福島第一原発の事故は、福島周辺に住む人々の命や健康を大きな危険にさらし、精神的にも経済的にも大きな苦しみをもたらしました。放出された放射性物質は美しい自然環境を汚染し、農業・牧畜・漁業などを含む人々の生活の基盤を奪い、その影響は日本各地そして世界中に広がっています。日本中の人々が、初めて、身をもって原発の恐ろしさ、危険性を実感しています。
現在稼動中の日本中の原発について、速やかな安全点検が行なわれ、地震や津波などのリスクの高いものについては即刻停止するなど、短期的な対策が早急に採られなければなりません。同時に、代替エネルギーへの転換や、長期的視点にたった将来の日本のエネルギー政策について議論していく必要があります。原発を維持していくのか、それとも原発脱却という大転換を図っていくのか。これは国民の生活と国の将来に関わる重大な問題です。一人一人が真剣に考え、議論し、将来の日本のために最善の方法を選択していかなければなりません。
その議論の前提として、まずは事故原因の徹底究明がなされなければなりません。当然のことながら、事故の直接的原因は、莫大な利益をもたらす原発の管理・運営に関わりながら、国民には「安全神話」を刷り込み、地震や津波への万全の備えを怠ってきた東電と政府組織の怠慢・過失にあります。でも、私はあえて今回、私たち自身に疑問を突きつけ、事故を起こしてしまった原因と背景の中に、私たち国民側に改めるべき部分はないだろうかと考えてみました。
そこから、浮かび上がってきたのが今回のテーマ「有権者の責任と日本社会の構造的問題」です。また、福島原発の事故問題は実は原発だけの問題ではなく、背後には日本社会に蔓延している構造的問題があるということについても、問題提起をしたいと思います。私たちが冷静に「有権者の責任」を検証することは、今後の原発をめぐる議論やエネルギー政策が本当に国民の意見が反映されたものとなるために、ひいては、これからの日本を、公正で人の命を大切にする本当の意味で豊かな国にしていくために必要不可欠なことであると考えるからです。
🎨国民の側にある問題とは
「事故原因は、自然災害の危険性を甘く見積もり、原発の安全管理を怠ってきたことによる人災である」
「事故の責任は政府や東電にある」
「事故後の政府の後手後手の対応に、被災者は更なる苦痛を強いられている」
このように感じている国民はたくさんいます。原子力保安院や東電の会見を見ていても、どこまで本当なのか、信じるに足る情報なのか、とても困惑させられる場面がたくさんあります。実際、私たちには事実を知る術はなく、それらの会見を基にしたニュース報道がすべてですが、政府でさえ事実関係が掌握できていないのが実態なのではないか、事を荒立てないために伏せていることがあるのではないか・・・、多くの人々がそんな疑いを抱いてしまうのも不思議はないと思います。それが私たち一般国民の直感、善良で常識的な多くの人々の感覚であり、批判の矛先はひとえに政府と東電に向けられています。
しかし、事故をもたらした間接的な原因に、私たち国民一人一人も全く無関係とは言えないと、私は考えています。そのように考えるわけは、事故が起きるまで、私たち国民のほとんどは原発について関心を持っていなかった事実を今痛烈に思い知らされているからです。湯水のように使ってきた電力がこれだけ原子力に頼っていたということに今回はじめて気付いた人は、私を含めてどれほどいるでしょうか。平常に安全に運転されていて恩恵を受けているときは何も言わず、事故が起きた今になって東電と政府を責めているのが私たちです。原発周辺の人々に向けて言っているのではありません。東電の原発の電力で生活してきた首都圏の人々、家電、パソコン、携帯、交通、商業活動・・・原発エネルギーを当たり前に使う豊かな生活をおくってきた日本中の人々に当てはまることです。だからこそ、あえて私は国民の側に改めるべき部分はないだろうかと、冷静に考えてみるべきだと思うのです。
当然、東電や官僚たちには一般市より遥かに大きな直接的過失と責任があります。例えば、過去の事故の際にも情報を十分に公開してこなかったこと、国会議員の原発に関する質問を適当に受け流し、徹底した安全対策の見直しをしなかったこと、また、危険回避や安全対策より企業利益を優先する判断をしてきた組織のあり方そのものであり、国民の目に不透明なシステムです。
しかし、私たち国民はどうでしょうか?何をしたでしょうか?または何をしなかったでしょうか?過去の事故に際しても、原発周辺の住民以外の国民はそれほど危機感を持つことはなく、市民レベルで徹底検証をするという大きな動きも見られませんでした。幾度となく起きていた小さなミスや事故も、原発推進の政府と業界関係者の恩恵が守られるような形で丸く納められてきました。
🎨事故の遠因となった国民の無関心・無責任
私たちは何もしていない、単なる消費者だ、事故とは関係ないと、責任などあるわけがない、と言われるかもしれません。でも、「何もしていない」「私は関係ない」という態度が、実はめぐりめぐって、利益を優先するような企業体質、政府と電力会社の馴れ合い関係を温存させ、安全管理や危機感の欠如を蔓延らせる遠因となったと私は主張しなければなりません。更に言えば、別に悪意などなく普通に生活を送り、電気を当たり前に使ってきた日本中の人々が、原発周辺の人々の生活の基盤と糧を奪い苦しみをもたらした事故の発生に、いくらかでも加担してしまっていたのだと、私は自責の念を込めて言わねばなりません。
なぜそのように考えるのか。一般論になりますが、私は時として、有権者の政治に対する姿勢を疑問に思うことがあります。私たちは往々にして政府や政治家への批判を口にします。当然のことながら言論の自由は守られなければなりません。しかし、ある政策が自分に恩恵をもたらしている時は、特定の政治家や政党とのぬくぬくとした関係や、小さな過失や抜け穴も見過ごすような馴れ合いの関係が保っていながら、風向きが悪くなると手のひらを返すような行動をとることはないでしょうか。また、ある政策から恩恵を受けている時はその政策の欠点には目もくれないでおいて、何か問題が起きたとき、欠点を見過ごしていたのは政府だったと一方的に責めるようなことは・・・?このようなことが起きているとしたら、これは有権者として極めて無責任な態度だと言わざるを得ません。
福島原発に関しても、同様のことが言えます。これまで安全に運転されていた時には当たり前のように電力を消費し、過去の事故の際にも問題意識を持たず、政府と電力会社と馴れ合いの関係を間接的に許してきた私たち国民が、事起きてから「事故は、安全管理を怠った政府や東電の責任だ」と短絡的に責めるのは、それは少し虫がいいのではないかということです。当然、何度も繰り返しますが、直接的過失は政府や業界側にあります。しかし、私たち国民は、すべてをお役所任せにせず、安全神話を鵜呑みにせず、もっと原発の安全性について意識を高く持つべきだったのではないでしょうか。過去の事故について、市民レベルで徹底的に検証することもできたはずです。一般市民には見えにくい馴れ合いの癒着構造についても、批判するだけではなく、市民運動を起こして徹底的に追及することもできたはずです。
🎨国会議員が発していた警告
そのような原発の安全性を追及する活動を、過去十数年間にわたり、国会の場で行なってきた議員がいました。共産党の吉井英勝議員です。数多くの質問趣意書を提出したり、予算委員会、経済産業委員会などで繰り返し質問に立ってきました。このことは事故後すぐにニュース等でも取り上げられましたが、改めて、実際にどのような質問がされ、政府によるどのような回答がなされていたのか、以下に3つ例を挙げてみました。
耐震性能の実験施設について
2005年10月31日、吉井議員は「原発の危険から国民の安全を守る事に関する質問趣意書」を提出しています。この質問は、多度津にある耐震性能実験を行っていた工学試験所が閉鎖された件に関してです。この試験所の大型高性能振動台を使って行われていた耐震性能実験は、経済的理由で2005年3月末で終了し、同年9月には試験所は閉鎖されました。質問の要点は、「運用開始後30年たっている老朽原発の巨大地震発生時の安全性の検証は多度津の起振台を使って実証実験を行うことにより、これから解明されていかなければならない問題である」とし、「来年度以降も引き続き多度津の起震台を運用して巨大地震対策に必要な実証実験を行う考えに立つべきではないか」ということでした。
それに対する当時の小泉総理大臣の回答は、「必ずしも多度津の振動台を用いた実物大の試験体による試験を行わなくても、他の研究機関の試験設備による試験、及びその試験結果のコンピューター解析によって、安全上重要な設備の地震時の挙動を把握することが十分に可能である」というものでした。
吉井議員は、その後2006年3月1日の衆議院予算委員会でも多度津の試験所の件を追求しています。建設時には310億円で国の補助金と税金で建設したものが、2億7700万円で売却されていたことを指摘し、「年間僅か10億円のこれを維持する技術屋さんらの給料が、節約しなきゃいけない、行革だといって切ってしまったんですね。しかし、年間一千億近い原発立地地域の三法交付金からすれば、10億ぐらい安いものだと思うんですが」と述べています。しかし、既に施設は売却済みで、手の打ちようがありませんでした。
津波で冷却設備が被害を受ける可能性について
2006年3月1日の衆議院予算委員会で、吉井議員は、地震による津波発生時の冷却機器の作動についても質問しています。発電所に進入してくる高波によって冷却設備が水没する可能性と共に、引き波によって海面が冷却水の取水口より低下し、水が取り込めなくなる可能性を危惧したためです。「すべての原発のそれぞれの取水口の位置と、波が引いたときの海水面の高さが標準水面からいくら下に来ているのかの関係を明らかにして、巨大地震の発生時にも機器の冷却がうまくいくのか、国内のすべての原発について示せ」と迫りました。
それに対する広瀬研吉・原子力保安院長の回答は、「水位が6メートル低下した場合には44基が一時的に下回る」が、取水槽等によりより必要な海水を取水できるよう設計されている、原子炉隔離時冷却系統により原子炉を冷却できる対策が講じられている、と答えています。また、浜岡原発の例では、冷却系に必要な量の海水が取水層に20分間分以上確保されていて、その間に水位が回復するので安全性は確保されている、とも答えています。要するに、冷却設備に問題はないということです。
炉心溶融の際の被曝被害のアセスメントについて
更に、2010年4月9日の衆議院経済産業委員会においては、炉心溶融が起こった場合の想定される放射能の総量と、被曝の及ぶ地域の範囲についての質疑も行なわれました。吉井議員は、「被曝量が7シーベルト以上の地域は何キロの範囲で、そこに住んでいる人口はどれくらいか、(略)、1シーベルトから0.25シーベルトの場合、その範囲はそれぞれ何キロで、居住している人口はいくらかと、きちんとアセスメントを行なっておく。それに対していろいろな対策も考えなきゃいけない」「これは各電力会社にそういう試算を行いなさいという指示を出すことが必要ではないか」と訴えています。
これに対し、直島正行・国務大臣の返答は、「多重防衛でしっかり事故を防いでいく、いわゆるトラブル等があっても、委員が御指摘のようなメルトダウンを起こさない、このための様々な仕組みを作っていくということです」「御指摘の点は、論理的な面で言うとそういうものを検討してみてもいいじゃないかということについては私も論理的には理解できます。(略)今日のところは、吉井先生からの問題指摘ということで受け止めさせていただければと思います」というものでした。同様に、寺坂信昭・原子力保安院長も、多重防護で安全確保をしている、といった答弁に終始しました。要するに、アセスメントは必要ないということで、最悪の事態が起きた場合の被害予測をし、その対策を講じようという姿勢は見られなかったのです。
🎨有権者として目を光らせていなければならないこと
私たち国民の代表である国会議員がそのような立派な議員活動をしていたにもかかわらず、議員の活動や発していた警告を、私はほとんど知りませんでした。そのことを痛烈に反省しています。私を含め、多くの人々が知らなかった、または注意していなかったことは、極めて遺憾なことであり一人一人が重く受け止めなければならないと思います。
もちろん、国会で行われる討論の一部始終を私たちがすべて把握することはなかなか困難です。そのために、報道メディアというものがありますが、大手の新聞でもテレビでも、私が知る限り吉井議員の質問のことを大きく取り上げることはなく、国民に知れ渡ることも波紋を呼ぶこともありませんでした。政府にとって都合が悪いことをわざわざ取り上げたり、問題を掘り起こすようなことはしないのが日本の大手マスコミの傾向ですから、それも無理はありませんが。もちろん、マスコミ報道のすべてが歪んでいるというわけではありませんが、よくよく眼を凝らして見ていくと、誰をどのように批判するか、何をどこまで追及するかは、マスコミのさじ加減一つの場合もあります。いずれにしても、私たちが忘れてはならないのは、マスコミで報道されていること、日々取り上げられていることがすべてではないということです。ニュースに取り上げられず、あまり知られていないけれども、実は国民一人一人にとって重要な案件というのはたくさんあるのです。原発問題は、この落とし穴の中にありました。
本当に大切なことを見逃さないために、私たち市民はもっと目を光らせていなければなりません。私は、「報道されなかったから知りませんでした」では済まされない有権者としての責任が国民一人一人にあると考えています。これは、政府や東電の負っている責任とは異なる種類のものです。例えば、国会の議事録は今では誰でもネット上で簡単に閲覧できます。もちろん、国政の一部始終を一般国民が把握することは難しいでしょう。それに官僚と業界の癒着などという裏舞台のことは、個人の立場で追及することは困難です。
でも、国民の代表である国会議員には、国がやっていることは何かおかしい、と思ったならそれを調査したり国や大臣に直接質問したりできる権限があります。ですから、私たちは有権者として自分たちが選んだ国会議員たちの活動を注意深く見守らなければないのです。にもかかわらず、吉井議員が執拗なほどに追求していた原発の安全性に関する質疑に注意を払ってこなかった私たちには、極めて大きな反省点があることに気付かなければなりません。
🎨日本社会の構造的問題
既に述べましたが、原発の安全性を市民レベルでよく見定める努力を怠り、原発周辺に住んでいないからと人ごとで済ませたり、マスコミで薄められた報道でなんとなく安心してしまっていた国民の無責任・無関心、有権者意識の低さは、結果として、行政の怠慢や過失を招く組織のあり方、利益優先型の官・政・業の癒着を許容してきた、そういう構図がはっきり見えてきました。ここに、日本社会の構造的問題があると私は考えます。
世論調査では、福島原発の事故に対する政府の取り組みに対しては、「まったく評価しない」(23%)と「あまり評価しない」(45%)と合わせ、否定的な回答が68%に上っています(4月18日 毎日新聞)。確かに、事故後の政府や東電の後手後手に回った対応は、誰が見てもあきれます。今の日本のリーダーが危機対応能力に欠けているのは実に不幸なことで、被災している方々の思いを考えると言葉にもなりません。
しかし、だからといってそれだけで菅さんや枝野さんを責めても仕方がありません。現政権を擁護するわけではありませんが、仮にトップの顔を変えたところで、根本的な解決にはならないでしょう。そもそも、今回の人災を起こしたのは、原発推進派の自民党政治家や官僚たちであり、今の民主党政権の人物が直接関わっていたわけではありません。自民党時代の原子力政策を受け継いだだけの菅政権に、このような事態に対応できる準備ができていたはずもありません。もちろん、問われているのは災害・復興への対応や原発事故処理です。どこまでこの根本的な構造的問題をえぐり出し、責任を追及出来るかが問われているわけですが、党内分裂寸前、空前の灯火の政権では、望むべくもないでしょう。既に災害以前から倒壊一歩手前の内閣でした。
しかし、私は、日本の政治をこのような腰抜け、骨抜きなものにしてきてしまった原因は、やはり、私たち国民にその責任の一端があると考えています。先ほどの、日本社会の構造的問題は今しがたはじまったものではありません。戦後の廃墟から立ち上がり、昭和の高度経済成長を遂げ先進国の仲間入りをし、そして人口高齢化と共に新たな問題を抱えた21世紀の日本。しかし、この世紀以上にわたる歩みを経た今、私たちは本当の意味で成熟した社会、公正で人の命が尊重される豊かな社会を実現することはできていません。
社会を構成する様々なより糸が丹念に編みこまれて国家という美しいタペストリーを作り出す代わりに、完成予想図すら描かれないまま、かといって元通り糸を解きほぐすこともできずに未完成な姿を晒しているのが今の日本です。その解きほぐすことが不可能なまでに固く絡まり既成事実化してしまっている編み目、それが、いわば日本社会の構造的問題です。
🎨新たな国のタペストリーを織り成すために
私たちが気付かなくてはいけないことは、この日本社会の構造的問題により、国民自身が不利益を被むるであろう事態は、原発に限らないということです。私たち国民に見えていないだけで、今回のような危険な落とし穴は他にもあるかもしれない、それを危惧しています。まずこの社会の構造的問題に私たち有権者たちが気付き、その上で何をすべきかよく考えて行動し、それが政治に影響を及ぼす力となっていかない限り、この社会構造は変わることはありません。また、それが変わらない限り、何か別の問題が私たちが忘れた頃に別の形で持ち上がり、再び私たち国民の首を絞めることになるでしょう。
政治家・官僚・業界が持つ権力というものは自然になくなることはありません。権力は、それを抑制する力がなければ横行するという、ごく単純な力学です。そして、抑制する力とは、言論の自由、有権者意識の高さ、そして国民の行動力だと考えます。権力の横行を許してきてしまったのは、日本人の、よく言えば善良で辛抱強く、権利を主張するより協調性を重んじる国民性であり、厳しい言い方をすれば、お上にお任せという精神風土であり、国政への無関心や怠慢であり、行動力の欠如であると思います。こうした、少しくらいのことは我慢してしまうお人好しの国民性や、国民の有権者意識の低さほど、権力や財力を温存したい政・官・業にとって好都合なものはなく、日本社会の構造的問題は、この両者の産物といえるでしょう。
今回の原発事故を受けて、私たちは、結局苦しい立場に立たされるのは自分たち、国民の側なのだということを強く認識し直さなければなりません。そして、第二の「フクシマ」を起こさないために、また他のいかなる悲劇によっても自分たちやその子どもの世代を苦しめないために、やはり私たちは、善良なだけれども何もしない無関心な国民から一歩踏み出して、知恵をつけて、行動を起こす国民にならなければならないのです。短絡的に政府を批判するのではなく、まずは一人一人が有権者意識を高め、その責任について認識したうえで、必要とあらば権力と対峙しなければなりません。そのような努力あってこそ、ゆくゆくは本当の意味で豊かな成熟した社会の実現が可能なのではないでしょうか。
私自身、今回の検証を通して、政府に厳しい目を向けるということは、同時に自分にも厳しい目を向けるということであると、痛切に感じています。個人にとっての恩恵の有無だけでなく、国全体にとって恩恵を長期的視野で考え、議論に備えていかなけれればなりません。いざことが起きてからではなく、普段から常に様々な分野にアンテナを張っている必要があります。もちろん一人ではできることではありません。市民の集まり、国民の代表である国会議員などへの支援、政府の仕事を監視するNPOのような機関、ネット上の自由な言論サイトやネットワークといった民間レベルの活動が既に活発に行なわれています。そのような活動に更に多くの人が加わって盛んになり、政治をも動かす力となっていくことが期待されます。そうなっていったときはじめて、固く絡まったより糸の結び目は少しずつ解きほぐされ、同じ糸で再び新たな国のタペストリー−日本の希望ある未来の予想図−を織り直していくことができるのではないでしょうか。