2012年07月28日

ドイツ脱原発30年の歩みと「緑の党」が果たした役割

7月16日、東京代々木公園で、大規模な脱原発集会が開かれました。主催者側(脱原発を訴える市民団体などでつくる「さようなら原発一千万人署名市民の会」)の発表で参加者は17万人(警察当局発表で7万5千人)と、これまでの反原発集会の中で最大規模となりました。この市民の会は、当初は300人程度から始まった毎週金曜日のデモは、野田政権による大飯原発再稼動への反発から、6月半ばから参加者数が爆発的に増加しています。私も、一時帰国中の6月22日、官邸前での集会に参加してきました。

よく言われているように、この脱原発デモの特徴は、組織的に動員された人々によるものではなく、インターネットやツイッター、フェイスブックで情報が広まり、「脱原発」「再稼動反対」に賛同する個人が、自らの意思で集まってきているという点です。基本的に行進はなく、2-3列に立ち並び官邸周辺の道路を囲んで声を上げる、極めて平和的な抗議集会です。

これまで、デモなどの行動に訴えることがあまり得意ではなかった国民−外国からなぜ日本人は怒らないんだ?と不可解にさえ思われてきた国民−がついに立ち上がりました。中高年者、若者、会社員、主婦や家族連れ、不特定多数の市民が、名前も所属も関係なくただ「再稼動反対」と叫び、人のうねりをつくり、聴覚的に視覚的に、政府やメディアがいやでも無視することのできないシーンを生み出しています。

6月29日、総理と閣僚が出席する「エネルギー・環境会議」は、2030年時点でのエネルギー政策で原子力発電比率を0%、15%、20-25のいずれかにする三つの選択肢を決定しました。7月に全国で国民を交えた議論を行い、8月中に政府がエネルギー政策を決定するという予定になっています。今こそまさに、国民の声を政府に届けなければならない時です。この17万人もに膨れ上がった脱原発の国民的アクションを、エネルギー政策に反映していかなければなりません。

アート思い起こさせられるドイツの脱原発デモ
この脱原発への市民運動の盛り上がりは、福島原発事故直後のドイツ国内でのデモを彷彿とさせています。2011年3月26日、福島原発の事故の2週間後、ベルリン、ハンブルグ、ケルン、ミュンヘンの4都市で計20万人が参加するドイツで過去最大といわれる脱原発デモが行われました。その後も5月末にかけて、数十万人規模のデモが繰り返され、ドイツの世論は圧倒的に脱原発へと傾倒していきます。そして、福島原発事故からわずか2ヶ月半の5月30日、メルケル首相は国内すべての原発を停止する発表を行ったのでした。

しかし、事故の当事国でもないのに、なぜあれほど大規模な反原発のデモが起きたのでしょうか。直接的な被害を受けたわけでもないのに、なぜあれほどスピーディーに脱原発という国家のエネルギー政策の転換が行われたのでしょうか。

福島原発事故は、ドイツが脱原発に舵を切る大きな契機となったことは確かですが、それによって突然国家のエネルギー政策がひっくり返ったわけではもちろんありません。ドイツが脱原発を決断するまでには、フクシマ以前の実に過去30年間にわたる長い道のりがありました。そして、その歩みの中で脱原発への道筋をつける最も重要なカギを握っていたのが、ドイツ「緑の党」の存在です。私はずっと、このことについてまとめなければならないと考えてきました。

国の事情はいろいろ違えど、脱原発に至ったひとつの手本として、また環境政策で世界をリードする国として、日本がドイツから学ぶことは多いと思います。ドイツ脱原発30年の道のりと緑の党が果たした役割について、時代を追いながら次の4段階に分けて、解説していきます(今回の記事では序章と第一転換期まで)。

序章−ドイツ反原発運動の始まりと緑の党の結成(〜1980年)
第一転換期−チェルノブイリから、統一ドイツ・エコロジー経済改革へ(1980年代半ば〜1990年代後半)
第二転換期−緑の党の躍進と苦悩(1998〜2005年)
第三転換期−メルケル政権と新エネルギー政策(2005年〜現在


序章−ドイツ反原発運動の始まりと緑の党の結成(〜1980年)

アートワイン農家らが潰した原発建設

ドイツの原子力発電は、研究・実験用施設の建設は1950代に、商業用施設の運転は1969年に始まりました。1973年のオイルショックを経て、ドイツでも他の国々と同様、エネルギー供給の国外依存度を減らすために、原子力発電の拡充が図られていきました。安定的な電力供給を掛け声に政・官・業を通して積極推進され(1970年代には14基、80年代には4基が建設着工)、原発は全国各地に次々と建設されていきます。現在までにトータルで36基の原発が建設され、そのうち19基がすでに廃炉となり、福島原発事故以前は17基が稼動していました。

しかし、ドイツでは建設ラッシュの70〜80年代から、原発推進をめぐって激しい論争が展開されていました。電力会社や州政府が原発建設を計画した地域ではどこでも大規模な反対運動が起こり、全国各地で、建設計画を遅らせたり、中止させたりする事態が起きました。また、廃棄物の最終処理をどこで行うかが未解決のままだったため、使用済み燃料の輸送や廃棄物処理の問題への関心も、すでに1970年代から高まっていました。(エンルスト・ウイルリッヒ・フォン・ワイゼッカー著「地球環境政策」より)

ドイツ南西部のバーデン・ビュルテンベルク州、フランスとの国境近くに人口3000人余りのヴィールという村があります。ワイン農家を営む人々が暮らすこの小さな村に、原発誘致の話が持ち上がったのは1971年のことでした。地元の反対にもかかわらず、3年ほどの間に誘致準備は着々と進み、1975年には正式な建設許可が下りて着工の運びとなりました。

ところが、反対を訴え続けるワイン農家の住人らは、着工を阻止すべく建設現場に座り込みを始めたのです。二日後、座り込みを続ける住民たちを警察が強制的に引きずり出す様子がテレビで放映されると、建設反対は周辺の市町村のみならず全国的な注目を集めます。直後には、地元の名門フライベルク大学の学生らを中心に3万人が集まり着工現場を占拠する事態に発展し、州警察は群衆を強制的に撤退させることを断念してしまうのです。その一ヵ月後、建設許可は取り下げられ、原発誘致は失敗に終わりました。(
Anti Nuclear Movement in Germany

アート緑の党の結成
このヴィール村の事件は、反原発市民運動の成功例として、全国各地の原発建設予定地に飛び火し、反原発運動は組織化され広がっていきます。この運動の先頭を走っていたのが環境保護団体Green Party、「緑の党」の前身の団体です。

Green Partyとは、大きくは「社会的公正」「参加型民主主義」「非暴力主義」「環境保護」などを理念として政治的活動を行う団体、政治勢力のことを指します。その起源となるのは、1970年代頃から欧米先進諸国で始まった自然環境保護、反核・反戦、女性解放運動、消費者保護などテーマにした社会運動、いわゆる“Green Movement”です。ニュージーランドやオーストラリアをはじめ、スイス、イギリス、ドイツなどにおいて、地域に根ざした、また国境を越えたグローバルな規模で活動をするこれらの市民団体が、次第に政治的な影響力を持つようになり、各国のそれぞれの法規に則った政党としてのGreen Party「緑の党」が結成されていきました。(
Green Party) 

その先駆けとなったのは、1972年オーストラリアのタスマニア州での選挙で、自然保護を訴えたUnited Tasmania Groupだといわれています。ヨーロッパにおける初の緑の党は、1973年にイギリスで発足したPEOPLEという組織であり、後のイギリス「緑の党」です。次いで、フィンランド、ベルギー、フランス、アイルランド、オランダなどでも、Green Partyが政治の舞台に台頭するようになっていきます。

中でも、緑の党が国政において強い影響力を持つようになったのは旧西ドイツでした。西ドイツ緑の党は、60年代の学生運動、70年代の環境保護・反原発運動、80年代の平和運動などの流れを汲みながら、次第に政治的な力を強めていきます。

1979年、各地で反原発および反中央集権主義を掲げて活動していたGreen Partyや他の市民組織が西ドイツ・フランクフルトに結集し、翌1980年、正式に「緑の党」を結成しました。その年には、初めて州議会議員が誕生し、州政府レベルで他党と連立政権を担うなどして地方政治への影響力を発揮し始めます。そして、1983年の国政選挙では5.6%の得票率で緑の党から初めて27名の国会議員が当選したのをきっかけに、国政へと躍進していきます。旧西ドイツで、環境保護・反原発を旗印にした「緑の党」が誕生する1980年までを、ドイツ脱原発への序章と名付けることにしましょう。最初に、ドイツの脱原発まで30年の歩みと私が書いたのは、この年を起点としています。


第一転換期−チェルノブイリから、統一ドイツ・エコロジー経済改革へ(1980年半ば〜1990年代後半)

アートチェルノブイリとベルリンの壁崩壊の衝撃
1980年代は、世界的に地球の温暖化やオゾン層の破壊、森林破壊の問題が指摘され始めた時代です。80年代半ばごろになると、ドイツでは早くも政府・国会レベルで地球温暖化・気候変動の問題が取り上げられていました。

1987年、コール政権は、
「地球規模の環境変動についての科学者委員会(WBGU)」を設置し、ドイツにおける地球温暖化対策の最初の目標を、二酸化炭素とメタンの排出量を1987年と比較して2005年までにの25%、2050年までに80%削減するとしました(1990年国会)そして、政権内では地球温暖化問題と連動して、将来のエネルギー政策を抜本的に見直して行く必要があるという認識がすでに広まっていました。

1980年代後半〜90年代には、ドイツの国内外で様々な出来事が起きました。チェルノブイリ原発事故(1986年)、東西ドイツ統一(1990年)、欧州連合(EU)条約の調印(1992年)とユーロ圏の市場統合など、ドイツの政治・経済・社会全体にとって激動の、そして苦難の時代ともいえます。ドイツにおける環境政策や脱原発への流れは、この時期に推し進められた様々な国内の制度改革・法改正などを抜きにして語ることはできません。

旧ソ連チェルノブイリ原発の事故の衝撃は、ドイツにおける原子力政策に大きな影響を与えました。原発に関する人々の考え方も、85年までは原発賛成派と反対派が世論をほぼ二分していましたが、1988年までには反対派が70%まで急増する一方、賛成派は10%にまで落ち込みました。反原発を掲げる緑の党がにわかに脚光を浴び始め、翌年の1987年の国政選挙で大躍進し、得票率でそれまでで最高の8.3%、国会における42議席を獲得します。この時、中道左派の社会民主党(SPD)が段階的な脱原発を推し進めたのに対し、緑の党は即脱原発を訴えていました。

ちなみに、チェルノブイリ事故と同年に建設着工していた西ドイツ・ネッカーヴェッセイムの原発が1989年に完成し、新規運転が始まりましたが、これがドイツで最後となる原発です。

その1989年、ベルリンの壁が倒壊。旧東ドイツでは、社会主義政権下で運営されていた化学工場やアルミニウムなどの国有企業がほとんどストップし、電力需要が急激に低下しました。その結果、旧東ドイツの原発6基は運転停止に追い込まれます。ポーランドとの国境に近いグライフスバルト原発では、1974年に創業開始以来、旧ソ連型の軽水炉(VVER)の原子炉を運転してきましたが、5基目が稼動を始めて1年を待たずに廃炉への道を余儀なくされます。当時のコール政権は、旧ソ連型の原子炉の安全性を疑問視するなど、原発業界にとって風当たりはますます厳しくなっていきました。

一方、旧東ドイツにおいても、東西統一直前の1989年に「緑の党」が発足していました。90年の東西ドイツ統一後初めて行われた国政選挙では、旧東ドイツの「緑の党」からも国会議員を送ることに成功します。発足当初は、東西統一に反対の立場をとっていた旧東ドイツ「緑の党」でしたが、1993年には、
東西の「緑の党」が、Alliance‘90・The Greens(90年連合・緑の党)として統合され、以後ドイツ国内はもとより、ヨーロッパにおける大きな影響力を発揮していきます。

アートドイツ経済の低迷とエコロジー経済改革
1990年代のドイツ経済は、統一後の財政赤字転落、失業率増大、旧東ドイツへの援助の増大などにより景気の低迷が続きました。それに加えて、競争率の低下や経済の停滞の背景にあると見られているのが、ドイツ特有の企業文化や習慣です。すなわち、高い賃金水準、高福祉を支える重税負担、株主利益より雇用維持を優先する制度と慣行、株式持ち合い(金融機関、資本家、事業主が株式を持ち合い、大銀行などが安定的な大株主となって影響力を行使するような企業形態)に象徴される保守的で閉鎖的なコーポレート・ガバナンスなどが挙げられるでしょう。

このような保守的な企業形態においては、敵対買収などがおきにくく独占的経営が維持される一方で、自由競争が阻害されます。また、アメリカやイギリスなどが徹底した利益追求主義によってリストラを行うのに対して、ドイツでは従業員の雇用優先などにより、事業形態を迅速に変えることができないといった面がありました。

ドイツ経済の大黒柱ともいえる電力業界は、1935年に制定された電力供給事業法(Energy Supply Industry Act)に基づいた仕組みが60年以上維持され、大手8社および約700の地方自治体が運営する小規模電気事業者などが独占的してきました。各電力事業者の既得権益−電力供給の区割りや送電契約、固定顧客への供給、余剰電力の送電、電力の貯蓄など−には関係省庁や地方行政などがあらゆるレベルで関わり、認可と引き換えに利益が潤沢に分配されるなど、自由競争とはかけ離れた実態がありました。(
Three Decades of Renewable Electricity Policies in German

つまり、統一後のドイツのジレンマは、EU経済の牽引役でありながら、賃金水準の高さやエネルギー価格の高さ、そしてドイツ特有のコーポレート・ガバナンスのあり方や市場独占などにより、低成長率、失業率、競争力にも不安要素を抱えていたということです。 

そんな中、ドイツでは1990年代初めごろから、「エコロジー的近代化論」に基づき、環境分野への戦略的投資により技術革新、経済成長、雇用創出を目指す政策が導入されてきました。「エコロジー的近代化論」とは、「持続可能な発展を近代化の新たな段階として捉え、近代化・合理化の帰結として発生した環境問題を、社会システムの政策的革新によって解決しようとする思想」です。(「ドイツの脱原発と気候・環境戦略」)

 ドイツでは、EUにおける様々な環境政策・規制緩和に先立ち、また並行して、国内の様々な環境・エネルギー分野に特化した制度改革と規制緩和に踏み切っていきます。それらのうち重要なものに以下にあげる5つの法律があります(カッコ内の年代は施行開始年)。 

1)   電力供給法(1991−1999年)
2)   エネルギー事業法(1998年)
3)   環境税(1999−2003年段階的導入)
4)   再生可能エネルギー法(2000年、2004年)
5)   改正原子力法(2001年)

 それぞれの内容については、次回のブログで説明しますが、これらの制度改革や規制緩和の必要性が高まり、議論を呼び、法案化されて国会審議が行われていた90年代、ドイツがネルギー政策に関していかに重大なプロセスを歩んでいたかがわかります。1986年のチェルノブイリの事故により反原発の国民世論が高まり、東西ドイツ統一と「90年連合・緑の党」結成、統一ドイツによる経済再生に向けた様々な制度改革(エコロジー経済改革)への着手が行われた1998年までを、脱原発への第1転換期と呼ぶことにしましょう。

次回へ続く・・・

ラベル:緑の党 green party
posted by Oceanlove at 07:11| 震災関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月25日

被災地とアメリカをつなぐ旅

カリフォルニアの学校は、5月末に終了式を迎え夏休みに入る。今年も子供たち(長男・小6と長女・小4)と共に、山梨県甲府市の実家に一ヶ月ほど帰省した。この6月の帰国は、子供たちが日本の小学校に通い学ぶことのできる貴重な機会で、ほぼ毎年恒例となっている。

今回の帰省中、私たち3人は、生涯の思い出となるであろう、心を震わせられる旅を経験した。被災地、岩手県大船渡市にある小学校を訪ねる2泊3日の旅だ。甲府から大船渡までは片道約630キロメートル。甲府から特急あずさ、東京からは新幹線を乗り継ぎ、被災地入りはレンタカーを使う。到着まで所要時間8時間の道のりだ。
 
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新幹線に乗るのは、子供たちは初体験だ。東京から一ノ関までは約2時間半。地図で確認すると、東京から約450キロ。アメリカではこれくらいの距離なら車で移動が当たり前だが、5時間はかかる。子供たちは、文字通り飛ぶように過ぎ去る景色に、しばし言葉もなく見入っている。

午後1時過ぎに一ノ関駅に到着。駅レンタカーで予約しておいたトヨタヴィッツに乗り込み、大船渡までの75キロ、約2時間半のドライブがはじまった。市街地を抜け、北上川を渡ると、車窓の景色は田園と野山の緑一色となった。なんだか、とても懐かしい心に沁みる日本の美しい農村風景だ。
 
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アート陸前高田の衝撃
県道19号そして今泉街道は、曲がりくねった険しい山道が延々と続く。最後の峠を下り、気仙川を渡って国道340号線に出ると、いよいよ広田湾に向かって扇形に広がった三陸の町、陸前高田市だ。彼方に見える海と陸との境界がかすみ、目の前にだだっ広い景色が広がっている。主要道路とところどころに残った鉄筋ビルの残骸、瓦礫の山以外は、無残に掻き消されたような荒涼とした市街がたたずんでいた。

 
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陸前高田は平地が広いため広域にわたり浸水した。そして高台までの距離があり、多くの人々の避難が遅れて被害が拡大した。人口23,000人のうち、犠牲者数は1,795人。人口に対する犠牲者の割合は、被災3県の市町村の中で最大だった。

震災から13ヶ月、道路の瓦礫は押しのけられ市街地はきれいに更地となっているが、いたるところが瓦礫の山だ。土砂などの堆積物が多く、瓦礫処理の進ちょく率は11%と、他の被災地と比較しても低いという。

行く手の右前方に、かの一本松の姿が見えた。海岸沿いに2キロ余りにわたって続いていた高田松原公園の7,000本の松は、津波によって根こそぎ流されてしまった。その中で、助かった奇跡の一本松。それは被災地における生存と希望のシンボルだ。

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しかし、生き延びてほしいという人々の願いとはうらはらに、頭のてっぺんまで茶色く枯れかかった一本松の再生は難しいらしい。最近、市が保存のための募金を募ることにしたという。

 

海に面した国道45号線に出て左に折れる。と、道路わきに5階建てのマンションのような廃墟が二棟見えた。1階から4階まではベランダの柵や窓ガラスが破壊され、室内が暗い空洞となっている。この辺りは4階の高さまで一面津波に覆われたことが一目瞭然だ。その高さに圧倒される。

こうして現場を見ていると、押し寄せる津波のイメージが膨らみ身がすくむ思いがする。子供たちもショックを隠せない様子だ。
 
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陸前高田市の「災害に強い安全なまち」を目指した復興計画はまだ始まったばかりだ。高さ12.5Mの防潮堤の建設、市街地の5メートルのかさ上げ、丘陵地への新しい住宅地の開発、防災性と利便性を兼ね備えた道路・鉄道・公共施設などインフラの整備・・・。この復興計画は、施策の基盤整備と復興展開期をあわせて8年間を目標期間としている。

その間、人々は仮設住宅で暮らしたり、自力で家を再建したり、復興助成金で自営業を再開したり、集落ごと高台への移転をしたり、いろいろな選択を迫られることだろう。国と行政と住民とを挙げた復興が、より迅速で、復興に向かう人々の営みが少しでも痛みが少ないものであるように、心から願わずにはいられない。

アート大船渡、屋台村の復興の明かり
起伏の激しい三陸海岸を陸前高田から大船渡へとつなぐ国道45号線は、午後5時近く、ようやく大船渡湾を見下ろす高台へと出た。湾を右手に見ながら市の中心部へと北上する。両脇の道路沿いの建造物を眺めると、海側は道路や家屋の損傷のあとが激しく、山側は以前からの町並みを残している。

大船渡では、人口約4万人のうち424人が震災の犠牲となった。主な産業である漁業は壊滅的な被害を受け、震災一年で、再開した漁業者の割合は約30%だと聞いている。

宿泊予定のプラザホテルは、海岸に近い被害の大きかった地区にある。周辺の建物はほとんど流されて埃っぽい更地になり、所々に積まれた瓦礫と、枠縁のように残されたアスファルトの道路ばかりが目に付く。そんな殺風景な一角にはあまり似つかわしくない感じで、ホテルの小奇麗な建物はポツリと立っていた。

5階建てのは建物は3階まで浸水したが、すでに損傷部分の修復が終わり新装オープンしている。フロントは、こじんまりとしてはいるが真新しくて瀟洒だ。なんでも、現在大船渡市でオープンしている5つほどのホテル・旅館はどこも復興関係者などで込み合っているそうだ。私は旅行の2週間ほど前に何軒かに電話をしてやっとこのホテルの和室が一室予約できた。

6時過ぎ、近くで食事のできる場所をフロントで聞いたら、ホテルからほんの数ブロックのところにある屋台村を紹介してくれた。そういえば、被災地にできたプレハブ建ての食堂街のことは、少し前にテレビ報道で見たことがある。

夕闇に包まれようとしている被災地の一角。赤提灯でライトアップされた正面ゲートには「ようこそ!大船渡・屋台村」と書かれた看板がかかっている。

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何棟かの平屋の建物に、ラーメン屋、寿司屋、居酒屋など計20件が軒を並べている。各店舗からこぼれる明かりには、自然と吸い込まれるような街の温もりがある。客の数はまだまばらだが、地元の住人に混じって、復興事業の関係者らしき作業服の人々がカウンター席でビールのジョッキを傾けながら談笑している。
 
この屋台村は、大船渡屋台村有限責任事業組合が主催している。津波で店を流された飲食店経営者らの集まりだ。自己資金で店を再開したり融資を受けたりすることは困難なため、全国から個人・企業・団体のサポーターを募り、出資金を屋台村の建設にあて、運営と販売促進を行っている。大船渡の漁業を復活させるためにも、集客力のある飲食店街は欠かせない。(屋台村ホームページ

軒を並べる屋台村の店舗



私たちは、一軒一軒の店先でメニューを丹念にチェックした後、そば屋に入った。おや、珍しい客だな・・・という文句が店主の不思議そうな顔に浮かんでいる。観光で来る人はそんなにいないし、ましてや子供連れなどめったにいないのかもしれない。子供たちは冷たい付けそばと揚げ出し豆腐、私は天丼を注文した。

無口そうな店主は、もくもくと調理をしながらも、ポツリポツリと旅人の私たちの問いかけに答えてくれた。自宅は無事だったけれど、前にやっていた店は流され、一人でこの店を切り盛りしているそうだ。
 

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お腹が満たされ、私たちは屋台村を後にした。外の闇が濃くなり、よりいっそう温かみを増した村の明かりに、人々は引き寄せられるように集う。漁港の再開や産業の開発とともに、訪れる人がどんどん増え、繁盛してほしい。そして店主の皆さんの生活の再建と、町全体の復興につながっていってほしい。いや、この屋台村の明かりが、すでに復興の大きな原動力となっている・・・そんなことをひしひしと感じた夜であった。

アート小学校への訪問
621日、朝7時半にホテルを出発の予定のため、6時に起床、荷物をまとめてチェックアウトし、一階のレストランで朝食を済ませた。

今回の私たちの小学校訪問には、某テレビ局が同行し密着取材をすることになっていた。アメリカの小学生が被災地の小学校を訪れ、互いに交流する様子を報道する、という趣旨だ。7時半には、テレビ局のスタッフがホテルに到着し初顔合わせをした。取材は、私たちがホテルのロビーを出て車に乗り込むところから始まった。取材班を乗せたバンが、私たちのレンタカーを追う形だ。

大船渡市の越喜来(おきらい)小学校との縁は、震災直後、我が家の子供たちが通うカリフォルニア州のコロニーオーク小学校の生徒たちが、被災地の小学生に宛てて励ましと祈りの絵手紙を書いたことに始まる。

募金以外の支援として何かできないか考えた末に、心をこめて書き綴った250通あまりの「アメリカからの手紙」は、知り合いの紹介で、それまでまるでゆかりのなかった越喜来小学校に届けられた。海の向こうからの思いがけない励ましと祈りの言葉に、越喜来小の子供たちはとても喜んでくれたようで、一ヵ月後にはアメリカに返事が届いた。

そんな交流があってから一年余り。震災関連のニュースはほとんど聞かなくなってしまったアメリカで、あの時の子供たちは今どうしているだろうか、という思いが私の中で消えることはなかった。時折、アメリカの人々から被災地の状況について聞かれるが、私自身現地を見たことがないのでまともに答えられない。

私の中で、自分の目で被災した現地を見なければならない、という思いが次第に強くなっていった。是非あの小学校を訪ね、子供たちに会い、そしてそこで見たものをアメリカに持ち帰り、伝えたい・・・。

そんな思いから、6月の帰省に合わせて学校に直接連絡を取り、訪問を依頼した。学校側は快く受け入れてくださり、長男は6年生、長女は4年生の教室に一日体験入学させてもらうという形で実現することになった。

震災前、越喜来(おきらい)小学校は、越喜来湾の入り江の波打ち際が目と鼻の先という絶景の場所にあった。311日、津波の襲来で3階建ての校舎は屋上まで波にのまれ、体育館の屋根もめくれ上がり、完全に破壊されてしまった。校舎の残骸は今もそのまま残り、校庭には瓦礫が山のように積み上げられている。
 
津波に破壊された越喜来小の校舎

 
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しかし、本当に幸いなことに、全校生徒と先生たちは校舎の裏側にある避難通路を通って山の高台に避難し、全員が無事だった。震災後、生徒たちは被害のなかった隣の小学校で一緒に授業を受けていたが、今年の4月からこれら近隣3校が併合され、正式に越喜来小学校として歩みだすこととなった。全校生徒104人。統合前より3割ほど人数が減った。

アート子供たちの日米交流
820分、学校に到着すると、これまで連絡を取り合い準備を進めてくださっていた副校長先生を始め、諸先生方とたくさんの子供たちが元気いっぱいの笑顔で迎えてくれた。一校時目は6年生の教室で、2校時目は4年生の教室でそれぞれ交流の時間となった。私が進行し、長男と長女がアシストする形で、「アメリカでの生活」と題したパワーポイントで作成したプレゼンテーションを見てもらった。
 
アメリカの生活を紹介


カリフォルニア州やコロニーオーク小学校がどこにあるのか地図を見てもらい、街や学校の紹介をする。学校の授業風景やスポーツの活動、ボーイスカウトや様々な課外活動の様子も、カラフルな写真と動画で紹介した。

日本とアメリカの違うところとして、「上履きにはき替えない」「音楽や図工の時間がない?!」「休み時間におやつを食べられる!」などを伝えると、みんな「へえー」「うそーっ、なんでー?」「えーっ、いいなー!!」など、思ったとおりの大反響。

また、アメリカでは給食にピザやハンバーガーも出ると聞いて、ワイワイ大騒ぎに。日本の学校給食では絶対に出ないであろうファーストフードは、彼らにはよっぽど魅力的なようだ。我が家の二人は、日本の給食の方がおかずの種類が多く、毎日いろんなメニューがあって美味しいと証言したが(これは本心なのだが)、まったく納得してもらえない。
 
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私たちからは、「岩手ってどんなところ?」という質問をさせてもらった。さすが6年生はいろいろよく知っている。まずは、2011年に世界遺産に登録された平泉の中尊寺。盛岡のわんこそば。クラスに100杯以上食べた女の子がいたのにはびっくり。それから、宮沢賢治のゆかりの地、三陸のわかめや魚介類が挙げられた。

知っているアメリカ人の有名人は?と聞くと、なんと言ってもレディーガガ。それからマイケル・ジャクソン、スティーブ・ジョブズ、オバマ大統領。トム・クルーズなんて、私たち親世代の人気俳優の名前も出て、びっくり。

交流の時間の後は平常の授業となり、子供たちは社会や体育、家庭科や習字などの授業に参加させてもらった。習字の授業は、アメリカで育つ二人に日本の伝統文化に触れてもらいたい、との先生方の配慮で入れてくださった。

給食の時間は、エプロンを着て配膳もさせてもらった。この日のメニューは、炊き込みそぼろご飯、野菜とキノコと豆腐のスープ、酢の物のサラダ、そして牛乳。私もおいしくいただいた。長男は遠慮なくご飯をお替りしていた。
 
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アート支援する側と受ける側と
校長先生にお話を伺った。人懐っこい笑顔が印象的で、初対面の堅苦しさが全くない。先生が最も強調されたのは、今年は学校の平常化を目指しているということだ。どういうことかというと・・・。

震災後の去年は、全国各地から数多くの様々な支援の申し出があった。「支援を受け入れることも被災地の務め」と考え、それらをすべて有り難く受け入れてきたそうだ。義損金、学用品や衣服、吹奏楽で使う楽器のプレゼントなど物質的な支援のほか、交流型の支援もあった。たとえば、プロのバイオリニストの演奏会、芸人によるコント、九州や沖縄など全国各地の学校との学校間交流・・・。国内のみならず外国からも、ドイツ、スイス、アメリカ、カンボジアなどから支援があったそうだ。

しかし、支援をする側の数は多いがそれを受ける側の学校はひとつ。対応には苦慮した面もあるようだ。震災後の非常事態の中で、授業も変則的になり学校生活が混乱していた時期だ。ただでさえ不安定な日常に支援や交流のイベントが盛りだくさんとなり、落ち着きは取り戻せなかった。交流には手間も時間もかかり、ましてや、外国との交流ということになると言葉の壁があって対応しきれない。支援をする側と、受ける側に期待値のずれがあった。
 
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そこで、今年度からは、平常化ということを第一に考え、できる限り震災前と変わらない普段どうりの学校生活を送ることを目標にすえた。様々なところから支援や交流の申し出があってもすべて受け入れず、そこに教育的価値があり、生徒たちにとって益となるかどうかを見極めたうえで選択的に受け入れることにしたそうだ。

とにかく、子供たちが普通の、ごく当たり前の学校生活を送れるようにすること。被災による様々な困難の中で、子供たちを守り学校全体を導く校長先生の固い決意と熱意が、その笑顔の奥に見え隠れしていた。

アート被災地の暮らしの中でゆっくりと
越喜来小の子供たちは、とにかく元気いっぱいだ。無邪気で好奇心旺盛で、どこの小学生と比べてもなんら変わったようには見えない。もちろん、私が見たものは、子供たちの日常を構成する小さな一片、それもほんの表層部分に過ぎない。

私は今回の訪問は、友好的な交流を目的とし、あえて震災や津波に関する話題には触れないことに決めていた。そんな私の考えを見通したかのように、アメリカからの訪問者を囲んでひときわ賑やかな教室を見やりながら、一人の先生が語ってくれた。
 
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この子供たちは、校舎が丸ごと波に呑まれる様子を目の当たりにしたと。津波警報が出て全員が第一避難所に移動したが、そこも危ないということで、さらに高い第2避難所に移動している最中だった。その場にいて目撃した人でなければ、津波の凄まじさ、怖ろしさはわからないだろう。子供たちがどれほどの恐怖感やショックを味わったのか、今どんな心の傷を抱えているのか私には想像すらできない。

身内を亡くした子供もいれば、家を流され仮設住宅から通っている子供もいる。親の仕事や様々な家庭の事情で町を離れ、遠くの親類のところに避難したり、他県に移り住んだ子供たちも少なくない。子供ばかりでなく、母親が海を見るのが怖くて思い出したくなくて引っ越していった家族もあるという。

先生は続けた。津波の恐怖や大きな心の傷を抱えている場合、思い出したくないからと生活の場を変え、まったく震災とかかわりのない環境に身をおくことは、必ずしも益とならないのだそうだ。

震災との関わりをいきなり断ち切ってしまうと、感情や傷口が急速冷凍され、心の奥に閉じ込められてしまう。表面上は平常な生活を送れていても、ちょっとした地震の揺れや震災を思い起こさせる何かがあると、閉じられていた心のドアが外れ傷が露わになる。パニックを起こしたり精神が不安定になってしまう。

心の癒しは、被災地の暮らしの中でゆっくりと、支え合い、その風景の変化を見届けることでもたらされるのだと言う。震災の傷跡を毎日見ながら生活することは辛いけれども、瓦礫が少しずつ片付いたり、学校生活が平常さを取り戻したり、町の復興が進んだりするのを肌で感じることが、時間はかかるが、心の傷を真に癒すことにつながるのだと。

廊下の壁に飾られた、大きな力強い色彩のひまわりの絵。「命輝く」という題が印象的だった。


廊下に飾られた絵画−タイトルは「命輝く」


アート被災地とアメリカをつなぐ・・・
給食をいただいた後、私たちはそれぞれの教室でお別れの挨拶をした。越喜来小の子供たちからも、アメリカと日本は遠いけどお互いにがんばろう、これからも交流を続けたいなど、励ましや希望の言葉が贈られた。わずかな時間の交流だったが、国の垣根を越えて子供たちの感性が響き合っていたような気がする。

このような機会を提供してくださった先生方と子供たちに心から感謝し、越喜来小の一日一日が平穏で充実した歩みとなるよう祈りつつ、学校を後にした。

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被災地、岩手県大船渡への旅は終わりに近づいた。再びレンタカーで一ノ関へと来た道を戻る。一ノ関からは、深夜11時50分発の夜行バス「けせんライナー」に乗る予定だ。翌朝の5時40分には東京の池袋に着いているだろう。無事訪問の予定をこなし、取材も終えて緊張が解けたのか、二人とも後部座席でぐっすり寝入っている。

被災地の風景と小学校での交流は、衝撃的であると同時に、同年代の子供たちと心がつながる喜びの体験として、我が家の子供たちの胸に克明に刻みつけられたのではないかと思う。

越喜来小の子供たちも、お互いの共通点や違いを発見して驚き、アメリカという国を少し身近に感じてくれたに違いない。そしてもし、彼らの中に、あの日アメリカから訪ねてきたお友達がいた・・・という記憶が、復興への歩みの中の希望のひとかけらとして残り続けてくれたら、こんなに嬉しいことはない。

震災という悲しく困難な出来事を通して出会った両国の子供たちが、今の彼らなりに、お互いを理解しあったり尊重しあったりすることの大切さを知る、ひとつの機会になってくれたらとも思う。

私自身、被災地をこの目で見て、子供たちに会って、アメリカに帰ってから人々に伝えるべき確かなものを得た。

「被災地とアメリカをつなぐ旅」というこのブログのタイトルには、少し大げさだけれども、そんな気持ちが込められている。

posted by Oceanlove at 08:47| カルチュラル・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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