南アフリカの民主化とF.W.デクラークの功績 その(1)
南アフリカの民主化とF.W.デクラークの功績 その(2)
の続きです。

南アフリカ共和国元大統領フィレデリック・W・デクラークは、後にこう語っている。
「(隔離政策に)このまま永久にしがみついているわけにはいかない。武力闘争に勝者はいない。私が決断すべきことは、パラダイム(一時代の支配的な考え方や方法論)を変更するか否かということであった。そして、私はその決断をしたのだ。」
デクラークのバックグラウンドからは、彼がアパルトヘイト撤廃を決断する大統領になるなどと誰が想像できただろうか。前述したとおり、デクラークはかつては隔離政策の信奉者であり、「(黒人と白人の)それぞれの発展」もしくは「異なる二国家の成立」を支持していた。デクラークの出身地トランスバール州は保守的な地盤であり、彼は所属するNational Party(国民党)の中でも保守派である。デクラークが有力者であることは間違いなかったが、改革者というではなかった。
しかし、80年代前半には、デクラークはすでに気づいていたという。「それぞれが発展」するには南アの白人社会と黒人社会は相互に依存し過ぎていたこと、白人たちはあまりに多くの利権を手放そうとしていないこと、そして、アパルトヘイトに国の将来がないことに。しかしその彼も行動を起こすまで、彼自身が権力のトップに立つ1989年まで待たねばならなかった。
すでに前回のブログで述べたが、冷戦時代、南アは西側に組し、アフリカ諸国の内戦(事実上の米ソ代理戦争)に介入しアメリカを助けた。西側諸国は、反共の戦いの名の下に、アパルトヘイト政策を続ける南ア政権を容認し続ける形となった。一方、社会主義に傾倒しソ連から支援を得ていたマンデラ率いるANC(アフリカ民族会議)は、西側から敵視される。結果的にANCの終わりなき戦いが続いた。いわば、冷戦中、アパルトヘイト撤廃への扉は、外的要因によって外側から閉ざされていた。
デクラークが大統領に就任した1989年、図らずも冷戦は終結し、扉の外側のカギが外された。あとは、内側から扉を開ける−パラダイムを変更する−のみだ。デクラークは、その決断をするのに最もふさわしい時と、地位と、条件とを手にしていた。
経済制裁による打撃も、世界からの孤立も、各地で頻発する暴動も、不屈の闘志マンデラの存在でさえ、アパルトヘイトを撤廃させた単一の要因にはなり得ない。デクラークの前任の大統領P.W.ボーサが脳梗塞で倒れ辞任したこと、その後クラークが国民党党首に選ばれ、さらに総選挙で大統領選に当選したこと、同じ年に冷戦が終結し、世界の“戦後レジーム”が変化したこと・・・。偶然の重ね合わせのように見えるこれら全ての出来事が、アパルトヘイト撤廃に必要な要素だった。
1989年9月、大統領に就任したデクラークは、すでに自身の中で温めていた高い理念−全ての国民が平等な政治的権利を持つ「一つの南アフリカ」−を実行に移そうとしていた。最大の課題は、その理念の実現と白人マイノリティー(人口の約15%)の保護をどのように両立するかということだった。そして、デクラークはその答えが黒人マジョリティーとの対話と徹底交渉しかないということ、そしてそのためにマンデラの力が必要であることをよく理解していた。しかも、直ちに行動しなければならないということを。
デクラークが、マンデラの同志であるウォルター・シスルとロベン島の刑務所にいた他の7名の受刑者たちを釈放したのは、就任からわずか一ヶ月のことである。リボニア裁判でマンデラと共に有罪となった政治犯たちなど、獄中にいたANCのリーダーたちも次々と釈放された。マンデラと交渉を始める前に、しておかねばならないことだった。残るはマンデラのみとなった。
1989年12月13日、デクラークは、マンデラとの初めての面会時のことを、後にこのように語っている。
「彼は背が高く、オーラが彼を取り巻いていた。私たちは、まず互いを品定めしあったのだ。」「根本的な問題や政治理念のことについては何一つ話さなかった。」
かたやマンデラはこのときの様子を次のように語っている。
「デクラークという人物をじっくりと見定めた。例えばロベン島の刑務所の刑務官に対してしたように。」「彼は過去の政治家とは違った。共に仕事を成し遂げうる人物だと、私にはわかったのだ。」
マンデラの釈放までに、二人はプライベートで二度会ったきりだ。しかし、この二人の偉大な指導者の間で交わされた合意と決断−それが流血や内戦なき、あくまでも平和的な民主国家へのパラダイムシフトだった。
白人マイノリティーと黒人マジョリティー。迫害を加えた側と受けた側。両者が対話することの困難さ、共同で新しい国づくりを進めていくことの困難さは想像にあまる。デクラークは、不等な権力支配のあり方を放棄することを白人側に説得する役目を、マンデラは、暴力によらず平和的な交渉の席につくことを黒人側に説得する役目を負った。

1990年2月2日の国会開会演説を、デクラークは極めて周到に準備した。この演説こそ、アパルトヘイトに終止符を打つことを全ての南ア国民と世界に知らしめ、南アフリカの民主化の夜明けを告げた名演説であった。(演説全文)
デクラークは、アフリカーンス訛りの英語で、淡々と、しかし力強い口調で語った。全ての南ア国民が憲法上・社会生活上・経済上の全てにおいて、平等な権利・待遇・機会を与えられる新しい国家を目指すこと、そのために分断された者たちが対話をし、新しい憲法体制を構築することが現政権の最大の優先課題であると。改革の道筋が、法律家らしい極めて明瞭な論理展開で示されている。
演説が終わったとき、ANCと共産党を含む33の政党が無条件で解禁され、死刑は中止され、全ての政治犯(この時点ではマンデラを除く)は直ちに釈放された。そしてもっとも重要なことは、300年の南アフリカの歴史において始めての完全なる民主選挙の道が開かれたことだ。
デクラークは、あえて同じ日にマンデラを解放しなかった。なぜなら、世界の目は、今や遅しとアパルトヘイト撤廃運動のシンボルであるマンデラの釈放にばかり向けられていたからだ。マンデラ釈放はある意味、堰き止めていた箍を外すようなものだ。“濁流”に飲み込まれる前に、あらかじめ体制移行の道筋をつけておかねばならなかった。
黒人に対し、これまで剥奪・制限されてきた全ての権利を回復することを確約すること。当面、警察権力を含む全ての国家機能を維持し、民主選挙によって新政権が誕生するまで現政権が続投すること。デクラークは演説の中で、何度も「Negociation」という言葉を使った。南アフリカが民主国家に平和的に移行するために最も重要なことは、暴力によらない、白人と黒人の「対話・交渉」だと。そして、白人にはその用意があると。
デクラークの演説から約一週間後の1990年2月11日、マンデラは自由の身となってそのこぶしを高く掲げた。マンデラ釈放のニュースは国中の黒人たちを沸き立たせた。マンデラは、喜びや憤りに沸く群集に向かって再び同じセリフで呼びかけた。
「私は、全ての人々が平等な機会と調和の中で共生できる民主的で自由な社会の理想を追い求めてきたのだ。その理想を実現させるために生きることを願う。しかし、必要とあらば、その理想のために死ぬ覚悟はできている。」
アパルトヘイトの終焉 共に手を高く掲げるデクラークとマンデラ
(Civil Rights Images / Nelson Mandela dna Fw de Klerk celebrate the end of Apartheid)
この時の「死ぬ覚悟」は、かつて終身刑判決を受けた法廷で語ったときの、「その理想のためには武力行使も厭わず、そしていかなる刑にも甘んじる」という意味ではない。そこには、「新しい国づくりのために身をささげる」という思い、そして、これからが南ア民主化の本当の試練、黒人と白人との対話と和解が始まるのだという覚悟があった。
しかし、その“濁流”の激しさはデクラークらの想像をはるかに上回った。実際、この直後から南アはアパルトヘイトが始まって以来最も危険な混乱状態に突入している。抑圧され続け、怒りを爆発させた黒人たちの群集が警官隊と衝突した。民主化交渉をめぐるANCと白人極右政党の対立は、KwaZulu-Natal州を中心に武力抗争に発展していった。1990年から選挙が行われる1994年までの4年間で、死者は実に1万4000人にも上る。内戦にこそならなかったものの、“流血なき平和的な移行”とは程遠い現実に、民主化夜明け前の南アは生みの苦しみに喘いだ。(Most Political Death Occurred in Run up to 1994 Election )
1994年、初めての全人種による民主選挙が行われ、ANCが勝利した。マンデラは大統領に、国民党のデクラークとANCのターボ・ムベキが副大統領に就任した。1996年には、全ての南ア国民に平等な権利・待遇・機会を保障する新憲法が採択され、制度上の民主化は達成された。アパルトヘイトの撤廃から24年が経つ現在も、高い失業率や犯罪率、エイズ問題、経済や教育などにおける人種間格差など、問題は山積しているが、南アを民主化に導いたデクラークの決断に焦点をあてたこのレポートは、ここで筆をおくことにする。

今回のレポートの冒頭(前々回のブログ)で、「権力者たちの中から正しい方向に向かおうと決断する者が出てきたとき、対話の可能性が生まれる。そして、変革を起こし体制の移行が平和的に進む可能性が生まれる」と書いた。果たして、この命題は正しかったのだろうか。そして、私たちは、南アの歩みから何を学べるのだろうか。まず考えさせられたのは、(南アに限ったことではないが)歴史を学ぶことの重要性である。
ヨーロッパのカトリック支配から逃れてきたアフリカーナ(デクラークの祖先にあたるヨーロッパ系移民。ボーア人)たちの入植とサバイバル、2度のボーア戦争とイギリスによる植民地支配からの独立、人口の8割近い黒人マジョリティーに対して白人が抱く“恐怖の産物”ともいえる隔離政策。黒人らのアパルトヘイト撤廃の長い戦い。東西冷戦によって翻弄されたアフリカ諸国と南ア。国際的反アパルトヘイト運動と制裁、そして孤立・・・。
南アフリカの350年の歴史における数々の出来事が数珠繋ぎのように繋がって見える。どの出来事も、突然起こったわけではない。数珠だまの一つ一つは、その時代に、その場所に、ある状況の下におかれた人々の、生存と繁栄をかけた選択と生き様の結晶だ。善かれ悪しかれ、その選択の結果が次の数珠だまに繋がっていく。支配し、支配され、多くの血と涙が流された。誰もその歴史の繋がりから逃れることはできない。
あるひとつの出来事を評価するとき、歴史全体を踏まえていなければ、それは単なる独善主義にすぎないだろう。アパルトヘイトは過ちだったと、南アの白人たちを断罪することは簡単だ。しかし、それはアフリカーナの人々に代々受け継がれた民族意識や誇りや恐れを共有しない人間だから、人事のように言える事だ。そして、民主主義や人道主義を正しいとする先進国の理念に守られた人間だから、簡単に叫ぶことができる。
しかし、アパルトヘイト撤廃は、30年前の南アでは、マンデラのように政治犯として投獄される覚悟がなければ言えなかったことだ。さらに言えば、もし白人だったら、人種隔離が不正義だと思っていても、身内の白人たちを全てを敵にまわす覚悟がなければ言えなかったことだ。
問題の解決に、対話や和解が重要だなどということは、誰にでもわかる。しかし、それは、南アの黒人たちが経験した苦しみや怒りや白人への憎しみを知らない人間が、安易に口にできる言葉ではない。自分を苦しめた相手を許すことができるのかという問いに、まず自分が答えてからでなければ、人に問う資格はない。それは、同時に自分の過ちにどれだけ謙虚になれるか、相手の苦しみや傷にどれだけ繊細になれるか、ということでもある。
しかし、誰よりも苦しみや憎しみを抱いたであろうマンデラが「和解」を口にするとき、これほど人の心を動かすものはない。人間の持つ力の奥深さと可能性を思い知らされ、人類が共有すべきこの叡智を賞賛せずにいられない。
アパルトヘイトという不正義が撤廃され、多くの犠牲を伴いながらも、南アが民主国家に生まれ変わったことは、奇跡的とも言えるし、歴史の必然だったのではないかとも思える。南アの歴史に繋がる数珠だまのひとつに、偶然を含むいくつもの要素(国際的反アパルトヘイトキャンペーンの波、経済制裁、頻発する暴動、デクラークの大統領就任、不屈の闘士マンデラの存在、東西冷戦の終結・・・)が一瞬重なり合った。ただし、その一瞬のタイミングを捕えてパラダイムシフトを決断し、歴史の必然に変えることができたのは、権力のトップにいたデクラークをおいていなかった。
そういう意味で、私は、「権力者たちの中から正しい方向に向かおうと決断する者が出てきたとき、対話の可能性が生まれる。そして、変革を起こし体制の移行が平和的に進む可能性が生まれる」という命題はおよそ正しいのではないかと思っている。そして、改めて南アを民主化に導いたデクラークの功績、その勇気ある決断を称えたいと思う。
参考文献:
・F.W. de Klerk: The day I ended apartheid
・F.W.de Klerk’s Speech at the Opening of Parliament on February 1990
・Why FW de Klerk let Nelson Mandela out of prison
・The Challenges of Change in Africa
・The day Nelson Mandela Walked out of Prison
・Impact of Economic and Political Sanctions on Apartheid
・Did Economic Sanctions Help End Apartheid in South Africa?
・Apartheid by Thomas W. Hazlett
・Outside Opinion: Skeptics were wrong; South Africa divestment worked
・F.W. de Klerk
・Nelson Mandela
・History of South Africa
・Nelson Mandela’s Life and Legacy on CNN’s Fareed Zakaria GPS
・Angolan Civil War
・Disinvestment from South Africa