今回の帰省中、私たち3人は、生涯の思い出となるであろう、心を震わせられる旅を経験した。被災地、岩手県大船渡市にある小学校を訪ねる2泊3日の旅だ。甲府から大船渡までは片道約630キロメートル。甲府から特急あずさ、東京からは新幹線を乗り継ぎ、被災地入りはレンタカーを使う。到着まで所要時間8時間の道のりだ。
新幹線に乗るのは、子供たちは初体験だ。東京から一ノ関までは約2時間半。地図で確認すると、東京から約450キロ。アメリカではこれくらいの距離なら車で移動が当たり前だが、5時間はかかる。子供たちは、文字通り飛ぶように過ぎ去る景色に、しばし言葉もなく見入っている。
午後1時過ぎに一ノ関駅に到着。駅レンタカーで予約しておいたトヨタヴィッツに乗り込み、大船渡までの75キロ、約2時間半のドライブがはじまった。市街地を抜け、北上川を渡ると、車窓の景色は田園と野山の緑一色となった。なんだか、とても懐かしい心に沁みる日本の美しい農村風景だ。

県道19号そして今泉街道は、曲がりくねった険しい山道が延々と続く。最後の峠を下り、気仙川を渡って国道340号線に出ると、いよいよ広田湾に向かって扇形に広がった三陸の町、陸前高田市だ。彼方に見える海と陸との境界がかすみ、目の前にだだっ広い景色が広がっている。主要道路とところどころに残った鉄筋ビルの残骸、瓦礫の山以外は、無残に掻き消されたような荒涼とした市街がたたずんでいた。
陸前高田は平地が広いため広域にわたり浸水した。そして高台までの距離があり、多くの人々の避難が遅れて被害が拡大した。人口23,000人のうち、犠牲者数は1,795人。人口に対する犠牲者の割合は、被災3県の市町村の中で最大だった。
震災から1年3ヶ月、道路の瓦礫は押しのけられ市街地はきれいに更地となっているが、いたるところが瓦礫の山だ。土砂などの堆積物が多く、瓦礫処理の進ちょく率は11%と、他の被災地と比較しても低いという。
行く手の右前方に、かの一本松の姿が見えた。海岸沿いに2キロ余りにわたって続いていた高田松原公園の7,000本の松は、津波によって根こそぎ流されてしまった。その中で、助かった奇跡の一本松。それは被災地における生存と希望のシンボルだ。
しかし、生き延びてほしいという人々の願いとはうらはらに、頭のてっぺんまで茶色く枯れかかった一本松の再生は難しいらしい。最近、市が保存のための募金を募ることにしたという。
海に面した国道45号線に出て左に折れる。と、道路わきに5階建てのマンションのような廃墟が二棟見えた。1階から4階まではベランダの柵や窓ガラスが破壊され、室内が暗い空洞となっている。この辺りは4階の高さまで一面津波に覆われたことが一目瞭然だ。その高さに圧倒される。
こうして現場を見ていると、押し寄せる津波のイメージが膨らみ身がすくむ思いがする。子供たちもショックを隠せない様子だ。
陸前高田市の「災害に強い安全なまち」を目指した復興計画はまだ始まったばかりだ。高さ12.5Mの防潮堤の建設、市街地の5メートルのかさ上げ、丘陵地への新しい住宅地の開発、防災性と利便性を兼ね備えた道路・鉄道・公共施設などインフラの整備・・・。この復興計画は、施策の基盤整備と復興展開期をあわせて8年間を目標期間としている。
その間、人々は仮設住宅で暮らしたり、自力で家を再建したり、復興助成金で自営業を再開したり、集落ごと高台への移転をしたり、いろいろな選択を迫られることだろう。国と行政と住民とを挙げた復興が、より迅速で、復興に向かう人々の営みが少しでも痛みが少ないものであるように、心から願わずにはいられない。

起伏の激しい三陸海岸を陸前高田から大船渡へとつなぐ国道45号線は、午後5時近く、ようやく大船渡湾を見下ろす高台へと出た。湾を右手に見ながら市の中心部へと北上する。両脇の道路沿いの建造物を眺めると、海側は道路や家屋の損傷のあとが激しく、山側は以前からの町並みを残している。
大船渡では、人口約4万人のうち424人が震災の犠牲となった。主な産業である漁業は壊滅的な被害を受け、震災一年で、再開した漁業者の割合は約30%だと聞いている。
宿泊予定のプラザホテルは、海岸に近い被害の大きかった地区にある。周辺の建物はほとんど流されて埃っぽい更地になり、所々に積まれた瓦礫と、枠縁のように残されたアスファルトの道路ばかりが目に付く。そんな殺風景な一角にはあまり似つかわしくない感じで、ホテルの小奇麗な建物はポツリと立っていた。
5階建てのは建物は3階まで浸水したが、すでに損傷部分の修復が終わり新装オープンしている。フロントは、こじんまりとしてはいるが真新しくて瀟洒だ。なんでも、現在大船渡市でオープンしている5つほどのホテル・旅館はどこも復興関係者などで込み合っているそうだ。私は旅行の2週間ほど前に何軒かに電話をしてやっとこのホテルの和室が一室予約できた。
6時過ぎ、近くで食事のできる場所をフロントで聞いたら、ホテルからほんの数ブロックのところにある屋台村を紹介してくれた。そういえば、被災地にできたプレハブ建ての食堂街のことは、少し前にテレビ報道で見たことがある。
夕闇に包まれようとしている被災地の一角。赤提灯でライトアップされた正面ゲートには「ようこそ!大船渡・屋台村」と書かれた看板がかかっている。
何棟かの平屋の建物に、ラーメン屋、寿司屋、居酒屋など計20件が軒を並べている。各店舗からこぼれる明かりには、自然と吸い込まれるような街の温もりがある。客の数はまだまばらだが、地元の住人に混じって、復興事業の関係者らしき作業服の人々がカウンター席でビールのジョッキを傾けながら談笑している。
この屋台村は、大船渡屋台村有限責任事業組合が主催している。津波で店を流された飲食店経営者らの集まりだ。自己資金で店を再開したり融資を受けたりすることは困難なため、全国から個人・企業・団体のサポーターを募り、出資金を屋台村の建設にあて、運営と販売促進を行っている。大船渡の漁業を復活させるためにも、集客力のある飲食店街は欠かせない。(屋台村ホームページ)
私たちは、一軒一軒の店先でメニューを丹念にチェックした後、そば屋に入った。おや、珍しい客だな・・・という文句が店主の不思議そうな顔に浮かんでいる。観光で来る人はそんなにいないし、ましてや子供連れなどめったにいないのかもしれない。子供たちは冷たい付けそばと揚げ出し豆腐、私は天丼を注文した。
無口そうな店主は、もくもくと調理をしながらも、ポツリポツリと旅人の私たちの問いかけに答えてくれた。自宅は無事だったけれど、前にやっていた店は流され、一人でこの店を切り盛りしているそうだ。
お腹が満たされ、私たちは屋台村を後にした。外の闇が濃くなり、よりいっそう温かみを増した村の明かりに、人々は引き寄せられるように集う。漁港の再開や産業の開発とともに、訪れる人がどんどん増え、繁盛してほしい。そして店主の皆さんの生活の再建と、町全体の復興につながっていってほしい。いや、この屋台村の明かりが、すでに復興の大きな原動力となっている・・・そんなことをひしひしと感じた夜であった。

翌6月21日、朝7時半にホテルを出発の予定のため、6時に起床、荷物をまとめてチェックアウトし、一階のレストランで朝食を済ませた。
今回の私たちの小学校訪問には、某テレビ局が同行し密着取材をすることになっていた。アメリカの小学生が被災地の小学校を訪れ、互いに交流する様子を報道する、という趣旨だ。7時半には、テレビ局のスタッフがホテルに到着し初顔合わせをした。取材は、私たちがホテルのロビーを出て車に乗り込むところから始まった。取材班を乗せたバンが、私たちのレンタカーを追う形だ。
大船渡市の越喜来(おきらい)小学校との縁は、震災直後、我が家の子供たちが通うカリフォルニア州のコロニーオーク小学校の生徒たちが、被災地の小学生に宛てて励ましと祈りの絵手紙を書いたことに始まる。
募金以外の支援として何かできないか考えた末に、心をこめて書き綴った250通あまりの「アメリカからの手紙」は、知り合いの紹介で、それまでまるでゆかりのなかった越喜来小学校に届けられた。海の向こうからの思いがけない励ましと祈りの言葉に、越喜来小の子供たちはとても喜んでくれたようで、一ヵ月後にはアメリカに返事が届いた。
そんな交流があってから一年余り。震災関連のニュースはほとんど聞かなくなってしまったアメリカで、あの時の子供たちは今どうしているだろうか、という思いが私の中で消えることはなかった。時折、アメリカの人々から被災地の状況について聞かれるが、私自身現地を見たことがないのでまともに答えられない。
私の中で、自分の目で被災した現地を見なければならない、という思いが次第に強くなっていった。是非あの小学校を訪ね、子供たちに会い、そしてそこで見たものをアメリカに持ち帰り、伝えたい・・・。
そんな思いから、6月の帰省に合わせて学校に直接連絡を取り、訪問を依頼した。学校側は快く受け入れてくださり、長男は6年生、長女は4年生の教室に一日体験入学させてもらうという形で実現することになった。
震災前、越喜来(おきらい)小学校は、越喜来湾の入り江の波打ち際が目と鼻の先という絶景の場所にあった。3月11日、津波の襲来で3階建ての校舎は屋上まで波にのまれ、体育館の屋根もめくれ上がり、完全に破壊されてしまった。校舎の残骸は今もそのまま残り、校庭には瓦礫が山のように積み上げられている。
しかし、本当に幸いなことに、全校生徒と先生たちは校舎の裏側にある避難通路を通って山の高台に避難し、全員が無事だった。震災後、生徒たちは被害のなかった隣の小学校で一緒に授業を受けていたが、今年の4月からこれら近隣3校が併合され、正式に越喜来小学校として歩みだすこととなった。全校生徒104人。統合前より3割ほど人数が減った。

朝8時20分、学校に到着すると、これまで連絡を取り合い準備を進めてくださっていた副校長先生を始め、諸先生方とたくさんの子供たちが元気いっぱいの笑顔で迎えてくれた。一校時目は6年生の教室で、2校時目は4年生の教室でそれぞれ交流の時間となった。私が進行し、長男と長女がアシストする形で、「アメリカでの生活」と題したパワーポイントで作成したプレゼンテーションを見てもらった。
カリフォルニア州やコロニーオーク小学校がどこにあるのか地図を見てもらい、街や学校の紹介をする。学校の授業風景やスポーツの活動、ボーイスカウトや様々な課外活動の様子も、カラフルな写真と動画で紹介した。
日本とアメリカの違うところとして、「上履きにはき替えない」「音楽や図工の時間がない?!」「休み時間におやつを食べられる!」などを伝えると、みんな「へえー」「うそーっ、なんでー?」「えーっ、いいなー!!」など、思ったとおりの大反響。
また、アメリカでは給食にピザやハンバーガーも出ると聞いて、ワイワイ大騒ぎに。日本の学校給食では絶対に出ないであろうファーストフードは、彼らにはよっぽど魅力的なようだ。我が家の二人は、日本の給食の方がおかずの種類が多く、毎日いろんなメニューがあって美味しいと証言したが(これは本心なのだが)、まったく納得してもらえない。
私たちからは、「岩手ってどんなところ?」という質問をさせてもらった。さすが6年生はいろいろよく知っている。まずは、2011年に世界遺産に登録された平泉の中尊寺。盛岡のわんこそば。クラスに100杯以上食べた女の子がいたのにはびっくり。それから、宮沢賢治のゆかりの地、三陸のわかめや魚介類が挙げられた。
知っているアメリカ人の有名人は?と聞くと、なんと言ってもレディーガガ。それからマイケル・ジャクソン、スティーブ・ジョブズ、オバマ大統領。トム・クルーズなんて、私たち親世代の人気俳優の名前も出て、びっくり。
交流の時間の後は平常の授業となり、子供たちは社会や体育、家庭科や習字などの授業に参加させてもらった。習字の授業は、アメリカで育つ二人に日本の伝統文化に触れてもらいたい、との先生方の配慮で入れてくださった。
給食の時間は、エプロンを着て配膳もさせてもらった。この日のメニューは、炊き込みそぼろご飯、野菜とキノコと豆腐のスープ、酢の物のサラダ、そして牛乳。私もおいしくいただいた。長男は遠慮なくご飯をお替りしていた。

校長先生にお話を伺った。人懐っこい笑顔が印象的で、初対面の堅苦しさが全くない。先生が最も強調されたのは、今年は学校の平常化を目指しているということだ。どういうことかというと・・・。
震災後の去年は、全国各地から数多くの様々な支援の申し出があった。「支援を受け入れることも被災地の務め」と考え、それらをすべて有り難く受け入れてきたそうだ。義損金、学用品や衣服、吹奏楽で使う楽器のプレゼントなど物質的な支援のほか、交流型の支援もあった。たとえば、プロのバイオリニストの演奏会、芸人によるコント、九州や沖縄など全国各地の学校との学校間交流・・・。国内のみならず外国からも、ドイツ、スイス、アメリカ、カンボジアなどから支援があったそうだ。
しかし、支援をする側の数は多いがそれを受ける側の学校はひとつ。対応には苦慮した面もあるようだ。震災後の非常事態の中で、授業も変則的になり学校生活が混乱していた時期だ。ただでさえ不安定な日常に支援や交流のイベントが盛りだくさんとなり、落ち着きは取り戻せなかった。交流には手間も時間もかかり、ましてや、外国との交流ということになると言葉の壁があって対応しきれない。支援をする側と、受ける側に期待値のずれがあった。
そこで、今年度からは、平常化ということを第一に考え、できる限り震災前と変わらない普段どうりの学校生活を送ることを目標にすえた。様々なところから支援や交流の申し出があってもすべて受け入れず、そこに教育的価値があり、生徒たちにとって益となるかどうかを見極めたうえで選択的に受け入れることにしたそうだ。
とにかく、子供たちが普通の、ごく当たり前の学校生活を送れるようにすること。被災による様々な困難の中で、子供たちを守り学校全体を導く校長先生の固い決意と熱意が、その笑顔の奥に見え隠れしていた。

越喜来小の子供たちは、とにかく元気いっぱいだ。無邪気で好奇心旺盛で、どこの小学生と比べてもなんら変わったようには見えない。もちろん、私が見たものは、子供たちの日常を構成する小さな一片、それもほんの表層部分に過ぎない。
私は今回の訪問は、友好的な交流を目的とし、あえて震災や津波に関する話題には触れないことに決めていた。そんな私の考えを見通したかのように、アメリカからの訪問者を囲んでひときわ賑やかな教室を見やりながら、一人の先生が語ってくれた。
この子供たちは、校舎が丸ごと波に呑まれる様子を目の当たりにしたと。津波警報が出て全員が第一避難所に移動したが、そこも危ないということで、さらに高い第2避難所に移動している最中だった。その場にいて目撃した人でなければ、津波の凄まじさ、怖ろしさはわからないだろう。子供たちがどれほどの恐怖感やショックを味わったのか、今どんな心の傷を抱えているのか私には想像すらできない。
身内を亡くした子供もいれば、家を流され仮設住宅から通っている子供もいる。親の仕事や様々な家庭の事情で町を離れ、遠くの親類のところに避難したり、他県に移り住んだ子供たちも少なくない。子供ばかりでなく、母親が海を見るのが怖くて思い出したくなくて引っ越していった家族もあるという。
先生は続けた。津波の恐怖や大きな心の傷を抱えている場合、思い出したくないからと生活の場を変え、まったく震災とかかわりのない環境に身をおくことは、必ずしも益とならないのだそうだ。
震災との関わりをいきなり断ち切ってしまうと、感情や傷口が急速冷凍され、心の奥に閉じ込められてしまう。表面上は平常な生活を送れていても、ちょっとした地震の揺れや震災を思い起こさせる何かがあると、閉じられていた心のドアが外れ傷が露わになる。パニックを起こしたり精神が不安定になってしまう。
心の癒しは、被災地の暮らしの中でゆっくりと、支え合い、その風景の変化を見届けることでもたらされるのだと言う。震災の傷跡を毎日見ながら生活することは辛いけれども、瓦礫が少しずつ片付いたり、学校生活が平常さを取り戻したり、町の復興が進んだりするのを肌で感じることが、時間はかかるが、心の傷を真に癒すことにつながるのだと。
廊下の壁に飾られた、大きな力強い色彩のひまわりの絵。「命輝く」という題が印象的だった。

給食をいただいた後、私たちはそれぞれの教室でお別れの挨拶をした。越喜来小の子供たちからも、アメリカと日本は遠いけどお互いにがんばろう、これからも交流を続けたいなど、励ましや希望の言葉が贈られた。わずかな時間の交流だったが、国の垣根を越えて子供たちの感性が響き合っていたような気がする。
このような機会を提供してくださった先生方と子供たちに心から感謝し、越喜来小の一日一日が平穏で充実した歩みとなるよう祈りつつ、学校を後にした。
被災地、岩手県大船渡への旅は終わりに近づいた。再びレンタカーで一ノ関へと来た道を戻る。一ノ関からは、深夜11時50分発の夜行バス「けせんライナー」に乗る予定だ。翌朝の5時40分には東京の池袋に着いているだろう。無事訪問の予定をこなし、取材も終えて緊張が解けたのか、二人とも後部座席でぐっすり寝入っている。
被災地の風景と小学校での交流は、衝撃的であると同時に、同年代の子供たちと心がつながる喜びの体験として、我が家の子供たちの胸に克明に刻みつけられたのではないかと思う。
越喜来小の子供たちも、お互いの共通点や違いを発見して驚き、アメリカという国を少し身近に感じてくれたに違いない。そしてもし、彼らの中に、あの日アメリカから訪ねてきたお友達がいた・・・という記憶が、復興への歩みの中の希望のひとかけらとして残り続けてくれたら、こんなに嬉しいことはない。
震災という悲しく困難な出来事を通して出会った両国の子供たちが、今の彼らなりに、お互いを理解しあったり尊重しあったりすることの大切さを知る、ひとつの機会になってくれたらとも思う。
私自身、被災地をこの目で見て、子供たちに会って、アメリカに帰ってから人々に伝えるべき確かなものを得た。
「被災地とアメリカをつなぐ旅」というこのブログのタイトルには、少し大げさだけれども、そんな気持ちが込められている。
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