2014年02月13日

南アフリカの民主化とF.W.デクラークの功績 その(2)

この記事は、前回「南アフリカの民主化とF.W.デクラークの功績 その(1)」の続きです。

アートアパルトヘイト撤廃はなぜここまで遅れたのか?

80年代に入ると、アパルトヘイト政策を取り続ける南アフリカへの国際社会の非難の視線は一段と厳しくなった。経済制裁も課され、南ア経済は大きな打撃を受けた。しかし、これだけ世界から孤立しながら、なぜもっと早く、アパルトヘイトは撤廃されなかったのか。なぜ1990年まで遅れたのだろうか。

その理由は、80年代の世界情勢−「東西冷戦」および「アフリカ諸国のヨーロッパ植民地支配からの独立−が色濃く関係している。

1975年、南アの北隣のさらに北隣の国アンゴラでは、14年にわたる独立戦争を経てポルトガルによる植民地支配が終焉を迎えていた。しかし独立後、社会主義を掲げて政権を握ったMPLA(People’s Movement for the Liberation of Angola)に対し、共に独立戦争を戦った反政府組織(UNITA:National Union for the Total Independence of Angola、およびFNLA:Nation Liberation Front of Angola)が対立し、1975年から2002年に及ぶ内戦に突入した。  

このアンゴラ内戦は、旧ソ連をはじめとする社会・共産主義国がMPLAを、そしてアメリカ・南ア・イギリスがUNITAを支援する形の米ソ冷戦の典型的な代理戦争の一つとなった。27年間に及ぶ内戦の末、西側が支援したUNITAは破れ、今日までMPLAによる政権維持が続いている。しかし、内戦により国は疲弊し、アンゴラはいまだに世界最貧国の一つだ。(Angolan Civil War)

このような例はアンゴラだけではない。スーダン、ソマリア、モザンビーク、・・・冷戦時代、旧ソ連は、ヨーロッパの植民地支配から独立した直後のアフリカ諸国へ、独立支援の名目で大規模な経済的・軍事的援助をおこなった。これらの多くの国では、その支援を受けた社会・共産主義勢力が台頭した。対する西側諸国は、社会・共産主義の拡大を阻止すべく、反共勢力・反政府勢力を支援した。そして、両者は互いに対立し内戦に突入していった。70−80年代に独立を果たしたアフリカ諸国の悲劇は、米ソ冷戦の代理戦争のバトルグラウンドとなったことであろう。内戦で疲弊していったこれらの国々の苦難は今も続いている。

すでに独立国であった南アもまた米ソ代理戦争の影響を免れることはできなかった。アパルトヘイトに苦しむ南アの悲劇は、反共産・反社会主義を掲げる南ア政権(国民党)が、西側陣営に組み入れられていたことに由来する。アフリカ諸国への共産・社会主義の蔓延を恐れるアメリカは、代理戦争を戦うために南ア政府を味方につけておく必要があった。人種隔離政策そのものは非難しながらも、軍事協力を優先し、事実上白人政権を容認し協調関係を保ち続けた。

一方マンデラら率いるANC(アフリカ民族議会)は、反アパルトヘイトを戦うためにソ連をはじめとする東側諸国からの支援を受けていた。キューバのカストロ政権やリビアのカダフィなどとの繋がりもあった。当然、アメリカをはじめとする西側諸国は、ANCを支持することはできない。

20世紀後半に吹き荒れた「共産・社会主義」対「資本主義・民主主義」というイデオロギーの対立にアフリカ諸国は翻弄され、マンデラらANCは終わりの見えない戦いを強いられていた。世界的な人権意識の高まりや、世界の多くの国々が成し遂げようとしていた「法の下の平等」も、東西冷戦というより大きなイデオロギーの対立構造を突き破ることはできなかった。それは図らずも、南アのアパルトヘイトの終焉を遅らせる要因ともなった。

アート国際的反アパルトヘイト運動と経済制裁の影響

では、南アのアパルトヘイトが撤廃されるに至った要因は何だったのだろうか。

1986年、ネルソン・マンデラが23年目の獄中生活を送っていた頃、アメリカではようやくアパルトヘイト撤廃に向けて政治が動き出していた。米連邦議会に、アパルトヘイト法の撤廃、南アへの経済制裁や渡航制限の撤廃、マンデラやアフリカ国民会議(ANC)のリーダーを含む政治犯の釈放などを求めた包括的反アパルトヘイト法(Comprehensive Anti-Apartheid Act)が採決にかけられていた。

法案は超党派の賛成多数で可決されるかに見えたが、時の大統領ロナルド・レーガンが大統領拒否権を行使する。社会主義を標榜する武装組織であるANCを支持することはできないというのが理由だったが、結局、議会が再可決をし法案は成立した。

ちなみにこの時、反対票を投じ続けた共和党議員の代表格が、当時ワイオミング州選出下院議員で後に副大統領を務めたディック・チェイニーだ。2000年の大統領選を前に、当時の投票行動について「ANCはテロ組織だった」「20年前の投票に何の問題も感じていない」と語っている。

アパルトヘイト撤廃に寄与したものとして、国際的な批判と圧力、そしてそれが具体化したものとしての経済制裁が挙げられる。

しかし、南アへの制裁はその目的のために有効だったのかどうか、アパルトヘイト撤廃を導いた要因は経済制裁だったかのか否かについて、実は意見が分かれている。マンデラは、国際社会からの反アパルトヘイトへの圧力や制裁は、アパルトヘイト撤廃に功を奏したと述べているのに対し、デクラークはそのような効果はなかったと、全く反対の意見を述べている(デクラークはノーベル平和賞受賞時にも、国際社会からの制裁による影響を否定している)。

このような見解の違いが生まれたのはなぜか。南アに課された制裁とは何だったのか。

国連において初めて南アに対し、武器や軍用機器の輸出入、続いて石油の輸出入を禁止する決議案が採択されたのは1963年のことである。だがこの決議は加盟各国に対し決議に基づく行動をとるよう促す勧告であり、拘束力はない。事態の悪化を受けてようやくこの決議が義務化されたのは1977年である。

武器禁輸の制裁は、アンゴラ内戦への介入で消耗した戦闘機などを抱える南アにとってきわめて不都合な事態だった。仕方なく、南アは武器の国内生産を増加させていく。しかし、銃火器や戦車、通信機器などの生産は国内でも賄えたが、高機能戦略機やヘリコプター、艦船などを一から開発・製造することは容易ではない。作戦に必要な武器の速やかな調達に支障が出るなど、打撃をこうむった南ア政府は、介入していた内戦の終結に向けた和平交渉に応じることになる。(Impact of Economic and Political Sanctions on Apartheid)

武器禁輸の制裁は、南アの軍事行動に影響を与えた。だが、これが本来の制裁の目的であるアパルトヘイト政策の撤廃に直接繋がったというわけではない。それどころか、制裁のしわ寄せは、公共事業や教育、医療といった他の分野にまわった。なぜなら、武器増産のために軍事分野への人材・技術・国家予算の割り当てが大幅に増え、財政を圧迫したためだ。各地で頻発していた暴動は、火に油を注ぐ状態となった。

アート南ア撤退キャンペーン

さらに1980年代に入ると、欧米では、“南アからの撤退”キャンペーンが巻き起こった。リベラル、知識人層を中心に、「モラルのある企業は南アから撤退すべきだ」「南アとの取引のある企業の製品をボイコットせよ」という動きが広がっていく。

このとき、アメリカで注目されたのが“サリバン・プリンシプル”だ。サリバン・プリンシプルとは、アメリカのアフリカ系アメリカ人の牧師であり、ジェネラル・モーターズの役員を務めたリオン・サリバンによって提唱された企業法規である。すなわち、「全ての従業員が人種の違いにかかわらず、職場の中でも外でも平等な待遇を受けることを保証することは、企業活動を行う条件であり、企業の責務である」というものだ。(Outside Opinion: Skeptics were wrong; South Africa divestment worked)

このような企業法規を示し、アパルトヘイト政策を布く南アとのビジネスで金儲けをすることの倫理性を問うことで、南アに進出していた米企業の撤退を促した。多くの企業は、南アと関わるビジネスは企業のイメージダウンに繋がるという恐れを抱いた。南アに展開していた米企業のうち、GMやIBMを含むおよそ100の企業が撤退した。

企業ばかりではない。1977年にミシガン州立大学やスタンフォード大学で、南アや南アと取引のある企業から職員の年金基金等の投資を引き上げることを決めると、その動きは全米の大学・公共機関、自治体、連邦機関に広がっていった。その数は教育機関だけでも330に上る。1985年から1988年の4年間に南アから流出した資本の総額は約20億ドルとも言われている。南アの通貨ランドは暴落、物価は高騰し、12−15%の上昇率でインフレをもたらした。(Disinvestment from South Africa)

ただし、ジョージメイソン大学のトーマス・ハズレット教授によれば、南アのGNPは欧州各国やアメリカが制裁を課した1986年以降上昇している。しかも、1984年から1989年にかけて、欧米企業の投資の引き上げや撤退に伴う在庫や設備の売却などで、予期していなかった副次的な景気が生じた。南ア経済は50億ドルから100億ドル規模で拡大している。レーガン政権が後に出した報告書でも、制裁の効果はなく、むしろ逆効果だったとある。(Apartheid by Thomas W. Hazlett)

欧米式の反アパルトヘイト運動、経済制裁や企業の撤退が、南ア政権にとって大きな経済的打撃となったことは間違いないが、より大きな打撃だったのは、彼らが国際社会との関係が断絶さえ孤立したという点だろう。

国際的な風当たりを和らげるため、デクラークの前任大統領ピーター・W・ボータは、1985年に背徳法と異人種間の婚姻禁止法、1986年にパス法の廃止などを行っている。しかし、行われた改善は小手先のものに過ぎず、根本的な人種隔離の考え方を変えたわけではなかった。制裁の圧力が、アパルトヘイト政策を基盤とする南ア政治の中枢を揺るがすことはなかった。経済制裁は南アに打撃を与えたことは確かだが、アパルトヘイト撤廃の決定的な要因になったとはいえない。

アートアパルトヘイト撤廃を導いた最大の理由

では、南アがアパルトヘイト撤廃に踏み切るに至った最大の要因はなにか。

実は、デクラークは、当時南アに課されていた様々な制裁について、「白人支配層は制裁のダメージについては甘んじて受け入れる覚悟をしていた」と後に回想している。いったいどういうことだろうか。つまり、彼らにはそのダメージを持ってしても、譲れないものがあったということになる。その譲れないものとは何か。

マイノリティーの白人政党国民党にとって、アパルトヘイトの撤廃とは、彼らに替わってマジョリティーの黒人政党ANCが政権を握るということである。当然、ANCの後ろにはソ連がついている。すなわち彼らにとってアパルトヘイト撤廃とは、彼ら白人たちがこれまで握ってきた国家権力を手放し、共産・社会主義に譲り渡すことを意味していた。それこそが、彼らが最も恐れていたことだ。(Impact of Economic and Political Sanctions on Apartheid)

西側諸国も、米ソ冷戦のさなか南アを西側の一員とみなし、だからこそ南アとアメリカは反共で軍事協力をしてきたのだ。ところが、西側諸国は、人権擁護の観点からアパルトヘイトを撤廃せよと言い始め、制裁まで加え始めた。西側(特にアメリカ政府)も、南アに現実に社会主義のNAC政権が誕生してしまっては困るのだから、西側の要求は矛盾している。人権擁護と反共との戦いは南アでは両立しない。レーガンは、米議会にかけられた包括的アパルトヘイト撤廃法案に対し大統領の拒否権を発動したが、それは人権擁護よりも反社会・反共を優先させたからだった。

国際的反アパルトヘイトキャンペーンの嵐の中で孤立させられた多くの南アの白人たちは、西側に対する憤りを感じていた。そして、徹底して抵抗を続けた。アパルトヘイトがそう長く持ちこたえられる制度ではないことを知りながら、絶対に撤廃をするわけにはいかなかったのだ。「制裁に伴うダメージは受け入れる覚悟はできていた」という言葉の裏には、このような事情があった。

ところが、1989年のベルリンの壁崩壊、冷戦終結によって、この南アを取り巻く構図は一気に崩れ去った。ここに、南アがアパルトヘイト撤廃に踏み切ることのできた最大の要因がある。

1985年、旧ソ連ゴルバチョフ書記長は、ペレストロイカ(改革)を掲げ、軍縮や西側との関係改善に乗り出した。1980年代後半には、旧ソ連では米ソ代理戦争を続けるだけの資金的余裕もなくなり、世界各国に展開してきた資金提供も停止された。社会主義のソ連は風前の灯となっていた。それまで、南ア政府がソ連の資金をバックにした敵と見なしてきたANCは、もはや恐れるに足るものではなくなった。

米ブッシュ大統領(父)とゴルバチョフ書記長の歴史的会談で、冷戦終結が宣言されたのは、1989年12月3日、地中海のマルタ島サミットでのことだ。デクラークはこの機を見逃さなかった。彼が初めてマンデラと対面をするのは、この10日後のことである。

次回に続く・・・

posted by Oceanlove at 15:39| 世界情勢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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