。アメリカ人にとって、祖国のために戦地でクリスマスを迎える兵士たちへの感謝の気持ちや、その家族らを思う気持ちというのは格別なものがあるのです。
それにしても、キリストの誕生を祝い家族団欒の時を過ごすクリスマスと、人間同士、国同士がいがみ合い殺し合う戦争ほど相反するものが、この世にあるでしょうか。アフガニスタンにおけるアメリカ兵の死亡者は1,424人、他の同盟国の兵士、アフガンの兵士と民間人を合わせたアフガニスタンでの犠牲者数は合計1万9,600人です。イラク戦争では、2003年から7年間でアメリカ兵だけでも4,417人のが死亡しました。同盟国の兵士、イラク人兵士と民間人合わせた犠牲者は90万人を超えると言われています。おびただしい血が流されている事実は、過去の歴史においても21世紀の今も変わりません。
クリスマスや信仰心と戦争を結びつけるなんて変でしょうか?クリスマスに兵士たちの無事を願う気持ちは皆同じ、それでいいのかもしれません。でも、自分の家族や友人さえ・・・アメリカ人なら、祖国を守ってくれるアメリカ兵さえ無事だったらいいとは、誰も言わないでしょう。キリストの救いは白人だけのものではなく、キリストは全ての人々に愛し合いなさいと教えたのではなかったでしょうか?その「全ての人々」には、白人も黒人もインディアンも、外国人も異教徒も、みな含まれているはずではなかったでしょうか?現代のクリスマスは宗教色は薄れ、富める者も貧しい者もキリスト教徒も異教徒も、家族や友人と楽しいひと時を過ごす祝日となりました。ですから、アメリカ兵のためだけでなく、アフガン兵や銃弾の飛び交う町で暮らすアフガンの人々や、世界の貧しい国の人々や、すぐ側にいるホームレスの人々のことを考え、祈るべきではないですか。
神の名のもとに異教徒を迫害し戦う時代は、歴史の彼方に過ぎ去ったと思うのは錯覚で、戦争と切っても切れない人類の歩み。国家権力と結びついたキリスト教が、異教徒を容赦なく迫害してきた歴史は今も繰り返されています。いや、それは違う、これは対テロ戦争なのだと、21世紀の私たちはテロリストという新しい敵と戦っているのだと言われるかもしれません。しかし、テロリストという新しい敵はどのようにして発生したのか、なぜ私たちの敵とみなされているのかということについて、深く考えてみたことはありますか?
戦地に赴いている兵士たちを責めるつもりでは毛頭ないのです。彼らが他の人間に銃を向けているとしても、いったい誰が彼らを責められるでしょうか。自宅の暖かなリビングルームで団欒の時を過ごしている私たちは、自分たちの代わりに彼らを送り出し、直接手を下していないだけだなのです。それが過言というのなら歴史を見てください。インディアンの居住地を奪う虐殺の戦いに直接加わっていなかったとしても、開拓地に住み着いた白人たちは皆インディアンを迫害をした勢力の一部だったことに変わりはありません。兵士たちも、私たち一般市民も国家という共同体の一部なのです。
キリストの教えた愛と救いの教えを信仰しクリスマスを祝いながら、異国に侵略し人を殺す戦争を続ける・・・。なぜ、人類はこんな相反する二つの行為を続けられるのか、そんな素朴な疑問を感じることがあります。でも、それは、私たちがある共同体に属する以上、強力な共同体の意思決定から逃れることはできない「共同体に属する個人の矛盾」です。いや、民主主義国家では、個人の意思が反映されたものが共同体の意思だと言うかもしれません。しかし、民主主義はいつも正しい選択をするとは限らず、時に非情な結果をもたらします。例えば、他国への攻撃が民主主義による意思決定の段取りを踏んだとして、仮に51対49の僅差であっても賛成派が多数であれば、49%の反対の声は歴史にとってはほとんど意味の無いものになってしまうのですから。民主主義の欠陥に私たちはもっと敏感になるべきでしょう。
今日の私たちが戦っているのは、19世紀的な帝国主義や領土拡大を目的とした国家同士の戦争ではありません。豊かな生活を送り続けていくための、エネルギー、地球資源、金融、情報、科学技術などの獲得と支配を目的とした地球の覇権をめぐる争いです。そして今日、国家のみならず、人種、宗教、エリート集団、テロリストといった様々な共同体の意思決定が大きく交錯しています。安全で便利で豊かな生活を送りたいのなら、その共同体は争いを勝ち抜いて地球の覇権を獲得するか、獲得した国の仲間になり対価を払って分け前をもらうかしかない・・・。
個人として戦争反対を主張し、世界中に軍事戦略を展開する共同体(アメリカのような国)を批判することもできますが、その共同体から恩恵を受けているのも個人ですから、そこには明らかな矛盾があります。日本人もアメリカ人も、属している共同体の意思決定から逃れることはできないという矛盾におかれた個人の宿命は同じかもしれません。ただ、付け加えるとすれば、日本は二度と過去の過ちを繰り返すはずが無い、アフガニスタンにいるアメリカ兵は自分たちとは何の関係も無いと思い込んで、伝統とはほとんど関係の無いクリスマスにお祭り騒ぎをしているとしたら、日本人はより一層おめでたい人々かもしれません。
🎨2010年クリスマス、子供たちに伝えたこと
さて、「資本主義社会の矛盾」と「共同体に属する個人の矛盾」、そんなことを考えながらクリスマスを過ごした筆者も、とりわけよい答えを持っているわけではありません。アメリカのクリスマスの習慣を継承し、たくさんのプレゼントを贈ったり贈られたりしました。家族で過ごす時間を大切にし、まだサンタクロースを信じている子供たちに、子供時代の夢のある楽しいクリスマスの思い出を作ってあげるのも親の務めと思います。でも、同時に、クリスマスに私の心の中にある思い−この記事に書いてきたこと−を少しずつ伝えたり、一緒に考えていくことも親の努めだと思います。どんな風に子供に分かるように伝えていくか。世の中の仕組みが分かるようになるのには時間がかかるし、難しい話をしても混乱してしまうだけ・・・。でも、突き詰めていくと、伝えたいことは実はとてもシンプルなことなのです。
私には、アメリカのクリスマスの原形ともいえる記憶があります。子供の頃に読んだローラ・インガルス・ワイルダー作「大草原の小さな家」の物語に描かれたクリスマスです。第二作「プラムクリークの土手で」の物語の舞台は1870年代のミネソタ州の小さな町ウォールナットグローブ。日中の最高気温が氷点下10度程度にしか上がらない厳しい冬、前回の記事に書いた、西部開拓時代のヴィクトリアン・クリスマスの情景が登場します。
主人公のローラは7歳。イブの夜、ローラは家族と共に町の教会のクリスマス礼拝に出かけます。教会には、天井まで届く大きなクリスマスツリーが飾られ、キャンディー・ケインや松ぼっくりのオーナメント、そして機関車のおもちゃや青い目の人形など、様々なプレゼントが吊るされているのです。でも、ローラの目はツリーの上の方に吊るされた暖かそうな、私の記憶ではピンク色の、ケープ(肩にはおる外套)に釘付けになっていました。あれが私のものだったらどんなに素晴らしいだろうと・・・。ミサの終わりに、牧師さんが順番に子供たちの名を呼んでプレゼントを渡してくれます。そして、それが、ローラにプレゼントされたときのローラの喜びようといったら・・・。
物語には、クリスマスにまつわる楽しいエピソードが他にもたくさん出てきます。メアリーはこっそり父さんに毛糸のソックスを編み、母さんはこっそり古い布切れでローラのために人形を作り・・・クリスマス前は家中が秘密だらけになるのです。みんな、自分へのプレゼント以外の秘密はみんな知っていて、黙っているのに四苦八苦します。モノの乏しかった時代ですから、プレゼントはあり合わせの材料を使った手作りのものでしたが、どんなものでも重宝で大切に使いました。布人形のプレゼントをもらったローラは大喜びし、シャーロッテと名づけたのを覚えています。
インガルス一家は、農業を営むつつましい家庭です。父さんのチャールズは開拓者精神の持ち主で、広い農地を求めて当時まだインディアン・テリトリーだったカンザス州からミネソタ州、サウス・ダコタ州へと馬車で移動します。19世紀後半のアメリカ・インディアンと白人の最後の闘争があった時代です。物語にも実際にインディアンと鉢合わせるエピソードがありましたが、争うことはなく、父さんのタバコをインディアンに差し出す場面が記憶に残っています。
厳しい大自然の中、一家を食べさせ子供を養育すること自体決して楽ではなかった農民の生活、しかも、凍て付く冬の現金収入の乏しい生活は、現代の私たちには想像のつかない過酷なものだったに違いありません。にもかかわらず、物語が私たちの心の琴線を爪弾き温かな感動を呼び起こすのは、様々な困難な中でも揺るがぬ信仰心と勇気、そして家族愛を持って生き抜く人々の姿が活き活きと温かく描かれているからなのでしょう。ごつごつした手の陽気な父さんと、いつも優しく賢い母さん、子供たちは両親の愛情にしっかり包まれていました。少女時代の私は、ローラたちへの親しみと異国への憧れが入り混じった気持ちで、夢中で読みふけったものです。
もう一つ、忘れられない下りがあります。正確には覚えていませんが、クリスマスを迎える頃、母さんとローラがこんな会話をするのです。母さんはこう言います。
「クリスマスは、自分のことではなくて、人のことを考え人のために祈る日なのですよ。」
するとローラは聞きます。
「じゃあ、人のために祈っていたら、いつもクリスマスなの?」
「そうですよ、人のために祈るのならば、毎日がクリスマスですよ」
私の記憶に残る、アメリカのクリスマスの原形・・・それは豪華なツリーでもプレゼントでもなく、母さんがローラたちに伝えたこの言葉そのものだったと思うのです。様々な人間社会の矛盾の中でどのように生きるべきか、という問いの答えは、実はとてもシンプルなことだと気付かされます。「人のために祈るならば、毎日がクリスマス」。子供たちに物語の話を伝え、私自身、毎日少しの時間、周りの人や世界の人々のことを考えて祈りたい、そんな思いをあらたにした2010年のクリスマスでした。