2012年07月28日

ドイツ脱原発30年の歩みと「緑の党」が果たした役割

7月16日、東京代々木公園で、大規模な脱原発集会が開かれました。主催者側(脱原発を訴える市民団体などでつくる「さようなら原発一千万人署名市民の会」)の発表で参加者は17万人(警察当局発表で7万5千人)と、これまでの反原発集会の中で最大規模となりました。この市民の会は、当初は300人程度から始まった毎週金曜日のデモは、野田政権による大飯原発再稼動への反発から、6月半ばから参加者数が爆発的に増加しています。私も、一時帰国中の6月22日、官邸前での集会に参加してきました。

よく言われているように、この脱原発デモの特徴は、組織的に動員された人々によるものではなく、インターネットやツイッター、フェイスブックで情報が広まり、「脱原発」「再稼動反対」に賛同する個人が、自らの意思で集まってきているという点です。基本的に行進はなく、2-3列に立ち並び官邸周辺の道路を囲んで声を上げる、極めて平和的な抗議集会です。

これまで、デモなどの行動に訴えることがあまり得意ではなかった国民−外国からなぜ日本人は怒らないんだ?と不可解にさえ思われてきた国民−がついに立ち上がりました。中高年者、若者、会社員、主婦や家族連れ、不特定多数の市民が、名前も所属も関係なくただ「再稼動反対」と叫び、人のうねりをつくり、聴覚的に視覚的に、政府やメディアがいやでも無視することのできないシーンを生み出しています。

6月29日、総理と閣僚が出席する「エネルギー・環境会議」は、2030年時点でのエネルギー政策で原子力発電比率を0%、15%、20-25のいずれかにする三つの選択肢を決定しました。7月に全国で国民を交えた議論を行い、8月中に政府がエネルギー政策を決定するという予定になっています。今こそまさに、国民の声を政府に届けなければならない時です。この17万人もに膨れ上がった脱原発の国民的アクションを、エネルギー政策に反映していかなければなりません。

アート思い起こさせられるドイツの脱原発デモ
この脱原発への市民運動の盛り上がりは、福島原発事故直後のドイツ国内でのデモを彷彿とさせています。2011年3月26日、福島原発の事故の2週間後、ベルリン、ハンブルグ、ケルン、ミュンヘンの4都市で計20万人が参加するドイツで過去最大といわれる脱原発デモが行われました。その後も5月末にかけて、数十万人規模のデモが繰り返され、ドイツの世論は圧倒的に脱原発へと傾倒していきます。そして、福島原発事故からわずか2ヶ月半の5月30日、メルケル首相は国内すべての原発を停止する発表を行ったのでした。

しかし、事故の当事国でもないのに、なぜあれほど大規模な反原発のデモが起きたのでしょうか。直接的な被害を受けたわけでもないのに、なぜあれほどスピーディーに脱原発という国家のエネルギー政策の転換が行われたのでしょうか。

福島原発事故は、ドイツが脱原発に舵を切る大きな契機となったことは確かですが、それによって突然国家のエネルギー政策がひっくり返ったわけではもちろんありません。ドイツが脱原発を決断するまでには、フクシマ以前の実に過去30年間にわたる長い道のりがありました。そして、その歩みの中で脱原発への道筋をつける最も重要なカギを握っていたのが、ドイツ「緑の党」の存在です。私はずっと、このことについてまとめなければならないと考えてきました。

国の事情はいろいろ違えど、脱原発に至ったひとつの手本として、また環境政策で世界をリードする国として、日本がドイツから学ぶことは多いと思います。ドイツ脱原発30年の道のりと緑の党が果たした役割について、時代を追いながら次の4段階に分けて、解説していきます(今回の記事では序章と第一転換期まで)。

序章−ドイツ反原発運動の始まりと緑の党の結成(〜1980年)
第一転換期−チェルノブイリから、統一ドイツ・エコロジー経済改革へ(1980年代半ば〜1990年代後半)
第二転換期−緑の党の躍進と苦悩(1998〜2005年)
第三転換期−メルケル政権と新エネルギー政策(2005年〜現在


序章−ドイツ反原発運動の始まりと緑の党の結成(〜1980年)

アートワイン農家らが潰した原発建設

ドイツの原子力発電は、研究・実験用施設の建設は1950代に、商業用施設の運転は1969年に始まりました。1973年のオイルショックを経て、ドイツでも他の国々と同様、エネルギー供給の国外依存度を減らすために、原子力発電の拡充が図られていきました。安定的な電力供給を掛け声に政・官・業を通して積極推進され(1970年代には14基、80年代には4基が建設着工)、原発は全国各地に次々と建設されていきます。現在までにトータルで36基の原発が建設され、そのうち19基がすでに廃炉となり、福島原発事故以前は17基が稼動していました。

しかし、ドイツでは建設ラッシュの70〜80年代から、原発推進をめぐって激しい論争が展開されていました。電力会社や州政府が原発建設を計画した地域ではどこでも大規模な反対運動が起こり、全国各地で、建設計画を遅らせたり、中止させたりする事態が起きました。また、廃棄物の最終処理をどこで行うかが未解決のままだったため、使用済み燃料の輸送や廃棄物処理の問題への関心も、すでに1970年代から高まっていました。(エンルスト・ウイルリッヒ・フォン・ワイゼッカー著「地球環境政策」より)

ドイツ南西部のバーデン・ビュルテンベルク州、フランスとの国境近くに人口3000人余りのヴィールという村があります。ワイン農家を営む人々が暮らすこの小さな村に、原発誘致の話が持ち上がったのは1971年のことでした。地元の反対にもかかわらず、3年ほどの間に誘致準備は着々と進み、1975年には正式な建設許可が下りて着工の運びとなりました。

ところが、反対を訴え続けるワイン農家の住人らは、着工を阻止すべく建設現場に座り込みを始めたのです。二日後、座り込みを続ける住民たちを警察が強制的に引きずり出す様子がテレビで放映されると、建設反対は周辺の市町村のみならず全国的な注目を集めます。直後には、地元の名門フライベルク大学の学生らを中心に3万人が集まり着工現場を占拠する事態に発展し、州警察は群衆を強制的に撤退させることを断念してしまうのです。その一ヵ月後、建設許可は取り下げられ、原発誘致は失敗に終わりました。(
Anti Nuclear Movement in Germany

アート緑の党の結成
このヴィール村の事件は、反原発市民運動の成功例として、全国各地の原発建設予定地に飛び火し、反原発運動は組織化され広がっていきます。この運動の先頭を走っていたのが環境保護団体Green Party、「緑の党」の前身の団体です。

Green Partyとは、大きくは「社会的公正」「参加型民主主義」「非暴力主義」「環境保護」などを理念として政治的活動を行う団体、政治勢力のことを指します。その起源となるのは、1970年代頃から欧米先進諸国で始まった自然環境保護、反核・反戦、女性解放運動、消費者保護などテーマにした社会運動、いわゆる“Green Movement”です。ニュージーランドやオーストラリアをはじめ、スイス、イギリス、ドイツなどにおいて、地域に根ざした、また国境を越えたグローバルな規模で活動をするこれらの市民団体が、次第に政治的な影響力を持つようになり、各国のそれぞれの法規に則った政党としてのGreen Party「緑の党」が結成されていきました。(
Green Party) 

その先駆けとなったのは、1972年オーストラリアのタスマニア州での選挙で、自然保護を訴えたUnited Tasmania Groupだといわれています。ヨーロッパにおける初の緑の党は、1973年にイギリスで発足したPEOPLEという組織であり、後のイギリス「緑の党」です。次いで、フィンランド、ベルギー、フランス、アイルランド、オランダなどでも、Green Partyが政治の舞台に台頭するようになっていきます。

中でも、緑の党が国政において強い影響力を持つようになったのは旧西ドイツでした。西ドイツ緑の党は、60年代の学生運動、70年代の環境保護・反原発運動、80年代の平和運動などの流れを汲みながら、次第に政治的な力を強めていきます。

1979年、各地で反原発および反中央集権主義を掲げて活動していたGreen Partyや他の市民組織が西ドイツ・フランクフルトに結集し、翌1980年、正式に「緑の党」を結成しました。その年には、初めて州議会議員が誕生し、州政府レベルで他党と連立政権を担うなどして地方政治への影響力を発揮し始めます。そして、1983年の国政選挙では5.6%の得票率で緑の党から初めて27名の国会議員が当選したのをきっかけに、国政へと躍進していきます。旧西ドイツで、環境保護・反原発を旗印にした「緑の党」が誕生する1980年までを、ドイツ脱原発への序章と名付けることにしましょう。最初に、ドイツの脱原発まで30年の歩みと私が書いたのは、この年を起点としています。


第一転換期−チェルノブイリから、統一ドイツ・エコロジー経済改革へ(1980年半ば〜1990年代後半)

アートチェルノブイリとベルリンの壁崩壊の衝撃
1980年代は、世界的に地球の温暖化やオゾン層の破壊、森林破壊の問題が指摘され始めた時代です。80年代半ばごろになると、ドイツでは早くも政府・国会レベルで地球温暖化・気候変動の問題が取り上げられていました。

1987年、コール政権は、
「地球規模の環境変動についての科学者委員会(WBGU)」を設置し、ドイツにおける地球温暖化対策の最初の目標を、二酸化炭素とメタンの排出量を1987年と比較して2005年までにの25%、2050年までに80%削減するとしました(1990年国会)そして、政権内では地球温暖化問題と連動して、将来のエネルギー政策を抜本的に見直して行く必要があるという認識がすでに広まっていました。

1980年代後半〜90年代には、ドイツの国内外で様々な出来事が起きました。チェルノブイリ原発事故(1986年)、東西ドイツ統一(1990年)、欧州連合(EU)条約の調印(1992年)とユーロ圏の市場統合など、ドイツの政治・経済・社会全体にとって激動の、そして苦難の時代ともいえます。ドイツにおける環境政策や脱原発への流れは、この時期に推し進められた様々な国内の制度改革・法改正などを抜きにして語ることはできません。

旧ソ連チェルノブイリ原発の事故の衝撃は、ドイツにおける原子力政策に大きな影響を与えました。原発に関する人々の考え方も、85年までは原発賛成派と反対派が世論をほぼ二分していましたが、1988年までには反対派が70%まで急増する一方、賛成派は10%にまで落ち込みました。反原発を掲げる緑の党がにわかに脚光を浴び始め、翌年の1987年の国政選挙で大躍進し、得票率でそれまでで最高の8.3%、国会における42議席を獲得します。この時、中道左派の社会民主党(SPD)が段階的な脱原発を推し進めたのに対し、緑の党は即脱原発を訴えていました。

ちなみに、チェルノブイリ事故と同年に建設着工していた西ドイツ・ネッカーヴェッセイムの原発が1989年に完成し、新規運転が始まりましたが、これがドイツで最後となる原発です。

その1989年、ベルリンの壁が倒壊。旧東ドイツでは、社会主義政権下で運営されていた化学工場やアルミニウムなどの国有企業がほとんどストップし、電力需要が急激に低下しました。その結果、旧東ドイツの原発6基は運転停止に追い込まれます。ポーランドとの国境に近いグライフスバルト原発では、1974年に創業開始以来、旧ソ連型の軽水炉(VVER)の原子炉を運転してきましたが、5基目が稼動を始めて1年を待たずに廃炉への道を余儀なくされます。当時のコール政権は、旧ソ連型の原子炉の安全性を疑問視するなど、原発業界にとって風当たりはますます厳しくなっていきました。

一方、旧東ドイツにおいても、東西統一直前の1989年に「緑の党」が発足していました。90年の東西ドイツ統一後初めて行われた国政選挙では、旧東ドイツの「緑の党」からも国会議員を送ることに成功します。発足当初は、東西統一に反対の立場をとっていた旧東ドイツ「緑の党」でしたが、1993年には、
東西の「緑の党」が、Alliance‘90・The Greens(90年連合・緑の党)として統合され、以後ドイツ国内はもとより、ヨーロッパにおける大きな影響力を発揮していきます。

アートドイツ経済の低迷とエコロジー経済改革
1990年代のドイツ経済は、統一後の財政赤字転落、失業率増大、旧東ドイツへの援助の増大などにより景気の低迷が続きました。それに加えて、競争率の低下や経済の停滞の背景にあると見られているのが、ドイツ特有の企業文化や習慣です。すなわち、高い賃金水準、高福祉を支える重税負担、株主利益より雇用維持を優先する制度と慣行、株式持ち合い(金融機関、資本家、事業主が株式を持ち合い、大銀行などが安定的な大株主となって影響力を行使するような企業形態)に象徴される保守的で閉鎖的なコーポレート・ガバナンスなどが挙げられるでしょう。

このような保守的な企業形態においては、敵対買収などがおきにくく独占的経営が維持される一方で、自由競争が阻害されます。また、アメリカやイギリスなどが徹底した利益追求主義によってリストラを行うのに対して、ドイツでは従業員の雇用優先などにより、事業形態を迅速に変えることができないといった面がありました。

ドイツ経済の大黒柱ともいえる電力業界は、1935年に制定された電力供給事業法(Energy Supply Industry Act)に基づいた仕組みが60年以上維持され、大手8社および約700の地方自治体が運営する小規模電気事業者などが独占的してきました。各電力事業者の既得権益−電力供給の区割りや送電契約、固定顧客への供給、余剰電力の送電、電力の貯蓄など−には関係省庁や地方行政などがあらゆるレベルで関わり、認可と引き換えに利益が潤沢に分配されるなど、自由競争とはかけ離れた実態がありました。(
Three Decades of Renewable Electricity Policies in German

つまり、統一後のドイツのジレンマは、EU経済の牽引役でありながら、賃金水準の高さやエネルギー価格の高さ、そしてドイツ特有のコーポレート・ガバナンスのあり方や市場独占などにより、低成長率、失業率、競争力にも不安要素を抱えていたということです。 

そんな中、ドイツでは1990年代初めごろから、「エコロジー的近代化論」に基づき、環境分野への戦略的投資により技術革新、経済成長、雇用創出を目指す政策が導入されてきました。「エコロジー的近代化論」とは、「持続可能な発展を近代化の新たな段階として捉え、近代化・合理化の帰結として発生した環境問題を、社会システムの政策的革新によって解決しようとする思想」です。(「ドイツの脱原発と気候・環境戦略」)

 ドイツでは、EUにおける様々な環境政策・規制緩和に先立ち、また並行して、国内の様々な環境・エネルギー分野に特化した制度改革と規制緩和に踏み切っていきます。それらのうち重要なものに以下にあげる5つの法律があります(カッコ内の年代は施行開始年)。 

1)   電力供給法(1991−1999年)
2)   エネルギー事業法(1998年)
3)   環境税(1999−2003年段階的導入)
4)   再生可能エネルギー法(2000年、2004年)
5)   改正原子力法(2001年)

 それぞれの内容については、次回のブログで説明しますが、これらの制度改革や規制緩和の必要性が高まり、議論を呼び、法案化されて国会審議が行われていた90年代、ドイツがネルギー政策に関していかに重大なプロセスを歩んでいたかがわかります。1986年のチェルノブイリの事故により反原発の国民世論が高まり、東西ドイツ統一と「90年連合・緑の党」結成、統一ドイツによる経済再生に向けた様々な制度改革(エコロジー経済改革)への着手が行われた1998年までを、脱原発への第1転換期と呼ぶことにしましょう。

次回へ続く・・・

ラベル:緑の党 green party
posted by Oceanlove at 07:11| 震災関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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