2014年02月01日

南アフリカの民主化とF.W.デクラークの功績 その(1)

ネルソン・マンデラが亡くなったのは昨年の12月5日のことだった。マンデラの偉業については知らない者はいないだろう。南アフリカのアフリカ民族会議 (ANC:African National Congress) のリーダーとして人種隔離政策(アパルトヘイト)の撤廃運動を戦い、27年間の獄中生活を送った後に釈放された。1991年にアパルトヘイトは撤廃され、1994年に南アで初めて行われた民主選挙により大統領に就任、翌1995年にはノーベル平和賞を受賞した。

人種差別という不正義を正すために不屈の精神で戦い、獄中での精神的・肉体的な苦痛に耐え、しかも、釈放された後には、自らを苦しめた相手との対話により、真の和解と国の発展のために尽力した。まさに、全ての人が敬愛し学ぶべき偉大な指導者であった。

しかし、今回のブログで取り上げたい人物は、アパルトヘイト撤廃と南アフリカ民主化のもう一人の立役者であり、マンデラと共にノーベル平和賞を受賞した南アフリカ共和国元大統領、フィレデリック・W・デクラークである。マンデラの栄光の輝かしさのお陰でやや印象が薄いが、デクラークの功績がなければ今のマンデラはいない。(写真:フレデリック・W・デクラークとネルソン・マンデラ。1992年ダボス世界経済会議にて。Wikipedia より)

Frederik_de_Klerk_with_Nelson_Mandela_-_World_Economic_Forum_Annual_Meeting_Davos_1992.jpg


デクラークこそ、マンデラを釈放した人物であり、南アフリカの政治の中枢にいながらアパルトヘイト撤廃を指揮した人物である。マンデラが虐げられる黒人側から立ち上がった勇者なら、デクラークは虐げる白人支配層のトップに立っていた人間だ。南アで民主主義への体制移行が、流血や内戦の泥沼に陥ることなく行なわれることを可能にした最大の理由は、権力側自らが変わる決断をしたことにある(ただし、流血の惨事や虐殺もアパルトヘイト廃絶への長い壮絶な道のりの中で多数起きている。それは後に述べるが、ここでは1990年代の体制移行時について言及した)。

革命であれ民主化であれ、新体制が旧体制に取って代わるとき、武力行使によって多くの命が犠牲となり、一般市民が巻き添えになったり、長期の内戦にもつれ込んだりしていくことは歴史の常だ。そもそも、非武装の市民による正義の戦いが体制を変換させることなど、そうあるものではない。しかし、体制側の権力者たちの中から正しい方向に向かおうと決断する者が出てきたとき、対話の可能性が生まれる。そして、変革を起こし体制の移行が平和的に進む可能性が生まれる。

デクラークを動かしたものは何かだったのか。デクラークはいつ、どのような経緯でその歴史的決断をするに至ったのか。なぜ、厳しい国際世論にもかかわらず90年代に入るまでアパルトヘイトは撤廃されなかったのか。デクラークに焦点を当てながら、南アフリカの民主化から私たちが学べることは何かを考えてみたい。

アート南アフリカの歴史とデクラークの祖先

フレデリック・W・デクラークは、
1936年ヨハネスブルグで生まれた。父親は国民党(National Party)の政治家、祖父もかつて総理大臣を務めた政治家の家系である。弁護士として活躍した後、1972年、36歳の若さで国民党から国会議員に選出され政界入りした。78年からは郵政相、国民教育相、閣僚評議会議長などを歴任し、1989年、53歳で国民党の党首となり、同年の大統領選挙で第7代南アフリカ共和国大統領となった。まさに、南ア白人社会におけるエリート中のエリートである。

デクラークの属する南ア白人社会の白人たちとは、いったいどのような人々なのか。そのことを理解するには、やはり南アフリカの過去およそ350年に及ぶ歴史を振り返らねばならない。(参照:南アフリカ共和国の歴史

ヨーロッパ人が始めて南アフリカへ航行したのは1488年であったが、その大陸南端が海上貿易の中継地点としての価値を見出されたのはそれからさらに150年以上後のことである。1652年、オランダの東インド会社の船が南アフリカ南端の岬に上陸し、初の入植地の建設が始まった。ここがケープタウンである。

およそ
30年遅れて、フランスのユグノー(Huguenot)と呼ばれるカルヴァン派の新教徒(プロテスタント)の移民がこの地にたどり着いた。フランスでは、1685年にルイ14世によって「ナントの勅令」が廃止され、弾圧を受けて国外へ逃れたプロテスタントのうち約200家族がケープに移住したのだ(「ナントの勅令」とは、1598年アンリ4世が発布し、プロテスタントもにカトリック教徒とほぼ同様の権利を与え個人の信仰の自由を認めた勅令である)。デクラークの祖先は、1686年にケープ岬に上陸したこの一握りのユグノーたちだった。

フランス系のユグノーたちは、ドイツ系プロテスタント移民や先に入植していたオランダ人などと合流し、「アフリカーナー」または「ボーア人(Boer:農民の意味)」と呼ばれる白人民族集団を形成していった。彼らの言語はオランダ語を基礎にフランス語と現地語が融合されたアフリカーンス語である。

しかし、帝国主義が渦巻いた
18世紀末、ケープはイギリスに占領される。ボーア人はイギリス人と激しく対立したが力及ばず、1814年には正式なイギリス領ケープ植民地となった。ケープを追われたボーア人たちは東部ナタール地方や内陸の奥地への大移動を開始した。この大移動をグレート・トレックと呼ぶ。その過程でボーア人は、コイコイ人やコーサ人、ズールー人などアフリカ原住民たちを奥地へと追いやり、彼らと戦闘を交え、双方の多くの者たちが命を落とした。

そうして白人居住地域が拡大していった結果、
19世紀半ばの南アフリカは、イギリスが支配するケープ植民地とナタール植民地、ボーア人が支配するトランスヴァール共和国(1852年建国)とオレンジ共和国(1854
年建国)、そしてズールー王国などいくつかの黒人王国が並立する形となった(地図参照)。

Southern_Africa_end_of_19c.png



しかし、いずれの国も政治は不安定で、絶え間の無い戦闘が続いた。イギリスによるトランスヴァール共和国の占領(1877年)があり、そのイギリスがズールー王国に敗れ(イサンドルワナの戦い1879年)、そしてトランスヴァールは再びイギリスを撃破している(1881年)。この一連の争いが第一次ボーア戦争である。

1886年、トランスヴァールで金が発見されゴールドラッシュがおきた。トランスヴァールの経済が急速に好転し始めると、すぐさまイギリスはトランスヴァールの併合をもくろみ、1899年イギリスとボーア人の全面戦争である2次ボーア戦争が始まった。優勢となったイギリスによって12万人のボーア人が強制収容所に送られ、そのうち2万人前後が劣悪な環境で死亡している。トランスヴァールはゲリラ的抵抗を試みたが、トランスヴァール共和国と隣国のオレンジ自由国は1902年に滅亡した。

その後トランスヴァールはイギリスの植民地となり、1910年に英語とオランダ語の両方を標準語とする南アフリカ連邦が成立すると、連邦を構成するひとつの州となった。その後、南アフリカ連邦はウエストミンスター憲章(1931年)により、英連邦の一つとして主権を獲得し独立国家となった(オーストラリアやカナダと同様の扱い)。第二次世界大戦では連合国側について参戦している。

デクラークの祖先の
3名は、先のグレート・トレックの時代、ズールー族の奇襲に合って虐殺されている(1838年)。祖父はボーア戦争で二度にわたり捕虜となったが、1914年、国民党結党時のメンバーとなった。デクラークの父もかつて閣僚となり、叔父は総理大臣を務めた。17世紀の入植以来、先住民との戦い、二度のボーア戦争、そしてイギリスの植民地支配を経て、独立を果たした白人アフリカーナたちには、おそらく彼らにしか理解できない強固な団結力と民族意識とがあるに違いない。そんな激動の350年の歴史の延長上にデクラークはいる。

アートアパルトヘイトとマンデラの闘い

人種隔離政策が法制化され始めたのは、1948年である。
アパルトヘイトがいかに陰惨極まりない制度だったかをいまさら説明するまでもないかもしれない。が、改めて調べてみると、よくもこのような制度がつい20年前まで存在したものだと驚かされる。

当時の南ア国民党マラン政権は、アパルトヘイト(アフリカーンス語で分離・隔離を意味する)は、人種差別ではなく「分離発展」−つまり白人、黒人、カラード(原住民との混血、インド人など)それぞれが人種ごとに発展すべきという構想−だと主張し、それがまかり通っていた。もちろんそれは建前で、実際には、白人(470万人、人口の15%)が、黒人(2300万人、人口の73%)とカラード・アジア人(370万人、12%)に対して、法律上・社会生活上・経済上全ての面で圧倒的に優位となる制度の確立である。

異人種間の婚姻の禁止(1949年)、人種ごとに居住地を分ける集団地域法(1950年)、白人以外の人種からの選挙権の剥奪(1951年)、黒人の身分証携帯の義務付るパス法(1952年)、交通機関や公共施設を分離する隔離施設留保法(1953年)などの300もの関連法案が相次いで成立した。

ヘンドリック・フルウールトが首相になった1959年、バンドゥー自治法が定められ、国土の87%を白人が独占し、黒人には残りの13%の「ホームランド」と呼ばれる痩せた僻地のみが分け与えられた。これにより350万人もの黒人たちが強制移住させられた。白人支配層は、肥沃な土地と富と政治権力を独占し、黒人たちから選挙権を剥奪し、マジョリティーの彼らが決してマイノリティーの白人を打ち負かすことができないような体制を固めたのだ。

この分離政策(人種ごとに発展するという意味の分離政策)は、南アのアフリカーナ(白人、白人主義者たち)が切望してきた共和国制(英連邦からの離脱)への第一歩であったとも言われる。もちろん、それは彼らの詭弁でしかない。

ただ、この分離政策は、言うなれば、“ボーア人の血に受け継がれた恐怖の産物”なのだ。彼らの恐怖とは、すなわち、350年前にアフリカ大陸に移住して以来、常に付きまとってきた「圧倒的多数の黒人たちから報復され白人民族はいつか滅亡させられるのではないか・・・」という恐怖だ。アフリカの最南端で、民族の存続とイギリスの帝国支配からの独立のために戦い続けてきたアフリカーナ人特有の恐怖を、デクラークはその血に受け継いでいる。無論、彼もかつては紛れもなく、分離政策の支持者の一人であった。

マンデラがANC(アフリカ民族会議)に加わったのは1944年、26歳のときのことである。ANCの青年同盟の創設に尽力し、1950年に同盟の議長に選ばれた。マンデラはこの頃からマルクスやレーニンなど共産主義的イデオロギーに傾倒するようになっていく。法学を学び弁護士事務所を開業しながら、1952年にはANCの副議長に就任し、アパルトヘイト抵抗運動(Defiance Campaign)を組織化していく。デモを動員したなどの理由で度重ねて当局に拘束される。1956年には他のANCの幹部らと共に国家反逆罪でも逮捕されたが、この時点では不起訴になった。

1960年3月、マンデラら率いるANCは他の反政府政党と共に、パス法(黒人に身分証明書の携帯を義務付ける法律)に対する大規模な抗議行動を組織する。このデモに加わっていたパン・アフリカニスト会議(PAC)の群集に対し警察が発砲し、69人が死亡する惨事が起きた(シャープビル虐殺事件)。国家非常事宣言が出され、ANCやPACは活動禁止の措置となる。この事件を機にマンデラは地下活動を開始し、アパルトヘイト廃絶に武力闘争を辞さない構えを見せていく。

この頃、マンデラは密かに南ア共産党に入党し、その幹部会議にも加わっていた。1961年、南ア共産党の指導者ウォルター・シスルなどと共に軍事組織である“
Spear of the Nation (民族の槍)”を創設した。これは後にANCの軍事部門として編成される。また、マンデラは、1962年、エチオピア、リベリア、マリ、チュニジア、エジプト、モロッコなどアフリカ諸国を秘密裏に訪問している。エチオピアのアジスアベベで開かれたアフリカ自由運動の会議にANC代表として参加するためだったが、訪問先の複数の外国政府から軍事的・資金的支援を受けた。また、エチオピアにおいては自らゲリラ戦のための訓練も受けている。次いで訪問したイギリスでは、人権活動家や、メディア、左翼政治家などと面会しアパルトヘイト撤廃運動への理解と協力を求めた。(参照:Nelson Mandela

1962年、マンデラのこうした地下活動の拠点にしていた隠れ家に警察が踏み込み、マンデラは国家反逆罪など4つの容疑で逮捕された。リボニア裁判の公判で行った3時間に及ぶスピーチの中で、マンデラは次の有名な言葉を残している。

“I have fought against white domination, and I have fought against black domination. I have cherished the ideal of a democratic and free society in which all persons live together in harmony and with equal opportunities. It is an ideal which I hope to live for and to achieve. But if needs be, it is an ideal for which I am prepared to die.”

「私は、白人支配と闘い、黒人支配とも闘ってきた。私は、全ての人々が平等な機会と調和の中で共生できる民主的で自由な社会の理想を追い求めてきたのだ。その理想を実現させるために生きることを願う。しかし、必要とあらば、その理想のために死ぬ覚悟はできている。」(筆者仮訳)

このマンデラのスピーチは世界のメディアの注目を集め、国連など様々な国際機関からもマンデラ釈放を呼びかける声明が出された。が、翌1964年にマンデラに終身刑が言い渡された。

アートアパルトヘイト撤廃はなぜここまで遅れたのか?

奇しくも、アメリカで公民権法が施行され人種差別が撤廃されたのは同じ1964年のことである。国連で世界人権宣言が採択されたのは、更にさかのぼる1948年だ。法と人権の国際基準から見ると、1950−60年代に制度が固められていった南アのアパルトヘイトは、世界の潮流にまったく逆行している。

南アに対する国際社会からの批判の声があがり始めたのは1960年代。世界を震撼させた1960年のシャープビル虐殺以降、南アはオリンピックへの参加も認められなくなり、孤立の道を歩むことになった。欧米のミュージシャンたちもアパルトヘイト問題に乗り出した。ビートルズ、ローリングストーン、ウォーカーブラザーズなど多くのアーティストたちが南アフリカでの公演を拒否した。

南ア政府は、イギリス政府からの批判をかわすため、英連邦(英国女王を元首とする)を脱退して共和制(大統領を元首とする)へと移行し、1961年に南アフリカ共和国と国名を改めた。

80年代に入ると、国際社会の南アへの非難の視線は一段と厳しくなった。経済制裁も課され、南ア経済は大きな打撃を受けた。しかし、世界から孤立しながら、なぜもっと早くアパルトヘイトは撤廃されなかったのか。なぜ、1990年まで遅れたのだろうか。

次回へ続く・・・

posted by Oceanlove at 05:44| 世界情勢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。