皆さんは、「スケープゴート」という言葉の意味をご存知でしょうか。
ヘブライ聖書に、古代ユダヤの儀式「スケープゴート」について記されています。贖罪の日に、人々の苦難や行った罪をヤギの頭に載せて悪魔のいる荒野に放すというものです。
スケープゴートとは、宗教的な意味合いから転じて、ある集団の不満や問題の責任を、直接責任のない特定の個人やグループに転嫁し、身代わり・犠牲にすることで、それらの問題の解消や収拾を図ろうとする場合に使われる表現です。
政治の場面においても、小集団や社会的に立場の弱い人々をスケープゴートとして排除・犠牲にすることで、大集団やより力のあるグループの都合を優先したり利益を押し通すための手法として使われることがあります。しかし、それでは根本的な問題が解決されることはなく、憐れなヤギが犠牲になるだけなのです。
* * * * * *
11月25日ジュネーブにて、イランと主要6カ国(国連安保理事国5カ国+ドイツ、いわゆるP5+1)で行われていた核協議が、暫定合意に達しました。国際社会が求めていた、イランが核開発に歯止めをかけることを条件に、各国がイランに対し課していた経済制裁を一部解除するというものです。
オバマ大統領を始めとする各国政府は、「歴史的な合意」として支持する姿勢を見せる一方、イスラエルのネタニヤフ首相は、「世界で最も危険な政治体制が、最も危険な兵器の獲得に向けて極めて重要な一歩を踏み出した」と語気を荒立て、イラン敵視をこれまで以上に強めています。歴史的合意がもたらされた要因として、「経済制裁が功を奏した」という見方もあるようですが、それはあくまで一面的な、国際社会やアメリカにとって都合のいい解釈に過ぎません。また、暫定合意に関する評価としては、イランの核の脅威は軽減されていくだろうという楽観的なものと、いやイランのやることはわからない、暫定合意は角隠しだと警戒感のあるものとに大きく分かれているようです。しかし、それらはいずれも短絡的で的外れな評価でしかありません。
なぜなら、国際社会とイランとの間に横たわる問題の本質は、イランの核開発そのものにあるわけではないからです。言い換えれば、イランの核開発問題は、まさしくスケープゴートに他ならないのです。
今回のブログでは、イランの核開発問題がスケープゴートであるならば、イランに関わる問題の本質とはいったい何なのかということを、背景にあるアメリカ、イラン、イスラエル、そして中東地域をめぐる世界情勢の大きな変化を踏まえ、考察していきます。

6カ国協議に先立つ11月23日、米オバマ大統領は、アメリカが独自に科してきたイランへの経済制裁を一部解除することを決めました。オバマ大統領は、今後6ヶ月の間に、イランがP5+1との合意内容を着実に実行するか否かを確認し、その間に包括的なイランの核関連プログラムを策定すること、もしイランが合意内容に従わないのであれば再び制裁を強化することを強調し、アメリカ議会に対して、この合意への支持を要請しました。
イランに対するアレルギーの強いアメリカでは、衝撃的なビッグニュースとして取り扱われていました。この合意が着実に実行され、6カ月後に包括的な核プログラムが策定されていくならば、イランの核の脅威は軽減され、国際社会がイランを敵視する理由がなくなり、中東における緊張のひとつは解消されるということになります。
単純にいえば、このようなイランに核開発を止めさせるオバマ政権や国際社会による取り組みは、イスラエルにとって好ましいもののはずです。しかし、イランの核開発問題に解決の筋道がつけられアメリカとイランの関係が好転していくことを、イスラエルは望んでいない、という矛盾が存在します。
望んでいないどころか、ネタニヤフ首相は、今回の合意について歴史的なミステイクだと一蹴しています。一体それはなぜなのでしょうか。
確かに、歴史的確執のあるアラブ諸国にぐるりと囲まれたイスラエルにとって、アラブ諸国の中でも特異な、とりわけイスラエルに敵意を持つ国であるイランが核能力を持つことは大きな脅威です。国際社会も、イランの核プログラムが平和利用に限定されたものであることを確認する必要はあります。しかしイスラエルは、イランが今後核兵器の製造はしないとか、高濃縮ウランは保有していないなどと言っても信用できない、今後IAEAの査察や管理をもってしても、イランが高濃度のウラン濃縮を行わないという保障はない、などという疑念を口にするでしょう。
なぜその疑念が払拭できないのかといえば、それは問題の核心がイランの核開発そのものにあるわけではないからです。
イランに核問題がなくなってしまうとイスラエルが困るのは、イランの核問題やイランそのものをスケープゴートにしておくことができなくなるからです。イランが悪くないなら誰が悪いのかということになり、問題の大元が実はイスラエル自身の存在にあり、そして、その同盟国アメリカの、イスラエルに加担した中東政策にあるということがより鮮明になってしまうからです。しかも、これまで後ろ盾になってイスラエルを庇護してくれていたアメリカが、イランと仲直りしてしまったら、イスラエルは拠り所を失い、アメリカの中東政策によって押さえつけられていたアラブの怒りに火がつきかねないからです。
ところで、核開発問題ではイランばかりが取り上げられて、核開発疑惑という悪者のレッテルを貼られてきました。しかし、イスラエル自身が、すでにおよそ400発の核弾頭を保有していることは、国際社会ではほぼ公然の事実です。イスラエルは、核拡散防止条約(NPT)により公認された核保有国ではなく、NPTを批准もしておらず、核の保有に関しては、公式には肯定も否定もしない政策をとっています。この不透明なイスラエルの核保有に関しては、暗黙の了解として誰も疑問視することなく、核兵器の製造には程遠いレベルのイランのウラン濃縮はこぞって槍玉に挙げるという不平等がまかり通っているのが国際社会の現実なのです。

話を元に戻しますが、なぜイランはスケープゴートにされ、核開発疑惑をかけられたのでしょうか。
イスラエルの建国とパレスチナ人との闘争の歴史からも明らかなように、中東のアラブ諸国はみなイスラエルにとって敵国のようなものです。その中で、なぜイランは特別扱いされるのでしょうか。なぜイランだけがスケープゴートの対象にされているのでしょうか。イランの核開発問題は、その「国際社会」全体がイランを敵視するように戦略的に練り上げられた問題といっても過言ではありません。なぜ、イランがそこまで敵視されているかといえば、その答えは、一言で言えばイランが中東において唯一、アメリカに従属することを拒否した国だからです。
イラン以外の中東の国々は、パレスチナから土地を奪い取ったイスラエルに対する憎悪と政治的確執を抱きながらも、支配層が基本的にアメリカに従属する政治体制がしかれてきました。これらの支配層(主に大統領や国王など)は、石油やガスの産出による潤沢な富と、アメリカからの経済・軍事支援などを後ろ盾に国家権力を掌握し、長期独裁体制を維持し続けてきました。欧米の観点から見れば、アラブ諸国に親米独裁政権を維持させることは、欧米を中心とする世界秩序の中に、火種を抱えた中東を押さえ込んでおくための戦略でした。
その中で、イランは唯一、1979年のイスラム革命によって、アメリカとの決別を果した−つまり欧米の秩序の中に組み込まれることを拒んだ唯一の国です。イスラム革命では、それまでイランを統治していた親米のパーレビ国王は追放され、イスラム最高権威者のホメイニ氏を指導者とするイスラム独自の民主主義体制が敷かれました。イランが敵視されるようになったのは、そういうわけだからなのです。その後約30年に及ぶ欧米との国交断絶については周知の通りです。
では、イランでイスラム革命が起きた背景には何があったのでしょうか。現在のイランという国を理解するためには、少なくとも1950年代以降のイランの歴史上の出来事と、欧米との関係について知っておく必要があります。

中でも重要な事件のひとつが、1953年、イランのモハムド・モザデグ首相が、イギリスとアメリカの諜報機関によるクーデターによって失脚させられた事件です。
当時モザデグ政権は、英国の石油会社アングロ・イラニアン・オイル・カンパニー(現在のBritish Petroleum)を国有化する政策を掲げていました。20世紀はじめに設立されたこの会社は、当時最大の英国企業であり、イラン産出原油の利益はそのほとんどをイギリスが独占していました。イギリスによる石油支配への不満や劣悪な労働環境の改善を訴える国民的デモに押され、民主的な選挙によって選出されたのがモザデグ首相です。モザデグは、自国による石油資源管理や利益の平等な配分を主張し、石油産業の国有化によって石油資源の搾取問題にメスを入れようとしたのです。石油利権を手放したくないイギリスはイランの石油の禁輸を発令するなどの措置をとりましが、イランの猛烈な抗議に合い、二国間の緊張は高まってゆきます。イランのコントロールに苦しんだイギリスは、石油交渉にアメリカの介入を必要としていました。
一方、冷戦に突入していたアメリカは、イランにおける共産主義の動きとモザデグ政権とソ連との接近を警戒していました。また石油産業の国有化は、イランにおける石油コントロールを失うのみならず、イラン政権が欧米に従属的でなくなるということを意味します。これをアメリカの中東政策にとって危機と見なしたアイゼンハワー大統領は、CIAとイギリス諜報機関M16の共謀によりモサデグを失脚させるクーデターを起こしたのでした。
この事件にCIAが関わったことはアメリカの国家機密として60年間非公開とされてきました。クーデター60周年の今年、2013年8月19日、事件に関する公文書が公開され、米ワシントンDCのジョージワシントン大学図書館内にあるナショナル・セキュリティー・アーカイブに掲載されました。エイジャックス(Operation Ajax)と呼ばれたこの作戦では、まずイランの政府高官らや軍部を賄賂で巻き込だ猛烈な反モサデグキャンペーンが繰り広げられた後、軍が起こしたクーデターによりモザデグ首相を追放し、同時に親米のモハンマド・レザー・シャー・パーレビを国王の地位につけた経緯が明らかとなりました。CIA Confirms role in 1953 Iran Coup
モサデグは国家反逆罪で死刑となり、刑は実行されなかったものの、1967年に死亡するまで自宅軟禁を強いられました。モサデグは、欧米の支配から自立を勝ち取ろうと立ち上がった真の民主的リーダーだったと言えます。アメリカがモサデグ政権転覆を図ったのは、イランの自立を目指したモザデグの動きが、西側中心の世界秩序を確立するという超大国アメリカの意図に沿わなかったから、といえるでしょう。

パーレビ王政のイランは、欧米諸国にとって中東における重要な友好国・同盟国となります。パーレビは、その統治時代(1953−1979年)に、経済、社会、および政治全般にわたりイランの近代化を推し進める改革、いわゆる“White Revolution(白色改革)”を実行しました。その中で反政府民主化運動や宗教運動は厳しく排斥され、宗教指導者たちも弾圧を受けるなど、政治からイスラム色は徹底して排除されていきます。
社会風土は、現在のように女性が頭に黒のベールをかぶる決まりは無く、欧米風の自由が謳歌された時代でもありました。70年代のアメリカの若者のカルチャーがそのまま映し出されたような当時のイランの様子をネットの写真などで垣間見ることができます。
アングロ・イラニアン・オイル・カンパニーは1954年、Iranian Oil Participants Ltd. と名称を変更し、BP、エクソンモービル、シェル、シェブロンなど石油大手7社による合弁企業として、引き続きイランの石油産業をコントロールしてゆきます。合弁会社側はイラン政府に対し、50−50の利益配分に合意していましたが、会計内容をイラン側に公表する義務はなく、取締役会にもイラン人の同席が認められないなど、 経営は不透明なまま欧米石油巨大資本による搾取が続いたのです。(Wikipedia: Anglo Persian Oil Company)
欧米の傀儡政権を維持する役割を担ったパーレビに対し、その見返りとして、アメリカは何十億ドルもの経済援助を行っていました。隣国のイラクへの影響力を増していたソ連をけん制するため、アメリカはイランとの軍事協力も進めました。パーラビ国王はアメリカの歴代大統領との親交も深く、1977年のニューイヤーズ・イブには、ジミー・カーター大統領は、「その偉大なるシャーの指導力により、イランは揺るがぬ孤島である」とたたえて杯を交わしています。この時代、イランとアメリカとは極めて良好な関係が保たれていたのです。

しかし、対外的にはばら色だったパーレビ政権下のイランは、信教の自由、言論の自由、基本的人権が侵害されたいわゆる独裁国家でした。オイルマネーやアメリカからの経済援助が支配階級のエリートたちに独占される状況に、国民の不満や怒り、改革を求める声は密かに、急速に高まっていきます。
そして、ついに1979年、パーラビ国王は追放され、それまで国外に亡命していたイスラム教最高権威者のアヤトラ・ホメイニ氏を最高指導者とするイスラム共和制を確立し、全ての外国人が退去させられる事態になりました。
パーレビ王政が破綻した理由をまとめると大きく3点あげられます。
• 社会的格差の拡大:石油利権は支配階級のみを潤し、国民の大多数を占める労働者階級には恩恵がなったこと。基幹産業が育たず、エリートや技術者の国外流出するなど、社会的格差への不満が噴出したこと。
• 独裁政治:マスメディアは統制され、言論の自由はなく、体制批判は処罰の対象となった。支配層はパーレビの意向に従う側近たちだけで固められる権力集中型の独裁政治であったこと。
• 宗教弾圧:欧米の自由主義に傾倒し、イスラム教シーア派の社会的・経済的影響力を排除するなど、イランの伝統であるペルシア文化の継承を軽視したことへの宗教界からの反発。

イスラム革命前夜、身の危険を悟ったパーレビ国王はアメリカに庇護を求めます。はじめは、次期政権との関係を慮って拒否したアメリカでしたが、最終的にパーレビを受け入れます。国王の訴追を求めていたイラン国民の怒りは頂点に達し、学生を中心とした反政府グループがテヘランのアメリカ大使館を占拠し、52名のアメリカ人が人質として拘束されました。アメリカの人質救出作戦は失敗します。結局、1981年1月、米・イラン人質解放協定が締結され、人質は444日ぶりに全員が開放されましたが、時のカーター大統領は外交手腕を問われ、2期目の大統領選挙の敗因を作ったといわれています。実は、この時の協定内容が極めて重要です。協定には、
• アメリカはイラン政府に対する政治的・軍事的な介入を行わない
• アメリカはイラン政府の資産の凍結と経済制裁を全て解除する
• 両国とも政府や個人に対して起こされていた裁判を中止する
などの項目が含まれ、これによりアメリカはイランへの手出しができなくなったのです。逆に言えば、イランはアメリカからの完全な独立を勝ち取ったのです。以後およそ30年あまり、イランとアメリカの国交は途絶えたままとなりました。
アメリカに従属しない道を選んだイランという国。その道がよかったのか悪かったのか、それを評価することはこのブログの目的ではありません。しかし、いずれにしてもその道はいばらの道でした。例えば、独自に安全保障を確保するため多大な人的・経済的犠牲を払っています。ペルシャ湾岸の国境線をめぐって1980年から8年間続いたイラン・イラク戦争では、50万人を超えるイラン兵が犠牲となりました。
2000年代に入り、アメリカとイランの関係は悪化の一途をたどりました。ブッシュ前大統領のイランを名指ししての「悪の枢軸」発言と、アフマディネジャロ大統領の911はアメリカの自作自演だとする非難の応酬は、イランとアメリカ、そして中東全域の不安定化を加速させました。真っ向からアメリカに楯突いたイランは核開発を理由に「スケープゴート」にされてゆきます。しかし、このことと、アメリカの覇権の力に急速な衰えが見えはじめたのが、ちょうど時を同じくしていたことは偶然ではなかったはずです。
次回に続く・・・
【関連する記事】
- 米大統領選にみるアメリカの民主主義の陰と光
- エスタブリッシュメントが描く国家戦略とアメリカ国民の覚醒
- What Snowden has brought to the American..
- スノーデン事件に見る米国民の自由(=Liberty)を護る闘い その(2)
- スノーデン事件に見る米国民の自由(=Liberty)を護る闘い その(1)
- イランの核問題とは? その(2)アメリカの中東政策の崩壊
- アメリカ大統領選における非民主的システムと不公正さと・・・ そして見えてきた希..
- アメリカの医療政策−代替医療をめぐる政治的攻防
- 米共和党予備選−ロン・ポールの目指す医療政策
- 米共和党予備選とオバマ・ケアの行方
- 米大統領予備選候補者ロン・ポール その政治思想と政策
- ロン・ポール、最も注目したい米大統領選共和党候補
- ウォール街占拠運動が暴くアメリカ支配の姿 その(2)
- ウォール街占拠運動が暴くアメリカ支配の姿
- 衰退へ向かうアメリカ その(2) オバマ政策と2012年度予算案
- 衰退へ向かうアメリカ その(1)大統領演説と「丘の上の町」
- メキシコの麻薬戦争とマリファナ解禁のゆくえ
- カリフォルニア州の財政危機とマリファナ解禁法案
- オバマの忍耐論と返り咲くサラ・ペイリン
- 高まるオバマ政権への批判−オバマ支持者たちはどこへ?−