2012年09月02日

ドイツ脱原発30年の歩みと「緑の党」が果たした役割 その(3)

     第三転換期−メルケル政権と新エネルギー政策 (2005年〜現在)

この記事は、

ドイツ脱原発30年の歩みと「緑の党」が果たした役割 その(1)
ドイツ脱原発30年の歩みと「緑の党」が果たした役割 その(2)

の続きです。


アートメルケル政権の政策転換

ドイツでは、98年に登場した社会民主党(SPD)・緑の党連立政権(シュレーダー政権)のリーダーシップにより、2001年改正原子力法が成立し、2021年までにすべての原発を廃止する段階的脱原発政策が動き出しました。しかし、何とか原発を維持したい電力業界は、連立政権への反発を強めます。その後の選挙では、野党のキリスト教民主同盟(CDU)は脱原子力政策の撤回を公約に掲げ、電力業界の強力なバックアップで政権奪還に向けて動き出すのです。

2005年の選挙では、接戦の末メルケル氏のCDU(225議席)もシュレーダー氏のSPD(222議席)もどちらも単独で国会の議席の過半数を確保することができませんでした。CDUとSPDの交渉の結果、メルケル氏を首相に据えた大連立を組み、16の閣僚ポストは両党から半数ずつ出すことで合意しました。緑の党は51議席を維持しながらも、CDUとは市場経済や環境問題等で政策の違いが大きすぎるとして連立を組むことはできないという決断を下しました。ここに、緑の党は政権党としての立場を離れることとなりました。

CDU・SPDの連立政権の下では、2001年の改正原子力法は効力を持ち、脱原発政策は合意ということになっていましたが、CDUが政権の座についたこでやはり風向きは変わってゆきます。

メルケル首相は、脱原発政策の転換を明言し、2008年には、経済相のマイケル・グロスの下に置かれたエネルギー作業部会で、原子炉の稼動期間を40年間(その時点からだと32年間)にすべきという提案書を作成しました。グロス経済相は、
CDUと姉妹党であるバイエルン・キリスト教社会同盟(CSU)の議員です。SPDのシグマー・ガブリエル環境相とは真っ向から対立する形となり、次期総選挙に向けて両党間のエネルギー政策についての亀裂は救いようがなく大きくなっていました。 German Nuclear Exit Should Be Reversed, Ministry Taskforce Says  

2009年の総選挙では、CDUSPDの大連立にとうとう終止符が打たれました。メルケル氏のCDUは、CSUと経済界の後押しを受けた自由民主党(FDP)との連立により、1998年以来11年ぶりに中道右派政権の復活を成功させたのです。そして、2010年10月、メルケル政権は公約どおり重大な決断を下しました。2021年までに廃炉にすると決めていた17基の原発の稼動期間を、平均12年延長するというものです。

アートメルケル政権の原発回帰の背景

メルケル政権の原発回帰の背景として(電力業界の圧力以外に)挙げられるものとして、地球温暖化対策をめぐる過去10年ほどの国際情勢の変化があります。京都議定書が2005年に発行し、2011年までには191の国と地域で締結されました。先進国を中心に、「2008年から2012年の間に、温室効果ガスを1990年比で約5%削減する」という目標も定められました。フランス、イギリス、フィンランド、スウェーデンなどヨーロッパ各国でも、温室効果ガス削減を理由とした原子力回帰の風潮が高まる中、ドイツの脱原発ムードも下火になっていました。チェルノブイリから20年たち、あのときの衝撃を知らない若い世代には原発よりも気候変動に対する関心が高くなる傾向も見られました。原発容認のドイツ世論も、2007年の40%、2009年の48%へと、ほぼ半数を占めるまでになりました。(Nuclear-Power Debate Reignites in Germany

その流れに乗るかのように、メルケル政権は2010年、環境先進国として「生活の豊かさと手ごろなエネルギー価格、そして世界で最もグリーンな経済の実現」を目標に、中・長期的新エネルギー政策「エネルギー・コンセプト」(Energiekonzept)を打ち出したのです。

その中で、温室効果ガスの排出削減率を1990年比で2020年までに40%、2050年までに80%とすること、また全エネルギー消費における再生可能エネルギーの割合を2030年までに30%、2050年までに60%にするという、極めて高い数値目標を掲げました。この目標を達成するためのプロセスの橋渡し役として位置づけられたのが原子力エネルギーであり、原発の12年間の稼動期間延長は、「エネルギー・コンセプト」に含まれる以下の戦略の一環として組み入れられたのです。

・ 自然エネルギーのイノベーションと供給拡大
・ 節電促進や企業へのエネルギー・マネージメントシステムの導入
・ 再生可能エネルギーの効率的送電のためのインフラ整備、スマートグリッドの導入
・ 住宅や建築分野の省エネ促進
 ・ 
原発稼動期間延長し、原子力エネルギーを橋渡しとして利用

この戦略には、原発の稼動期間を延長することにより、原発運営事業者が納める年間23億ユーロの核燃料税のほか、稼動延長に伴う追加利益に対する課徴金(年間2〜3億ユーロ程度)を課し、再生可能エネルギーや省エネ促進分野の関連予算を確保する狙いがありました。このメルケル政権の決断は、脱原発の時期は遅らせながらも、ドイツが最先端の技術革新により環境立国として世界のトップを走るための、大胆なエネルギー戦略だったともいえるでしょう。この決定は、福島原発事故のほんの5ヶ月前の出来事でした。


アート過激さを増す反原発デモ

しかし、この脱原発の方針転換は、激しい政権批判を引き起こしました。これ以前はしばらく劣勢だったドイツの脱原発世論に再び火をつけた形になり、デモ運動も過激化していきました。

例えば、2010年11月6日には、ドイツ北部ダンネンベルグ郊外で2万5千人による反原発デモ行進が行われました。ドイツでは、核廃棄物を再処理のためにフランスに送り、それを再度引き取って保管するというシステムを採用しています。このデモは、その再処理された廃棄物が、明日フランスから輸送されてくるという期日に合わせて行われたものです。

しかし、翌7日、123トンの核廃棄物が、ガラスやスチール製のコンテナに詰められ14両の貨車からなる列車で輸送されてくると、デモは平和的なものから逸脱していきます。列車の最終目的地であるダンネンベルグ到着直前、4000人ものデモ参加者が、廃棄物を運ぶ列車の線路に座り込んで行く手を阻み、警察の車両に火をつけるなどし警察機動隊と衝突したのです。警察も催涙ガスなどを使って群集を散乱させるに至りました。デモ隊は、騒ぎを起こして列車の到着を阻もうとしたのです。

抗議に加わった団体は、グリーンピースを含む875に上る反原発団体のネットワークでした。更には、ダンネンベルグから最終貯蔵施設のゴルレーベンまでの道路も、50−60台もの車両によって阻まれるなど、ケガ人こそそれほど多くはなかったものの、過去数年間でも最大規模で、国内外のメディアを賑わせる大ニュースとなりました。Nuclear waste shipment reaches German storage site

アート決定打となった福島原発事故

そして2011年3月11日。東日本大震災が起きたちょうどその日、ドイツ南西部バーデン・ビュルテンベルク州シュツッツガルトにて、およそ6万人が参加する大規模なデモが行われていました。首都シュツッツガルトとその近郊都市ネッカーベッセイムにある原子力発電所を結ぶ45キロの道のりが、人の鎖で繋がれたのです。

もちろんこのデモは、福島原発の事故以前から予定されていたものですが、計らずも同日に、マグニチュード9.0の地震と大津波発生のニュースが全世界を駆け巡りました。福島原発一号機の水素爆発はまだこの時点では起こっていなかったものの、津波により電源喪失したという危機的状況が伝えられていました。主催者側は、「原発が人間の手におえない危険なものであることが今まさに証明された」とコメントしています。Thousands protest against Germany's nuclear plants 


 この日を境に、ドイツは“脱原発撤回を撤回”し、再び脱原発へと決定的な方向転換していくことになったのです。2011年3月26日の、ベルリン、ハンブルグ、ケルン、ミュンヘンの4都市における過去最大の20万人脱原発デモは、福島原発事故2週間後のこのタイミングで発生しました。

10年越しの中道右派政権の復活で、原発の稼動期間をやっと12年間の延長に持ち込んだドイツ政界・原発業界にとって、福島原発事故がそのたった5ヶ月後に発生したことは、なんとも皮肉なタイミングだったとしか言いようがないでしょう。2001年の脱原発合意は、時の政権の牽引力に抗し切れなかったものの、交渉の末2021年までの時間的猶予を勝ち取り、その間に脱原発撤回することを視野に入れて、政権奪回を狙っていたのですから。

福島原発事故は、2011年3月27日に予定されていたドイツ地方選挙における政治地図を大きく塗り替えました。突如、原発問題が大きな争点となり、原発推進の立場をとっていたメルケル首相のCDUに対し、脱原発を掲げるSPDと緑の党が大きく立ちはだかりました。CDUは、支持基盤であるバーデン・ビュルテンベルク州の州議会選挙で過半数を失うか否かという瀬戸際に立たされたのです。

福島原発の事故直後、メルケル首相は、17基の原発の稼動期間の12年延長するという方針の猶予と、最も古い7基を安全点検のために3ヶ月間停止することを決めました。しかし、それは選挙向けのパフォーマンスにすぎないと受け止められて脱原発世論に拍車がかかり、情勢は、野党勢力、とりわけ一貫して脱原発を掲げてきた緑の党が再び優勢となってゆきます。結局、CDUは州議会選挙で敗北。緑の党は第2位に躍進し、3位のSPDと組み、初の州連立政権を誕生させたのでした。

そして、福島原発事故から2ヵ月半後の5月30日、メルケル政権はドイツ二度目の脱原発宣言を行ったのです。2011年6月の時点でのメルケル政権の新計画は以下のようになっていました。新計画は、福島の事故を受けて、メルケル首相が設置した倫理委員会(EthicsCommission)によって出された、「ドイツにおける将来のエネルギー政策の指針」に基づいています。

   
・ ドイツ国内の全ての原発を2021年までに停止。ただし、例外として、代替エネルギーへの変換が予定通りに進まなかった場合に備え、3基のみ2022年まで運転することを認める。

・ 福島原発事故を受けて停止させた7基(1975−1980年建設で老朽化が進んでいる)については再稼動はしない。また、2009年の事故以来、停止状態にあるシュレースヴイッヒ・ホルシュタイン州のクルーメル原発(1984年運転開始)についても廃炉にする。

・ バーデン・ビュルテンベルク州のフィリップスブルク第一原発か、ヘッセ州のビブリス原発のどちらかひとつは、万が一の電力不足を想定して運転再開できる状態に保つ(冬季の太陽光発電による出力が低下した場合、隣国からの輸入量が低下した場合など)。

・ 2010年に緊縮財政の一環として導入した「核燃料税」(原発による電力にかける税)の徴収を継続する。プルトニウムやウランを使用した原発から徴収するもので、これにより23億ユーロの税収を見込む。

・ 送電所や蓄電施設の建設を早期に実施し、再生可能なエネルギーへの転換を念頭にしたインフラ整備を進めるための法案を成立させる。化石燃料による発電所が2013年までに完成の見込みであり、これにより10ギガワットの出力が期待できる。2020年までに、さらに10ギガワットレベルの発電所が必要となって来る。
Roadmap for the Energy Revolution Germany to Phase Out Nuclear Power by 2022
 
  
 
しかし、これらの計画に対し、野党であるSPDも、スタンド・バイの状態を維持できる原発などないとして技術的な問題点を指摘した他、緑の党も粗雑な政府案に対し政府が本気で取り組む気があるのか疑わしいと表明したほか、経済界からも脱原発への懐疑論、反対論が相次ぎました。

ドイツの電力最大手EONの2011年の収益は25億ユーロと、前年の50%減少となる大打撃を受けました。原子炉の稼動停止による発電量の減少が主な原因です。天然ガス部門の収益もはかばかしくなく、2012年の収益も27億ユーロにとどまるとされています。株価は昨年度は16%落ち込みました。メルケル政権による脱原発の決定は、企業経営を根底から覆す事態となっています。E.ONでは150億ユーロ部門売却や投資の撤退などの必要に迫られています。

以前の計画では、廃炉にするまでに供給できる電力量が割り当てられていており、原子炉の残存出力を基に実利を計算して出したものが、この新計画では運転期限が先に設定されてしまっています。例えば17基の原子炉で981,000ギガワット時程度の電力供給が残っていますが、こういったまだ価値のある原子炉を運転停止することにより多額の損失が免れません。

各電力会社では、政府による決定がもたらす損失の補償を強く求めていくとしていますが、補償額は、200億ユーロ(およそ290億ドル)に上ると見られている他、課税を継続するとされている燃料税についても各社は法的手段もとる構えを見せています。E.ONのCEOは、運転期間の延長をもとに燃料棒税は導入されたものであり、運転停止後の徴税は法律違反であるとして、政府を相手取った裁判を示唆しています。

次回へ続く・・・

posted by Oceanlove at 06:41| 震災関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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