2012年09月02日

ドイツ脱原発30年の歩みと「緑の党」が果たした役割 その(3)

     第三転換期−メルケル政権と新エネルギー政策 (2005年〜現在)

この記事は、

ドイツ脱原発30年の歩みと「緑の党」が果たした役割 その(1)
ドイツ脱原発30年の歩みと「緑の党」が果たした役割 その(2)

の続きです。


アートメルケル政権の政策転換

ドイツでは、98年に登場した社会民主党(SPD)・緑の党連立政権(シュレーダー政権)のリーダーシップにより、2001年改正原子力法が成立し、2021年までにすべての原発を廃止する段階的脱原発政策が動き出しました。しかし、何とか原発を維持したい電力業界は、連立政権への反発を強めます。その後の選挙では、野党のキリスト教民主同盟(CDU)は脱原子力政策の撤回を公約に掲げ、電力業界の強力なバックアップで政権奪還に向けて動き出すのです。

2005年の選挙では、接戦の末メルケル氏のCDU(225議席)もシュレーダー氏のSPD(222議席)もどちらも単独で国会の議席の過半数を確保することができませんでした。CDUとSPDの交渉の結果、メルケル氏を首相に据えた大連立を組み、16の閣僚ポストは両党から半数ずつ出すことで合意しました。緑の党は51議席を維持しながらも、CDUとは市場経済や環境問題等で政策の違いが大きすぎるとして連立を組むことはできないという決断を下しました。ここに、緑の党は政権党としての立場を離れることとなりました。

CDU・SPDの連立政権の下では、2001年の改正原子力法は効力を持ち、脱原発政策は合意ということになっていましたが、CDUが政権の座についたこでやはり風向きは変わってゆきます。

メルケル首相は、脱原発政策の転換を明言し、2008年には、経済相のマイケル・グロスの下に置かれたエネルギー作業部会で、原子炉の稼動期間を40年間(その時点からだと32年間)にすべきという提案書を作成しました。グロス経済相は、
CDUと姉妹党であるバイエルン・キリスト教社会同盟(CSU)の議員です。SPDのシグマー・ガブリエル環境相とは真っ向から対立する形となり、次期総選挙に向けて両党間のエネルギー政策についての亀裂は救いようがなく大きくなっていました。 German Nuclear Exit Should Be Reversed, Ministry Taskforce Says  

2009年の総選挙では、CDUSPDの大連立にとうとう終止符が打たれました。メルケル氏のCDUは、CSUと経済界の後押しを受けた自由民主党(FDP)との連立により、1998年以来11年ぶりに中道右派政権の復活を成功させたのです。そして、2010年10月、メルケル政権は公約どおり重大な決断を下しました。2021年までに廃炉にすると決めていた17基の原発の稼動期間を、平均12年延長するというものです。

アートメルケル政権の原発回帰の背景

メルケル政権の原発回帰の背景として(電力業界の圧力以外に)挙げられるものとして、地球温暖化対策をめぐる過去10年ほどの国際情勢の変化があります。京都議定書が2005年に発行し、2011年までには191の国と地域で締結されました。先進国を中心に、「2008年から2012年の間に、温室効果ガスを1990年比で約5%削減する」という目標も定められました。フランス、イギリス、フィンランド、スウェーデンなどヨーロッパ各国でも、温室効果ガス削減を理由とした原子力回帰の風潮が高まる中、ドイツの脱原発ムードも下火になっていました。チェルノブイリから20年たち、あのときの衝撃を知らない若い世代には原発よりも気候変動に対する関心が高くなる傾向も見られました。原発容認のドイツ世論も、2007年の40%、2009年の48%へと、ほぼ半数を占めるまでになりました。(Nuclear-Power Debate Reignites in Germany

その流れに乗るかのように、メルケル政権は2010年、環境先進国として「生活の豊かさと手ごろなエネルギー価格、そして世界で最もグリーンな経済の実現」を目標に、中・長期的新エネルギー政策「エネルギー・コンセプト」(Energiekonzept)を打ち出したのです。

その中で、温室効果ガスの排出削減率を1990年比で2020年までに40%、2050年までに80%とすること、また全エネルギー消費における再生可能エネルギーの割合を2030年までに30%、2050年までに60%にするという、極めて高い数値目標を掲げました。この目標を達成するためのプロセスの橋渡し役として位置づけられたのが原子力エネルギーであり、原発の12年間の稼動期間延長は、「エネルギー・コンセプト」に含まれる以下の戦略の一環として組み入れられたのです。

・ 自然エネルギーのイノベーションと供給拡大
・ 節電促進や企業へのエネルギー・マネージメントシステムの導入
・ 再生可能エネルギーの効率的送電のためのインフラ整備、スマートグリッドの導入
・ 住宅や建築分野の省エネ促進
 ・ 
原発稼動期間延長し、原子力エネルギーを橋渡しとして利用

この戦略には、原発の稼動期間を延長することにより、原発運営事業者が納める年間23億ユーロの核燃料税のほか、稼動延長に伴う追加利益に対する課徴金(年間2〜3億ユーロ程度)を課し、再生可能エネルギーや省エネ促進分野の関連予算を確保する狙いがありました。このメルケル政権の決断は、脱原発の時期は遅らせながらも、ドイツが最先端の技術革新により環境立国として世界のトップを走るための、大胆なエネルギー戦略だったともいえるでしょう。この決定は、福島原発事故のほんの5ヶ月前の出来事でした。


アート過激さを増す反原発デモ

しかし、この脱原発の方針転換は、激しい政権批判を引き起こしました。これ以前はしばらく劣勢だったドイツの脱原発世論に再び火をつけた形になり、デモ運動も過激化していきました。

例えば、2010年11月6日には、ドイツ北部ダンネンベルグ郊外で2万5千人による反原発デモ行進が行われました。ドイツでは、核廃棄物を再処理のためにフランスに送り、それを再度引き取って保管するというシステムを採用しています。このデモは、その再処理された廃棄物が、明日フランスから輸送されてくるという期日に合わせて行われたものです。

しかし、翌7日、123トンの核廃棄物が、ガラスやスチール製のコンテナに詰められ14両の貨車からなる列車で輸送されてくると、デモは平和的なものから逸脱していきます。列車の最終目的地であるダンネンベルグ到着直前、4000人ものデモ参加者が、廃棄物を運ぶ列車の線路に座り込んで行く手を阻み、警察の車両に火をつけるなどし警察機動隊と衝突したのです。警察も催涙ガスなどを使って群集を散乱させるに至りました。デモ隊は、騒ぎを起こして列車の到着を阻もうとしたのです。

抗議に加わった団体は、グリーンピースを含む875に上る反原発団体のネットワークでした。更には、ダンネンベルグから最終貯蔵施設のゴルレーベンまでの道路も、50−60台もの車両によって阻まれるなど、ケガ人こそそれほど多くはなかったものの、過去数年間でも最大規模で、国内外のメディアを賑わせる大ニュースとなりました。Nuclear waste shipment reaches German storage site

アート決定打となった福島原発事故

そして2011年3月11日。東日本大震災が起きたちょうどその日、ドイツ南西部バーデン・ビュルテンベルク州シュツッツガルトにて、およそ6万人が参加する大規模なデモが行われていました。首都シュツッツガルトとその近郊都市ネッカーベッセイムにある原子力発電所を結ぶ45キロの道のりが、人の鎖で繋がれたのです。

もちろんこのデモは、福島原発の事故以前から予定されていたものですが、計らずも同日に、マグニチュード9.0の地震と大津波発生のニュースが全世界を駆け巡りました。福島原発一号機の水素爆発はまだこの時点では起こっていなかったものの、津波により電源喪失したという危機的状況が伝えられていました。主催者側は、「原発が人間の手におえない危険なものであることが今まさに証明された」とコメントしています。Thousands protest against Germany's nuclear plants 


 この日を境に、ドイツは“脱原発撤回を撤回”し、再び脱原発へと決定的な方向転換していくことになったのです。2011年3月26日の、ベルリン、ハンブルグ、ケルン、ミュンヘンの4都市における過去最大の20万人脱原発デモは、福島原発事故2週間後のこのタイミングで発生しました。

10年越しの中道右派政権の復活で、原発の稼動期間をやっと12年間の延長に持ち込んだドイツ政界・原発業界にとって、福島原発事故がそのたった5ヶ月後に発生したことは、なんとも皮肉なタイミングだったとしか言いようがないでしょう。2001年の脱原発合意は、時の政権の牽引力に抗し切れなかったものの、交渉の末2021年までの時間的猶予を勝ち取り、その間に脱原発撤回することを視野に入れて、政権奪回を狙っていたのですから。

福島原発事故は、2011年3月27日に予定されていたドイツ地方選挙における政治地図を大きく塗り替えました。突如、原発問題が大きな争点となり、原発推進の立場をとっていたメルケル首相のCDUに対し、脱原発を掲げるSPDと緑の党が大きく立ちはだかりました。CDUは、支持基盤であるバーデン・ビュルテンベルク州の州議会選挙で過半数を失うか否かという瀬戸際に立たされたのです。

福島原発の事故直後、メルケル首相は、17基の原発の稼動期間の12年延長するという方針の猶予と、最も古い7基を安全点検のために3ヶ月間停止することを決めました。しかし、それは選挙向けのパフォーマンスにすぎないと受け止められて脱原発世論に拍車がかかり、情勢は、野党勢力、とりわけ一貫して脱原発を掲げてきた緑の党が再び優勢となってゆきます。結局、CDUは州議会選挙で敗北。緑の党は第2位に躍進し、3位のSPDと組み、初の州連立政権を誕生させたのでした。

そして、福島原発事故から2ヵ月半後の5月30日、メルケル政権はドイツ二度目の脱原発宣言を行ったのです。2011年6月の時点でのメルケル政権の新計画は以下のようになっていました。新計画は、福島の事故を受けて、メルケル首相が設置した倫理委員会(EthicsCommission)によって出された、「ドイツにおける将来のエネルギー政策の指針」に基づいています。

   
・ ドイツ国内の全ての原発を2021年までに停止。ただし、例外として、代替エネルギーへの変換が予定通りに進まなかった場合に備え、3基のみ2022年まで運転することを認める。

・ 福島原発事故を受けて停止させた7基(1975−1980年建設で老朽化が進んでいる)については再稼動はしない。また、2009年の事故以来、停止状態にあるシュレースヴイッヒ・ホルシュタイン州のクルーメル原発(1984年運転開始)についても廃炉にする。

・ バーデン・ビュルテンベルク州のフィリップスブルク第一原発か、ヘッセ州のビブリス原発のどちらかひとつは、万が一の電力不足を想定して運転再開できる状態に保つ(冬季の太陽光発電による出力が低下した場合、隣国からの輸入量が低下した場合など)。

・ 2010年に緊縮財政の一環として導入した「核燃料税」(原発による電力にかける税)の徴収を継続する。プルトニウムやウランを使用した原発から徴収するもので、これにより23億ユーロの税収を見込む。

・ 送電所や蓄電施設の建設を早期に実施し、再生可能なエネルギーへの転換を念頭にしたインフラ整備を進めるための法案を成立させる。化石燃料による発電所が2013年までに完成の見込みであり、これにより10ギガワットの出力が期待できる。2020年までに、さらに10ギガワットレベルの発電所が必要となって来る。
Roadmap for the Energy Revolution Germany to Phase Out Nuclear Power by 2022
 
  
 
しかし、これらの計画に対し、野党であるSPDも、スタンド・バイの状態を維持できる原発などないとして技術的な問題点を指摘した他、緑の党も粗雑な政府案に対し政府が本気で取り組む気があるのか疑わしいと表明したほか、経済界からも脱原発への懐疑論、反対論が相次ぎました。

ドイツの電力最大手EONの2011年の収益は25億ユーロと、前年の50%減少となる大打撃を受けました。原子炉の稼動停止による発電量の減少が主な原因です。天然ガス部門の収益もはかばかしくなく、2012年の収益も27億ユーロにとどまるとされています。株価は昨年度は16%落ち込みました。メルケル政権による脱原発の決定は、企業経営を根底から覆す事態となっています。E.ONでは150億ユーロ部門売却や投資の撤退などの必要に迫られています。

以前の計画では、廃炉にするまでに供給できる電力量が割り当てられていており、原子炉の残存出力を基に実利を計算して出したものが、この新計画では運転期限が先に設定されてしまっています。例えば17基の原子炉で981,000ギガワット時程度の電力供給が残っていますが、こういったまだ価値のある原子炉を運転停止することにより多額の損失が免れません。

各電力会社では、政府による決定がもたらす損失の補償を強く求めていくとしていますが、補償額は、200億ユーロ(およそ290億ドル)に上ると見られている他、課税を継続するとされている燃料税についても各社は法的手段もとる構えを見せています。E.ONのCEOは、運転期間の延長をもとに燃料棒税は導入されたものであり、運転停止後の徴税は法律違反であるとして、政府を相手取った裁判を示唆しています。

次回へ続く・・・



posted by Oceanlove at 06:41| 震災関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月09日

ドイツ脱原発30年の歩みと「緑の党」が果たした役割 その(2)

この記事は、前回の「ドイツ脱原発30年の歩みと「緑の党」が果たした役割」の続きです。

第二転換期−緑の党の躍進と苦悩(1998−2005年)

アートSPD
・緑の党連立政権の発足

1998年、ドイツは歴史的な国政選挙を迎えます。この選挙では、東西統一以来、4.2%から9.4%へと増加し深刻化していた失業率が大きな焦点となりました。経済の低迷や失業問題の責任を問われたコール首相率いるキリスト教民主同盟(CDU)は、シュレーダー氏率いる社会民主党(SPD)に大きく水をあけられ(CDU198議席、SPD298議席)、16年間に及ぶコール政権がついに終わりを告げました。SPDは、緑の党(47議席)と連立を組むことで国会における過半数を獲得し、第二次世界大戦以来初の中道左派、SPDと緑の党による、俗に「赤と緑の同盟」と呼ばれる連立政権が誕生しました。緑の党代表のジョシュカ・フィッシャーは副首相兼外務大臣となりました。

SPD・緑の党連立政権誕生により、ドイツは脱原発への第二転換期へと入ってゆきます。連立政権は、雇用や経済成長政策と共に、気候変動への対策や環境保護を重視する姿勢を打ち出していきました。中でもエネルギー政策−「環境税の導入」「原発の廃止」そして、「再生可能エネルギー分野の強化」は、その中心的課題でした。

シュレーダー政権は、「原子力は長期的リスクを抱え、核廃棄物は将来の世代を害する。国民の大多数も望んでない。この政策は、原子力をめぐる長い論争解決のワンステップだ」として、脱原子力政策を積極的に推し進めました(ドイツの脱原発 全廃へ多難な道)。その立役者となったのが、環境相となった緑の党のユルゲン・トリッティンでした。トリッティンは「再生可能エネルギーの普及により原発の廃止は可能」と訴え続け、脱原発運動の先頭に立ってきた人物です。

シュレーダー政権は、コール政権末期に導入された制度を受け継ぎ、さらに脱原発の実現に向けて、様々な環境・エネルギー分野に特化した制度改革と規制緩和を推し進めていきました。以下に、1990年代〜2005年に導入された環境・エネルギー分野の5つの重要法律の概要を簡単に解説します(カッコ内の年代は施行開始年)。

1)   電力供給法(1991−1999年)
2)   エネルギー事業法(1998年)
3)   環境税の導入(1999−2003年段階的導入)
4)   再生可能エネルギー法(2000年、2004年)
5)   改正原子力法(2001年)  

1)  電力供給法(Electricity Feed Act 1991−1999年)

再生可能エネルギーの市場開拓が命題であるという認識の下に、ドイツでは早くも1991年、再生可能エネルギー法の前身ともいえる電力供給法が施行されました。これは、電力供給事業者に水力・風力・太陽光・廃棄物ガスなどから生産される電力の買い取り義務を課す制度です。国家レベルでの再生可能エネルギー買い取り制度の導入はドイツが初めてです。
 
買い取り価格は小売価格に対する比率で定められ、特に風力・太陽光エネルギーの買い取り価格は小売価格の約90%と高く設定されました。水力や廃棄物ガス、バイオマスについては75%とされました。ただし、これらのうち5メガワット以上の発電施設からの電力は買い取りが免除されました。 

1994年の見直しでは、水力、廃棄物ガス、バイオマスなどによるエネルギーの買い取り価格が75%から80%に引き上げられています。しかし、1998年の改正では、買い取り義務の上限として、電力供給事業者が一年間に供給する電力の5%を超える場合の免除規定や、電力価格の上昇を抑えるための免除規定が定められました。 

ドイツ再生エネルギー法より
The Original Electricity Feed Law in Germany

BMU response to renewed criticism of EEG by RWI: Well known and refuted a long time ago
  

2)  エネルギー事業法(Energy Industry Act 1998年施行開始)
 

閉鎖的な企業体質と価格の高さが競争力低下を招いていた電力業界に対し、初めて抜本的な規制緩和、競争力強化に乗り出します。とはいえ、地方自治体や電力業界の反対圧力はまだまだ強く、1994年に提出された最初の改革法案は棄却されています。

その後、1996年のEUにおける電力指令(
EU加盟国は2003年までに電力を自由化する合意)の流れを受けて、一年以上の議論の末、1998年4月、エネルギー事業法が成立しました。いわゆる電力の全面自由化です。これにより、発電部門の参入規制が緩和され、送電部門の会計・機能分離が始まりました。電力会社は、他社の電力供給にも送電網を共有することを義務付けられ、事業者も個人も自ら電力供給会社を選べる仕組みとなりました。 

電力自由化による競争の激化から、各電力事業者によるコスト削減や提携強化、合併や買収が進んだ結果、大手8社体制から4社体制(E.OnRWE、ファッテンファル、EnBW)となり、電力市場の寡占化が進みました。 

電気料金は一時的に2割程度低下しましたが、2000年以降再び上昇に転じています。これは、発電分門と送電部門の分離が十分でなかったことや、事業者間での送電網の接続料の問題、石油価格の高騰や、環境税(1999年)の導入により電力への課税額が増えたことなどが理由として挙げられます。 

しかし、ドイツの電力自由化の特徴は、自由化によって不利になるとみなされていた再生可能エネルギーやコジェネレーション・システム(電気と熱を同時に生産する方式)を保護する政策を同時に開始したことです。これを境に、再生可能エネルギーを販売する会社が数多く誕生していきます。 

電力自由化の成果と課題−欧米と日本の比較
German Energy Law

3)  環境税の導入(Ecological Tax Reform Act)(1999−2003年)

軽油、ガソリンなどの石油製品と電力に対して環境税として課税し、その税収を年金保険料を引き下げることをセットにした制度で、1999年から2003年にかけて段階的に導入されました。環境税導入の目標は、エネルギー消費とそれに伴うCO2排出量の抑制、再生可能エネルギーの技術開発の促進、かつ企業の人件費(年金保険料の企業負担)の軽減による雇用促進です。環境税を、温暖化対策のための目的税とすべきという議論もありましたが、社会的公正さを維持するためとして、90%は年金財源に、10%はCO2削減対策として使われています。

環境税導入で、ガソリンは初年度に1リットルあたり3.07セント(ユーロ)、5年間で約15.34セント(ユーロ)の増税となりました。現在ガソリン税は1リットルあたり約66セントですが、そのうち15セントが環境税によるものです。また、電力については、1.02セント(キロワット毎時)、その後毎年0.26セントが加算され、最終的に2.05セント(キロワット毎時)が課税されました。ただし、再生可能エネルギーによって発電された電力については非課税となった他、産業に打撃を与えないように製造業者や農林漁業者、公共交通機関事業者などへの課税は低率あるいは免除が規定されました。

環境税の導入の成果は、地球温暖化ガスの排出抑制効果、消費者の負担増、経済効果など多角的観点から、およそ次のようなプラスの評価があげられています。

・環境税による税収は、2003年には187億ユーロとなり、その90%に当たる161億ユーロが年金の財源に当てられた。
・雇用主の年金積み立て負担率は1998年の20.3%から2005年の19.5%に減少した。
・ガソリンの消費は2000年には4.5%、2002年には3.3%の減少となった。
・CO2の削減については、環境税が導入されなかった場合の予想値と比較し2003年には2.4%、2000万トンが削減された。2010年には3%、2400万トンの削減に達した。
・雇用増進は、2003年にもっとも大きな効果を見せ、25万人の増加となった。
・78%の人々が家電製品の電源をこまめに切る、車を使わずに公共交通機関を利用するなど、節電を意識した行動するようになった。
・節電効果の高い製品やサービスの市場の業績が伸びると同時に投資を促す効果も得られた。

Effects of Germany’s Ecological Tax Reforms on the Environment, Employment and Technological Innovation
How Germany Became Europe’s Green Leader: A Look at Four Decades of Sustainable Policymaking
ドイツにおける環境税制改革の影響
ドイツの環境税とエネルギー政策−再生可能エネルギー法に関連して−


4) 
再生可能エネルギー法(Renewable Energy Sources Act 2000年、2004年)
 

これは、上記の電力供給法の延長上にできたもので、電力会社に再生可能エネルギー電力の固定価格買い取り義務(Feed-In-Tariffs)を導入したものです。水力・風力・太陽光・廃棄物ガス・汚泥ガス・バイオマスに加え、地熱と坑内ガスも対象とされました。各電力ごとに設定された買い取り価格は次のようになっています。

 (発電規模500キロワット以下の場合、単位:キロ・ワット時) 
・風力発電9.10セント(稼動から5年以内)
・水力・廃棄物ガス・汚泥ガス発電・・・7.67セント
・バイオマス・・・10.23セント
・地熱・・・8.95セント
・太陽光・・・50.62セント  

2004年、再生可能エネルギー法が全面改訂され、再生可能エネルギーの総発電量に占める割合を2010には12.5%、2020年に20%にするという目標を定めました。(2001年時点では7.8%)。これは、2001年にEUで規定された再生可能エネルギー促進のための国別目標値でもあり、EUレベルでの政策協調を反映しています。 

改訂法では、各電力の買い取り価格が見直され、水力発電や地熱発電などでは500キロワット以下の小規模施設における電力の買い取り価格が引き上げられるなど、優遇が強化されています。 特に風力発電の普及は目覚しく、1990年には1,500機だった発電機は2004年には16,000機まで増加。2000年には7,000メガワットだった発電量は2003年には14,600メガワットとなっています。2005年には総電力に占める風力発電の割合は5.8%まで伸びました。

2011年1月時点で、ドイツでは電力の17%を再生可能エネルギーで賄っていました。2010年一年間で、再生可能エネルギーの利用により、1億1千万立方メートルの二酸化炭素排出が削減されたと報告されています。また、1998年には3万人だった再生可能エネルギー産業全体の雇用が、2010年には35万人と著しく増加しています。

ドイツの環境税とエネルギー政策−再生可能エネルギー法に関連して−
ドイツ再生エネルギー法
 

5)  改正原子力法 (Atomic Exit Law 2001年)

この法律は、「原発の新設は認めず、既存の原発19基の運転期間を32年に限る。その年数をベースに、2000年1月1日以降の原発の総発電量を2兆6233億キロワット時と設定する」というものです。最新の原発は1989年から稼働しているので、2021年には全ての原発が廃止されることになりました。2002年4月にはこの法律が施行され、世界初となる脱原子力政策が動きだしました。この法律が成立した経緯について、この後詳しく書きます。

アート政府と電力業界はどのようにして合意に達することができたのか


さて、社会民主党(SPD)と緑の党の連立の下、脱原発に向けた数々の法整備を進めていったシュレーダー政権ですが、それは決して平坦な道のりではありませんでした。

まず、1999年1月、ドイツ環境省は、原発の即時閉鎖、新規原発施設の許認可の禁止、使用済み核燃料の海外再処理の禁止、電力会社への賠償を行わないなどとする脱原発政策を発表しました。

しかし、緑の党が長年訴えてきた即時脱原発
(2004年までに全廃)を前面に出したドラスティックな政策は、電力業界の反発はもちろんのこと政府内外からの厚い壁に阻まれます。脱原発の国内世論や緑の党の躍進があったとはいえ、国内総発電量の約3割を占めていた原発の廃止、すなわち巨大利権と収益の損失を電力業界がすんなり受け入れるはずがありません。

しかし、翌2000年6月の時点で、ドイツ政府と電力事業者の間では脱原発の原子力コンセンサス」が合意されています(改正原子力法の成立は2001年9月)。この一年半の間にどんな交渉が行われ、政府は電力業界の抵抗をどのようにしてクリアし、原子力コンセンサスを取り付けることができたのでしょうか。即脱原発を求める政府と、原発を継続したい電力業界が、合意に至った経緯と内容を簡潔にまとめると以下のようになります。

交渉の場】 政府は、電力事業者に対し脱原発へのコンセンサス協議への参加を求めた。シュレーダー首相、トリッティン環境相、経済相、電力事業者8社のトップが同席するコンセンサス会議は、1999年から2000年にかけて4回にわたり行なわれた。この会議が、政府と電力業界が互いの妥協点を探りつつ合意形成をしていく場となった。

交渉の着地点】 電力業界側は、新規の原発建設は断念することで妥協。現存の19基の原発については、各原子炉が40年間100%の全出力を終えるまでは閉鎖しないか、あるいは稼動年数を最大限引き伸ばす構えで臨んだ。一方の政府側は、原発の即時閉鎖は断念し、段階的閉鎖で妥協。この段階的閉鎖をできるだけ短期間で行ないたい政府と、できるだけ引き伸ばしたい電力会社の間で、交渉が続けられた。

その結果、「原発の新設は認めない。19基の原発の運転期間を32年に限る。その年数をベースに、2000年1月1日以降の原発の総発電量を2兆6233億キロワット時と設定する」という妥協点を見出した。最新の原発は1989年から稼働しているので、2020年をもって全ての原発が廃止されることになった。

要するに、この合意内容は「2020年をもって原発は全廃するが、それまでの20年間は稼動を認める」という取引だったと言える。しかも、残存発電量の移管(低効率で古い原発に割り当ての発電分を、より新しい原発の発電に振り替えること)を認めたことにより、全廃時期は数年から10年程度ずれ込む可能性が生まれた。つまり、2020年というのはあくまで一番早いシナリオであり、この条件により、電力事業者は原発を廃炉にする時期を決定する裁量権を有利に獲得した形になった。

使用済み核燃料再処理問題】 当初の政府の提案による使用済み核燃料の海外再処理の禁止に関しては、これまで委託業務を行っていたフランス企業やイギリス企業、および両国政府からも契約不履行の抗議があり、即時禁止も断念することとなった。

その代わり、政府は原発事業者に対し原発の敷地内かその近郊に中間貯蔵施設を設置する義務を課し、施設の準備が整うまでの間、政府は使用済み核燃料の再処理のための輸送許可を交付するとことで合意した。ただし、輸送は2005年7月以降は禁止されるとした。また、高レベル放射性廃棄物の最終処分場の完成は2030年をめどに進められることとなった。

段階的脱原発の合意は、政府が再生可能エネルギー産業を育成し、電力事業者がバックエンド問題(原子炉の廃炉、放射性廃棄物処理、核燃料サイクルにかかわる事業)を具体化するための時間的余裕をもたらす形ともなった。

電力供給不足をどう補うか】 政府は、段階的原発閉鎖に伴う電力の供給不足を補う対策として、電力需要の削減(省エネ)、既存発電設備の稼動効率向上、電力の輸入、再生可能エネルギーによる発電の開発と普及の4つをあげた。そのうち最も重点が置かれたのが再生可能エネルギーの開発と普及である。

すでに書いたように、ドイツでは2000年に施行開始された再生可能エネルギー法により、電力販売会社に対し、再生可能エネルギーの固定買い取り価格義務が課されるようになった。ドイツの再生可能エネルギー政策は、EU全体の目標(EU域内の再生可能エネルギーによる電力供給を2010年までに12%にするという目標)と連動している。ドイツに課された数値目標は12.5%である。

2002年には、今後25年間でバルト海や北海で2,000〜2,500万キロワットの海上風力発電を建設する計画も進行した。2030年までに総電力需要の4分の1をまかなう予測である。

German Energy Law
Nuclear power phase-out
欧州におけるエネルギー政策について

ドイツの1998年総選挙後の脱原子力政
ドイツにおけるエネルギー政策の転換と電力メジャーの経営戦略
ドイツの電力事業および原子力産業

アート電力会社の長期的戦略

さて、電力業界が段階的脱原発の合意に至った背景には、緑の党を含む多数派与党のリーダーシップと政治決断のほかにも、原発の経済性という観点、また、電力会社の長期的な経営戦略という観点かからのシビアな検討もありました。

巨額な初期投資、減価償却期間の長さ、廃炉費用の負担等、原子力エネルギーは現実的に価格競争に弱いことはすでにドイツ電力業界内でも認識されていました。そして、発電コスト上十分に対抗できる他の発電方法も模索されていました。

例えば、電力自由化前の90年代後半から、天然ガスによる発電は著しく成長しています。特に効率の高い複合発電(ガスと蒸気の組み合わせによる発電)が普及してきていました。燃料費の変動が激しい天然ガスも、コジェネレーション化などにより、代替エネルギーとして十分に対抗できると見られていました。

また当時、ベルギー、オランダ、イギリスなど欧州諸国でも原発エネルギーの利用を将来的に廃止する計画を練っており、EU全体でも再生可能エネルギーへの転換初期にあったのは紛れもありません。そんな流れの中、ドイツの大手電力事業社は、原発からの脱却を視野に入れ、経営のグローバル化と多角化を長期的な企業戦略としはじめていました。

つまり、電力を売るだけの電力会社ではなく、ガス、水道、環境サービスなど関連事業を柱とした総合的なユーティリティ会社への転換でです。ドイツ電力大手の
RWEは、グループ全体に占める電力の割合は2002年には50%程度となっています。また、RWEの国内売り上げは60%に留まり、イギリス14%、アメリカ9%など海外への展開も始まっていました。

Effects of Germany’s Ecological Tax Reforms on the Environment, Employment and Technological Innovation
The Change of Energy Policy and Strategies of Major Electric Power Companies in Germany
 

アート緑の党の苦悩

しかし、このドイツ政府と電力業界の間の段階的脱原発の合意「原子力コンセンサス」に関し、緑の党では内部対立が起きていました。党の理念を堅固に維持したい原理主義派と、妥協をしても連立政権維持を優先したい現実主義派との間の意見の相違です。

連立政権の座についてからというもの、緑の党は外交問題、党内民主主義、原発問題など軒並み、これまでの持論を180度方向転換したり、妥協を迫られていました。例えば、副首相で外相も務めたジョシュカ・フィッシャーは、これまで非暴力主義、NATOからの撤退を掲げてきたにもかかわらず、1999年にはコソボやセルビアへの派兵や、2001年のアフガニスタンへの派兵も支持する側に回りました(緑の党の国会議員の中には、これらに反対票を投じた議員もいます)。

脱原発を実現させるための改正原子力法でさえ、党内では厳しい批判があがり足並みは乱れていました。政権発足当初、緑の党が実現させようとしていたのは原発からの即時撤退でした。最低でも、2002年までには一基を停止・廃炉にさせるという方針だったのが、結局の実現したのは、ドイツでもっとも古い原発のオブリハイム原発を2005年までに廃止するというバーデン・ヴュルテンベルク電力との合意、たった一つに過ぎません。

緑の党内の急進派は、原子力コンセンサスは、言い換えれば2020年までは原発の運転を容認するという合意であり、連立政権は電力業界の要求を呑み今後30年間も原発を存続させ、使用済み燃料の輸送を保障する合意文書に署名をしたのだとして、到底容認できないとしました。非難の矛先は環境大臣となった緑の党のトリッティン氏にも向けられ、実際に党を離党する議員が出る事態にもなりました。

環境活動家のトリッティン氏は、以前は核廃棄物の輸送に反対し、しばしばその妨害活動で警察に連行された経歴の持ち主です。使用済み燃料を一旦フランスの再処理施設に送り、そこから中間保管施設に列車で輸送するといった手続きが必要不可欠なドイツの原発産業のあり方は、政権を担う立場となったかつての脱原発指導者を難しい立場に立たせました。

原子力改正法(2001年)に基づくドイツの脱原発政策は、原発からの即時撤退を望む者たちにとっては妥協が多く、電力業界には多くの時間的猶予と原発の廃炉時期に関する有利な裁量権が与えられたものとなりました。しかし、この時点のドイツ政府の意図は、「原子力発電所は運転期間32年ですべて廃止する」という段階的脱原発政策の策定であり、それにより電力業界との間に生じうる訴訟を避けるためのギリギリの決断でした。

この緑の党が躍進し連立政権を担い始めた1998年から、環境・エネルギー関連の数々の重要改革、2001年の改正原子力法の成立を経て、ドイツ脱原子力政策が動き出した期間(〜2005)を、ドイツ脱原発第二転換期、とすることにします。

しかし、脱原発政策はスムーズには進んでいきません。話はまだ続きます。改正原子力法は成立したものの、何とか原発を維持したい電力業界は、シュレーダー政権への反発を強めます。その後の選挙では、野党のキリスト教民主同盟(CDU)は脱原子力政策の撤回を公約に掲げ、電力業界の強力なバックアップで政権奪還に向けて動き出すのです。

次回へ続く・・・

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2012年07月28日

ドイツ脱原発30年の歩みと「緑の党」が果たした役割

7月16日、東京代々木公園で、大規模な脱原発集会が開かれました。主催者側(脱原発を訴える市民団体などでつくる「さようなら原発一千万人署名市民の会」)の発表で参加者は17万人(警察当局発表で7万5千人)と、これまでの反原発集会の中で最大規模となりました。この市民の会は、当初は300人程度から始まった毎週金曜日のデモは、野田政権による大飯原発再稼動への反発から、6月半ばから参加者数が爆発的に増加しています。私も、一時帰国中の6月22日、官邸前での集会に参加してきました。

よく言われているように、この脱原発デモの特徴は、組織的に動員された人々によるものではなく、インターネットやツイッター、フェイスブックで情報が広まり、「脱原発」「再稼動反対」に賛同する個人が、自らの意思で集まってきているという点です。基本的に行進はなく、2-3列に立ち並び官邸周辺の道路を囲んで声を上げる、極めて平和的な抗議集会です。

これまで、デモなどの行動に訴えることがあまり得意ではなかった国民−外国からなぜ日本人は怒らないんだ?と不可解にさえ思われてきた国民−がついに立ち上がりました。中高年者、若者、会社員、主婦や家族連れ、不特定多数の市民が、名前も所属も関係なくただ「再稼動反対」と叫び、人のうねりをつくり、聴覚的に視覚的に、政府やメディアがいやでも無視することのできないシーンを生み出しています。

6月29日、総理と閣僚が出席する「エネルギー・環境会議」は、2030年時点でのエネルギー政策で原子力発電比率を0%、15%、20-25のいずれかにする三つの選択肢を決定しました。7月に全国で国民を交えた議論を行い、8月中に政府がエネルギー政策を決定するという予定になっています。今こそまさに、国民の声を政府に届けなければならない時です。この17万人もに膨れ上がった脱原発の国民的アクションを、エネルギー政策に反映していかなければなりません。

アート思い起こさせられるドイツの脱原発デモ
この脱原発への市民運動の盛り上がりは、福島原発事故直後のドイツ国内でのデモを彷彿とさせています。2011年3月26日、福島原発の事故の2週間後、ベルリン、ハンブルグ、ケルン、ミュンヘンの4都市で計20万人が参加するドイツで過去最大といわれる脱原発デモが行われました。その後も5月末にかけて、数十万人規模のデモが繰り返され、ドイツの世論は圧倒的に脱原発へと傾倒していきます。そして、福島原発事故からわずか2ヶ月半の5月30日、メルケル首相は国内すべての原発を停止する発表を行ったのでした。

しかし、事故の当事国でもないのに、なぜあれほど大規模な反原発のデモが起きたのでしょうか。直接的な被害を受けたわけでもないのに、なぜあれほどスピーディーに脱原発という国家のエネルギー政策の転換が行われたのでしょうか。

福島原発事故は、ドイツが脱原発に舵を切る大きな契機となったことは確かですが、それによって突然国家のエネルギー政策がひっくり返ったわけではもちろんありません。ドイツが脱原発を決断するまでには、フクシマ以前の実に過去30年間にわたる長い道のりがありました。そして、その歩みの中で脱原発への道筋をつける最も重要なカギを握っていたのが、ドイツ「緑の党」の存在です。私はずっと、このことについてまとめなければならないと考えてきました。

国の事情はいろいろ違えど、脱原発に至ったひとつの手本として、また環境政策で世界をリードする国として、日本がドイツから学ぶことは多いと思います。ドイツ脱原発30年の道のりと緑の党が果たした役割について、時代を追いながら次の4段階に分けて、解説していきます(今回の記事では序章と第一転換期まで)。

序章−ドイツ反原発運動の始まりと緑の党の結成(〜1980年)
第一転換期−チェルノブイリから、統一ドイツ・エコロジー経済改革へ(1980年代半ば〜1990年代後半)
第二転換期−緑の党の躍進と苦悩(1998〜2005年)
第三転換期−メルケル政権と新エネルギー政策(2005年〜現在


序章−ドイツ反原発運動の始まりと緑の党の結成(〜1980年)

アートワイン農家らが潰した原発建設

ドイツの原子力発電は、研究・実験用施設の建設は1950代に、商業用施設の運転は1969年に始まりました。1973年のオイルショックを経て、ドイツでも他の国々と同様、エネルギー供給の国外依存度を減らすために、原子力発電の拡充が図られていきました。安定的な電力供給を掛け声に政・官・業を通して積極推進され(1970年代には14基、80年代には4基が建設着工)、原発は全国各地に次々と建設されていきます。現在までにトータルで36基の原発が建設され、そのうち19基がすでに廃炉となり、福島原発事故以前は17基が稼動していました。

しかし、ドイツでは建設ラッシュの70〜80年代から、原発推進をめぐって激しい論争が展開されていました。電力会社や州政府が原発建設を計画した地域ではどこでも大規模な反対運動が起こり、全国各地で、建設計画を遅らせたり、中止させたりする事態が起きました。また、廃棄物の最終処理をどこで行うかが未解決のままだったため、使用済み燃料の輸送や廃棄物処理の問題への関心も、すでに1970年代から高まっていました。(エンルスト・ウイルリッヒ・フォン・ワイゼッカー著「地球環境政策」より)

ドイツ南西部のバーデン・ビュルテンベルク州、フランスとの国境近くに人口3000人余りのヴィールという村があります。ワイン農家を営む人々が暮らすこの小さな村に、原発誘致の話が持ち上がったのは1971年のことでした。地元の反対にもかかわらず、3年ほどの間に誘致準備は着々と進み、1975年には正式な建設許可が下りて着工の運びとなりました。

ところが、反対を訴え続けるワイン農家の住人らは、着工を阻止すべく建設現場に座り込みを始めたのです。二日後、座り込みを続ける住民たちを警察が強制的に引きずり出す様子がテレビで放映されると、建設反対は周辺の市町村のみならず全国的な注目を集めます。直後には、地元の名門フライベルク大学の学生らを中心に3万人が集まり着工現場を占拠する事態に発展し、州警察は群衆を強制的に撤退させることを断念してしまうのです。その一ヵ月後、建設許可は取り下げられ、原発誘致は失敗に終わりました。(
Anti Nuclear Movement in Germany

アート緑の党の結成
このヴィール村の事件は、反原発市民運動の成功例として、全国各地の原発建設予定地に飛び火し、反原発運動は組織化され広がっていきます。この運動の先頭を走っていたのが環境保護団体Green Party、「緑の党」の前身の団体です。

Green Partyとは、大きくは「社会的公正」「参加型民主主義」「非暴力主義」「環境保護」などを理念として政治的活動を行う団体、政治勢力のことを指します。その起源となるのは、1970年代頃から欧米先進諸国で始まった自然環境保護、反核・反戦、女性解放運動、消費者保護などテーマにした社会運動、いわゆる“Green Movement”です。ニュージーランドやオーストラリアをはじめ、スイス、イギリス、ドイツなどにおいて、地域に根ざした、また国境を越えたグローバルな規模で活動をするこれらの市民団体が、次第に政治的な影響力を持つようになり、各国のそれぞれの法規に則った政党としてのGreen Party「緑の党」が結成されていきました。(
Green Party) 

その先駆けとなったのは、1972年オーストラリアのタスマニア州での選挙で、自然保護を訴えたUnited Tasmania Groupだといわれています。ヨーロッパにおける初の緑の党は、1973年にイギリスで発足したPEOPLEという組織であり、後のイギリス「緑の党」です。次いで、フィンランド、ベルギー、フランス、アイルランド、オランダなどでも、Green Partyが政治の舞台に台頭するようになっていきます。

中でも、緑の党が国政において強い影響力を持つようになったのは旧西ドイツでした。西ドイツ緑の党は、60年代の学生運動、70年代の環境保護・反原発運動、80年代の平和運動などの流れを汲みながら、次第に政治的な力を強めていきます。

1979年、各地で反原発および反中央集権主義を掲げて活動していたGreen Partyや他の市民組織が西ドイツ・フランクフルトに結集し、翌1980年、正式に「緑の党」を結成しました。その年には、初めて州議会議員が誕生し、州政府レベルで他党と連立政権を担うなどして地方政治への影響力を発揮し始めます。そして、1983年の国政選挙では5.6%の得票率で緑の党から初めて27名の国会議員が当選したのをきっかけに、国政へと躍進していきます。旧西ドイツで、環境保護・反原発を旗印にした「緑の党」が誕生する1980年までを、ドイツ脱原発への序章と名付けることにしましょう。最初に、ドイツの脱原発まで30年の歩みと私が書いたのは、この年を起点としています。


第一転換期−チェルノブイリから、統一ドイツ・エコロジー経済改革へ(1980年半ば〜1990年代後半)

アートチェルノブイリとベルリンの壁崩壊の衝撃
1980年代は、世界的に地球の温暖化やオゾン層の破壊、森林破壊の問題が指摘され始めた時代です。80年代半ばごろになると、ドイツでは早くも政府・国会レベルで地球温暖化・気候変動の問題が取り上げられていました。

1987年、コール政権は、
「地球規模の環境変動についての科学者委員会(WBGU)」を設置し、ドイツにおける地球温暖化対策の最初の目標を、二酸化炭素とメタンの排出量を1987年と比較して2005年までにの25%、2050年までに80%削減するとしました(1990年国会)そして、政権内では地球温暖化問題と連動して、将来のエネルギー政策を抜本的に見直して行く必要があるという認識がすでに広まっていました。

1980年代後半〜90年代には、ドイツの国内外で様々な出来事が起きました。チェルノブイリ原発事故(1986年)、東西ドイツ統一(1990年)、欧州連合(EU)条約の調印(1992年)とユーロ圏の市場統合など、ドイツの政治・経済・社会全体にとって激動の、そして苦難の時代ともいえます。ドイツにおける環境政策や脱原発への流れは、この時期に推し進められた様々な国内の制度改革・法改正などを抜きにして語ることはできません。

旧ソ連チェルノブイリ原発の事故の衝撃は、ドイツにおける原子力政策に大きな影響を与えました。原発に関する人々の考え方も、85年までは原発賛成派と反対派が世論をほぼ二分していましたが、1988年までには反対派が70%まで急増する一方、賛成派は10%にまで落ち込みました。反原発を掲げる緑の党がにわかに脚光を浴び始め、翌年の1987年の国政選挙で大躍進し、得票率でそれまでで最高の8.3%、国会における42議席を獲得します。この時、中道左派の社会民主党(SPD)が段階的な脱原発を推し進めたのに対し、緑の党は即脱原発を訴えていました。

ちなみに、チェルノブイリ事故と同年に建設着工していた西ドイツ・ネッカーヴェッセイムの原発が1989年に完成し、新規運転が始まりましたが、これがドイツで最後となる原発です。

その1989年、ベルリンの壁が倒壊。旧東ドイツでは、社会主義政権下で運営されていた化学工場やアルミニウムなどの国有企業がほとんどストップし、電力需要が急激に低下しました。その結果、旧東ドイツの原発6基は運転停止に追い込まれます。ポーランドとの国境に近いグライフスバルト原発では、1974年に創業開始以来、旧ソ連型の軽水炉(VVER)の原子炉を運転してきましたが、5基目が稼動を始めて1年を待たずに廃炉への道を余儀なくされます。当時のコール政権は、旧ソ連型の原子炉の安全性を疑問視するなど、原発業界にとって風当たりはますます厳しくなっていきました。

一方、旧東ドイツにおいても、東西統一直前の1989年に「緑の党」が発足していました。90年の東西ドイツ統一後初めて行われた国政選挙では、旧東ドイツの「緑の党」からも国会議員を送ることに成功します。発足当初は、東西統一に反対の立場をとっていた旧東ドイツ「緑の党」でしたが、1993年には、
東西の「緑の党」が、Alliance‘90・The Greens(90年連合・緑の党)として統合され、以後ドイツ国内はもとより、ヨーロッパにおける大きな影響力を発揮していきます。

アートドイツ経済の低迷とエコロジー経済改革
1990年代のドイツ経済は、統一後の財政赤字転落、失業率増大、旧東ドイツへの援助の増大などにより景気の低迷が続きました。それに加えて、競争率の低下や経済の停滞の背景にあると見られているのが、ドイツ特有の企業文化や習慣です。すなわち、高い賃金水準、高福祉を支える重税負担、株主利益より雇用維持を優先する制度と慣行、株式持ち合い(金融機関、資本家、事業主が株式を持ち合い、大銀行などが安定的な大株主となって影響力を行使するような企業形態)に象徴される保守的で閉鎖的なコーポレート・ガバナンスなどが挙げられるでしょう。

このような保守的な企業形態においては、敵対買収などがおきにくく独占的経営が維持される一方で、自由競争が阻害されます。また、アメリカやイギリスなどが徹底した利益追求主義によってリストラを行うのに対して、ドイツでは従業員の雇用優先などにより、事業形態を迅速に変えることができないといった面がありました。

ドイツ経済の大黒柱ともいえる電力業界は、1935年に制定された電力供給事業法(Energy Supply Industry Act)に基づいた仕組みが60年以上維持され、大手8社および約700の地方自治体が運営する小規模電気事業者などが独占的してきました。各電力事業者の既得権益−電力供給の区割りや送電契約、固定顧客への供給、余剰電力の送電、電力の貯蓄など−には関係省庁や地方行政などがあらゆるレベルで関わり、認可と引き換えに利益が潤沢に分配されるなど、自由競争とはかけ離れた実態がありました。(
Three Decades of Renewable Electricity Policies in German

つまり、統一後のドイツのジレンマは、EU経済の牽引役でありながら、賃金水準の高さやエネルギー価格の高さ、そしてドイツ特有のコーポレート・ガバナンスのあり方や市場独占などにより、低成長率、失業率、競争力にも不安要素を抱えていたということです。 

そんな中、ドイツでは1990年代初めごろから、「エコロジー的近代化論」に基づき、環境分野への戦略的投資により技術革新、経済成長、雇用創出を目指す政策が導入されてきました。「エコロジー的近代化論」とは、「持続可能な発展を近代化の新たな段階として捉え、近代化・合理化の帰結として発生した環境問題を、社会システムの政策的革新によって解決しようとする思想」です。(「ドイツの脱原発と気候・環境戦略」)

 ドイツでは、EUにおける様々な環境政策・規制緩和に先立ち、また並行して、国内の様々な環境・エネルギー分野に特化した制度改革と規制緩和に踏み切っていきます。それらのうち重要なものに以下にあげる5つの法律があります(カッコ内の年代は施行開始年)。 

1)   電力供給法(1991−1999年)
2)   エネルギー事業法(1998年)
3)   環境税(1999−2003年段階的導入)
4)   再生可能エネルギー法(2000年、2004年)
5)   改正原子力法(2001年)

 それぞれの内容については、次回のブログで説明しますが、これらの制度改革や規制緩和の必要性が高まり、議論を呼び、法案化されて国会審議が行われていた90年代、ドイツがネルギー政策に関していかに重大なプロセスを歩んでいたかがわかります。1986年のチェルノブイリの事故により反原発の国民世論が高まり、東西ドイツ統一と「90年連合・緑の党」結成、統一ドイツによる経済再生に向けた様々な制度改革(エコロジー経済改革)への着手が行われた1998年までを、脱原発への第1転換期と呼ぶことにしましょう。

次回へ続く・・・

ラベル:緑の党 green party
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2011年04月30日

日本社会の構造的問題と有権者の責任 〜新たな日本のタペストリーを織り成すために〜


福島第一原発の事故は、福島周辺に住む人々の命や健康を大きな危険にさらし、精神的にも経済的にも大きな苦しみをもたらしました。放出された放射性物質は美しい自然環境を汚染し、農業・牧畜・漁業などを含む人々の生活の基盤を奪い、その影響は日本各地そして世界中に広がっています。日本中の人々が、初めて、身をもって原発の恐ろしさ、危険性を実感しています。

現在稼動中の日本中の原発について、速やかな安全点検が行なわれ、地震や津波などのリスクの高いものについては即刻停止するなど、短期的な対策が早急に採られなければなりません。同時に、代替エネルギーへの転換や、長期的視点にたった将来の日本のエネルギー政策について議論していく必要があります。原発を維持していくのか、それとも原発脱却という大転換を図っていくのか。これは国民の生活と国の将来に関わる重大な問題です。一人一人が真剣に考え、議論し、将来の日本のために最善の方法を選択していかなければなりません。

その議論の前提として、まずは事故原因の徹底究明がなされなければなりません。当然のことながら、事故の直接的原因は、莫大な利益をもたらす原発の管理・運営に関わりながら、国民には「安全神話」を刷り込み、地震や津波への万全の備えを怠ってきた東電と政府組織の怠慢・過失にあります。でも、私はあえて今回、私たち自身に疑問を突きつけ、事故を起こしてしまった原因と背景の中に、私たち国民側に改めるべき部分はないだろうかと考えてみました。

そこから、浮かび上がってきたのが今回のテーマ「有権者の責任と日本社会の構造的問題」です。また、福島原発の事故問題は実は原発だけの問題ではなく、背後には日本社会に蔓延している構造的問題があるということについても、問題提起をしたいと思います。私たちが冷静に「有権者の責任」を検証することは、今後の原発をめぐる議論やエネルギー政策が本当に国民の意見が反映されたものとなるために、ひいては、これからの日本を、公正で人の命を大切にする本当の意味で豊かな国にしていくために必要不可欠なことであると考えるからです。

🎨国民の側にある問題とは
「事故原因は、自然災害の危険性を甘く見積もり、原発の安全管理を怠ってきたことによる人災である」
「事故の責任は政府や東電にある」
「事故後の政府の後手後手の対応に、被災者は更なる苦痛を強いられている」

このように感じている国民はたくさんいます。原子力保安院や東電の会見を見ていても、どこまで本当なのか、信じるに足る情報なのか、とても困惑させられる場面がたくさんあります。実際、私たちには事実を知る術はなく、それらの会見を基にしたニュース報道がすべてですが、政府でさえ事実関係が掌握できていないのが実態なのではないか、事を荒立てないために伏せていることがあるのではないか・・・、多くの人々がそんな疑いを抱いてしまうのも不思議はないと思います。それが私たち一般国民の直感、善良で常識的な多くの人々の感覚であり、批判の矛先はひとえに政府と東電に向けられています。

しかし、事故をもたらした間接的な原因に、私たち国民一人一人も全く無関係とは言えないと、私は考えています。そのように考えるわけは、事故が起きるまで、私たち国民のほとんどは原発について関心を持っていなかった事実を今痛烈に思い知らされているからです。湯水のように使ってきた電力がこれだけ原子力に頼っていたということに今回はじめて気付いた人は、私を含めてどれほどいるでしょうか。平常に安全に運転されていて恩恵を受けているときは何も言わず、事故が起きた今になって東電と政府を責めているのが私たちです。原発周辺の人々に向けて言っているのではありません。東電の原発の電力で生活してきた首都圏の人々、家電、パソコン、携帯、交通、商業活動・・・原発エネルギーを当たり前に使う豊かな生活をおくってきた日本中の人々に当てはまることです。だからこそ、あえて私は国民の側に改めるべき部分はないだろうかと、冷静に考えてみるべきだと思うのです。

当然、東電や官僚たちには一般市より遥かに大きな直接的過失と責任があります。例えば、過去の事故の際にも情報を十分に公開してこなかったこと、国会議員の原発に関する質問を適当に受け流し、徹底した安全対策の見直しをしなかったこと、また、危険回避や安全対策より企業利益を優先する判断をしてきた組織のあり方そのものであり、国民の目に不透明なシステムです。

しかし、私たち国民はどうでしょうか?何をしたでしょうか?または何をしなかったでしょうか?過去の事故に際しても、原発周辺の住民以外の国民はそれほど危機感を持つことはなく、市民レベルで徹底検証をするという大きな動きも見られませんでした。幾度となく起きていた小さなミスや事故も、原発推進の政府と業界関係者の恩恵が守られるような形で丸く納められてきました。

🎨事故の遠因となった国民の無関心・無責任
私たちは何もしていない、単なる消費者だ、事故とは関係ないと、責任などあるわけがない、と言われるかもしれません。でも、「何もしていない」「私は関係ない」という態度が、実はめぐりめぐって、利益を優先するような企業体質、政府と電力会社の馴れ合い関係を温存させ、安全管理や危機感の欠如を蔓延らせる遠因となったと私は主張しなければなりません。更に言えば、別に悪意などなく普通に生活を送り、電気を当たり前に使ってきた日本中の人々が、原発周辺の人々の生活の基盤と糧を奪い苦しみをもたらした事故の発生に、いくらかでも加担してしまっていたのだと、私は自責の念を込めて言わねばなりません。

なぜそのように考えるのか。一般論になりますが、私は時として、有権者の政治に対する姿勢を疑問に思うことがあります。私たちは往々にして政府や政治家への批判を口にします。当然のことながら言論の自由は守られなければなりません。しかし、ある政策が自分に恩恵をもたらしている時は、特定の政治家や政党とのぬくぬくとした関係や、小さな過失や抜け穴も見過ごすような馴れ合いの関係が保っていながら、風向きが悪くなると手のひらを返すような行動をとることはないでしょうか。また、ある政策から恩恵を受けている時はその政策の欠点には目もくれないでおいて、何か問題が起きたとき、欠点を見過ごしていたのは政府だったと一方的に責めるようなことは・・・?このようなことが起きているとしたら、これは有権者として極めて無責任な態度だと言わざるを得ません。

福島原発に関しても、同様のことが言えます。これまで安全に運転されていた時には当たり前のように電力を消費し、過去の事故の際にも問題意識を持たず、政府と電力会社と馴れ合いの関係を間接的に許してきた私たち国民が、事起きてから「事故は、安全管理を怠った政府や東電の責任だ」と短絡的に責めるのは、それは少し虫がいいのではないかということです。当然、何度も繰り返しますが、直接的過失は政府や業界側にあります。しかし、私たち国民は、すべてをお役所任せにせず、安全神話を鵜呑みにせず、もっと原発の安全性について意識を高く持つべきだったのではないでしょうか。過去の事故について、市民レベルで徹底的に検証することもできたはずです。一般市民には見えにくい馴れ合いの癒着構造についても、批判するだけではなく、市民運動を起こして徹底的に追及することもできたはずです。

🎨国会議員が発していた警告
そのような原発の安全性を追及する活動を、過去十数年間にわたり、国会の場で行なってきた議員がいました。共産党の吉井英勝議員です。数多くの質問趣意書を提出したり、予算委員会、経済産業委員会などで繰り返し質問に立ってきました。このことは事故後すぐにニュース等でも取り上げられましたが、改めて、実際にどのような質問がされ、政府によるどのような回答がなされていたのか、以下に3つ例を挙げてみました。

耐震性能の実験施設について
2005年10月31日、吉井議員は「原発の危険から国民の安全を守る事に関する質問趣意書」を提出しています。この質問は、多度津にある耐震性能実験を行っていた工学試験所が閉鎖された件に関してです。この試験所の大型高性能振動台を使って行われていた耐震性能実験は、経済的理由で2005年3月末で終了し、同年9月には試験所は閉鎖されました。質問の要点は、「運用開始後30年たっている老朽原発の巨大地震発生時の安全性の検証は多度津の起振台を使って実証実験を行うことにより、これから解明されていかなければならない問題である」とし、「来年度以降も引き続き多度津の起震台を運用して巨大地震対策に必要な実証実験を行う考えに立つべきではないか」ということでした。

それに対する当時の小泉総理大臣の回答は、「必ずしも多度津の振動台を用いた実物大の試験体による試験を行わなくても、他の研究機関の試験設備による試験、及びその試験結果のコンピューター解析によって、安全上重要な設備の地震時の挙動を把握することが十分に可能である」というものでした。

吉井議員は、その後2006年3月1日の衆議院予算委員会でも多度津の試験所の件を追求しています。建設時には310億円で国の補助金と税金で建設したものが、2億7700万円で売却されていたことを指摘し、「年間僅か10億円のこれを維持する技術屋さんらの給料が、節約しなきゃいけない、行革だといって切ってしまったんですね。しかし、年間一千億近い原発立地地域の三法交付金からすれば、10億ぐらい安いものだと思うんですが」と述べています。しかし、既に施設は売却済みで、手の打ちようがありませんでした。

津波で冷却設備が被害を受ける可能性について
2006年3月1日の衆議院予算委員会で、吉井議員は、地震による津波発生時の冷却機器の作動についても質問しています。発電所に進入してくる高波によって冷却設備が水没する可能性と共に、引き波によって海面が冷却水の取水口より低下し、水が取り込めなくなる可能性を危惧したためです。「すべての原発のそれぞれの取水口の位置と、波が引いたときの海水面の高さが標準水面からいくら下に来ているのかの関係を明らかにして、巨大地震の発生時にも機器の冷却がうまくいくのか、国内のすべての原発について示せ」と迫りました。

それに対する広瀬研吉・原子力保安院長の回答は、「水位が6メートル低下した場合には44基が一時的に下回る」が、取水槽等によりより必要な海水を取水できるよう設計されている、原子炉隔離時冷却系統により原子炉を冷却できる対策が講じられている、と答えています。また、浜岡原発の例では、冷却系に必要な量の海水が取水層に20分間分以上確保されていて、その間に水位が回復するので安全性は確保されている、とも答えています。要するに、冷却設備に問題はないということです。

炉心溶融の際の被曝被害のアセスメントについて
更に、2010年4月9日の衆議院経済産業委員会においては、炉心溶融が起こった場合の想定される放射能の総量と、被曝の及ぶ地域の範囲についての質疑も行なわれました。吉井議員は、「被曝量が7シーベルト以上の地域は何キロの範囲で、そこに住んでいる人口はどれくらいか、(略)、1シーベルトから0.25シーベルトの場合、その範囲はそれぞれ何キロで、居住している人口はいくらかと、きちんとアセスメントを行なっておく。それに対していろいろな対策も考えなきゃいけない」「これは各電力会社にそういう試算を行いなさいという指示を出すことが必要ではないか」と訴えています。

これに対し、直島正行・国務大臣の返答は、「多重防衛でしっかり事故を防いでいく、いわゆるトラブル等があっても、委員が御指摘のようなメルトダウンを起こさない、このための様々な仕組みを作っていくということです」「御指摘の点は、論理的な面で言うとそういうものを検討してみてもいいじゃないかということについては私も論理的には理解できます。(略)今日のところは、吉井先生からの問題指摘ということで受け止めさせていただければと思います」というものでした。同様に、寺坂信昭・原子力保安院長も、多重防護で安全確保をしている、といった答弁に終始しました。要するに、アセスメントは必要ないということで、最悪の事態が起きた場合の被害予測をし、その対策を講じようという姿勢は見られなかったのです。

🎨有権者として目を光らせていなければならないこと
私たち国民の代表である国会議員がそのような立派な議員活動をしていたにもかかわらず、議員の活動や発していた警告を、私はほとんど知りませんでした。そのことを痛烈に反省しています。私を含め、多くの人々が知らなかった、または注意していなかったことは、極めて遺憾なことであり一人一人が重く受け止めなければならないと思います。

もちろん、国会で行われる討論の一部始終を私たちがすべて把握することはなかなか困難です。そのために、報道メディアというものがありますが、大手の新聞でもテレビでも、私が知る限り吉井議員の質問のことを大きく取り上げることはなく、国民に知れ渡ることも波紋を呼ぶこともありませんでした。政府にとって都合が悪いことをわざわざ取り上げたり、問題を掘り起こすようなことはしないのが日本の大手マスコミの傾向ですから、それも無理はありませんが。もちろん、マスコミ報道のすべてが歪んでいるというわけではありませんが、よくよく眼を凝らして見ていくと、誰をどのように批判するか、何をどこまで追及するかは、マスコミのさじ加減一つの場合もあります。いずれにしても、私たちが忘れてはならないのは、マスコミで報道されていること、日々取り上げられていることがすべてではないということです。ニュースに取り上げられず、あまり知られていないけれども、実は国民一人一人にとって重要な案件というのはたくさんあるのです。原発問題は、この落とし穴の中にありました。

本当に大切なことを見逃さないために、私たち市民はもっと目を光らせていなければなりません。私は、「報道されなかったから知りませんでした」では済まされない有権者としての責任が国民一人一人にあると考えています。これは、政府や東電の負っている責任とは異なる種類のものです。例えば、国会の議事録は今では誰でもネット上で簡単に閲覧できます。もちろん、国政の一部始終を一般国民が把握することは難しいでしょう。それに官僚と業界の癒着などという裏舞台のことは、個人の立場で追及することは困難です。

でも、国民の代表である国会議員には、国がやっていることは何かおかしい、と思ったならそれを調査したり国や大臣に直接質問したりできる権限があります。ですから、私たちは有権者として自分たちが選んだ国会議員たちの活動を注意深く見守らなければないのです。にもかかわらず、吉井議員が執拗なほどに追求していた原発の安全性に関する質疑に注意を払ってこなかった私たちには、極めて大きな反省点があることに気付かなければなりません。

🎨日本社会の構造的問題
既に述べましたが、原発の安全性を市民レベルでよく見定める努力を怠り、原発周辺に住んでいないからと人ごとで済ませたり、マスコミで薄められた報道でなんとなく安心してしまっていた国民の無責任・無関心、有権者意識の低さは、結果として、行政の怠慢や過失を招く組織のあり方、利益優先型の官・政・業の癒着を許容してきた、そういう構図がはっきり見えてきました。ここに、日本社会の構造的問題があると私は考えます。

世論調査では、福島原発の事故に対する政府の取り組みに対しては、「まったく評価しない」(23%)と「あまり評価しない」(45%)と合わせ、否定的な回答が68%に上っています(4月18日 毎日新聞)。確かに、事故後の政府や東電の後手後手に回った対応は、誰が見てもあきれます。今の日本のリーダーが危機対応能力に欠けているのは実に不幸なことで、被災している方々の思いを考えると言葉にもなりません。

しかし、だからといってそれだけで菅さんや枝野さんを責めても仕方がありません。現政権を擁護するわけではありませんが、仮にトップの顔を変えたところで、根本的な解決にはならないでしょう。そもそも、今回の人災を起こしたのは、原発推進派の自民党政治家や官僚たちであり、今の民主党政権の人物が直接関わっていたわけではありません。自民党時代の原子力政策を受け継いだだけの菅政権に、このような事態に対応できる準備ができていたはずもありません。もちろん、問われているのは災害・復興への対応や原発事故処理です。どこまでこの根本的な構造的問題をえぐり出し、責任を追及出来るかが問われているわけですが、党内分裂寸前、空前の灯火の政権では、望むべくもないでしょう。既に災害以前から倒壊一歩手前の内閣でした。

しかし、私は、日本の政治をこのような腰抜け、骨抜きなものにしてきてしまった原因は、やはり、私たち国民にその責任の一端があると考えています。先ほどの、日本社会の構造的問題は今しがたはじまったものではありません。戦後の廃墟から立ち上がり、昭和の高度経済成長を遂げ先進国の仲間入りをし、そして人口高齢化と共に新たな問題を抱えた21世紀の日本。しかし、この世紀以上にわたる歩みを経た今、私たちは本当の意味で成熟した社会、公正で人の命が尊重される豊かな社会を実現することはできていません。

社会を構成する様々なより糸が丹念に編みこまれて国家という美しいタペストリーを作り出す代わりに、完成予想図すら描かれないまま、かといって元通り糸を解きほぐすこともできずに未完成な姿を晒しているのが今の日本です。その解きほぐすことが不可能なまでに固く絡まり既成事実化してしまっている編み目、それが、いわば日本社会の構造的問題です。

🎨新たな国のタペストリーを織り成すために
私たちが気付かなくてはいけないことは、この日本社会の構造的問題により、国民自身が不利益を被むるであろう事態は、原発に限らないということです。私たち国民に見えていないだけで、今回のような危険な落とし穴は他にもあるかもしれない、それを危惧しています。まずこの社会の構造的問題に私たち有権者たちが気付き、その上で何をすべきかよく考えて行動し、それが政治に影響を及ぼす力となっていかない限り、この社会構造は変わることはありません。また、それが変わらない限り、何か別の問題が私たちが忘れた頃に別の形で持ち上がり、再び私たち国民の首を絞めることになるでしょう。

政治家・官僚・業界が持つ権力というものは自然になくなることはありません。権力は、それを抑制する力がなければ横行するという、ごく単純な力学です。そして、抑制する力とは、言論の自由、有権者意識の高さ、そして国民の行動力だと考えます。権力の横行を許してきてしまったのは、日本人の、よく言えば善良で辛抱強く、権利を主張するより協調性を重んじる国民性であり、厳しい言い方をすれば、お上にお任せという精神風土であり、国政への無関心や怠慢であり、行動力の欠如であると思います。こうした、少しくらいのことは我慢してしまうお人好しの国民性や、国民の有権者意識の低さほど、権力や財力を温存したい政・官・業にとって好都合なものはなく、日本社会の構造的問題は、この両者の産物といえるでしょう。

今回の原発事故を受けて、私たちは、結局苦しい立場に立たされるのは自分たち、国民の側なのだということを強く認識し直さなければなりません。そして、第二の「フクシマ」を起こさないために、また他のいかなる悲劇によっても自分たちやその子どもの世代を苦しめないために、やはり私たちは、善良なだけれども何もしない無関心な国民から一歩踏み出して、知恵をつけて、行動を起こす国民にならなければならないのです。短絡的に政府を批判するのではなく、まずは一人一人が有権者意識を高め、その責任について認識したうえで、必要とあらば権力と対峙しなければなりません。そのような努力あってこそ、ゆくゆくは本当の意味で豊かな成熟した社会の実現が可能なのではないでしょうか。

私自身、今回の検証を通して、政府に厳しい目を向けるということは、同時に自分にも厳しい目を向けるということであると、痛切に感じています。個人にとっての恩恵の有無だけでなく、国全体にとって恩恵を長期的視野で考え、議論に備えていかなけれればなりません。いざことが起きてからではなく、普段から常に様々な分野にアンテナを張っている必要があります。もちろん一人ではできることではありません。市民の集まり、国民の代表である国会議員などへの支援、政府の仕事を監視するNPOのような機関、ネット上の自由な言論サイトやネットワークといった民間レベルの活動が既に活発に行なわれています。そのような活動に更に多くの人が加わって盛んになり、政治をも動かす力となっていくことが期待されます。そうなっていったときはじめて、固く絡まったより糸の結び目は少しずつ解きほぐされ、同じ糸で再び新たな国のタペストリー−日本の希望ある未来の予想図−を織り直していくことができるのではないでしょうか。
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2011年04月03日

被災者支援の小さな活動 カリフォルニアの小都市から

前回の記事で、海外在住の日本人の思いについて次のように書きました。

災害当初から、私たち在外の日本人もみな心えぐられるような思いでテレビ画面を見つめてきました。現地に飛んでいって被災した人々を助けたい、何かできることはないだろうか・・・そういういても立ってもいられない気持ちは、日本にいる人々と変わりはないと思います。遠くにいるもどかしさに苛まれながら、そして平常の生活を送っていることへの罪悪感と折り合いをつけながら、でも何かせずにはいられずに、支援活動などを始めています。

今回は、その支援活動の様子について、レポートしたいと思います。

🎨義援金集めのヤードセール
記事の主役は、カリフォルニア州某市近郊に住む総勢30人ほどの日本人女性たちです。正式な団体ではなく、普段から子育てや趣味などを通して付き合いのある、年齢不詳、しかし気持ちは年齢よりずっと若い女性たちのカジュアルなグループです。3月11日の地震発生直後、互いに連絡を取り合い、日本にいる家族の安否を確認しあうなど、Eメールでの情報交換が始まりました。そして、僅か2日後の13日、ニュースを見ているだけなんてたまらない、何かの支援がしたい、そんな一人一人の沸騰した思いから飛び出すように、義援金集めのためのヤードセールの計画が立ち上がりました。

アメリカのヤードセールというのは、普通、自宅のガレージや前庭で、不用品や中古品を安く売り出すもので、誰でも気軽に行うことができます。家庭で使わなくなった家具やキッチン用品、子供の本やおもちゃ、古着、雑多なものが並べられます。広告を見て買いに来る人もいれば、通りがかりの人が立ち寄っていくことも。高く売ろうなどと欲張らず、どんどん安く引き取ってもらうのがヤードセールの基本です。売る側は粗大ゴミを出さずにすみ、リサイクルしながら多少なりとも収入が得られますし、買う側にとっては掘り出し物があったり、まだ十分使えるものが激安で手に入るので、一挙両得なのです。

そこで、数人のメンバーが中心となり、合同ヤードセールを開き、その売り上げを日本の被災者支援に寄付する企画が、速やかに練られていきました。

善は急げで、開催日は10日後に決まりです。まずは大事な場所選びです。通常は、自宅で行うのがお決まりのヤードセールですが、今回は大勢の人々に来てもらうため、交通量や人通りの多い場所、駐車スペースがある場所、雨天に備えて屋根がある場所などが必要条件です。始めは、カレッジ・キャンパスや広い公園などでできないかと考えました。メンバーの中には、雨の中、町中の公園を下見に廻ってくれたり、大学のオフィスに問い合わせたり、関係のキリスト教会に協力を打診してくれる人もいました。しかし、私たちが正式なNPOなどの団体ではないこと、公園等公共施設では収益を上げる活動はできないことなどで、ハードルがクリアできません。

結局、場所はグループ内のKさんのご主人が経営する会社のスペースを善意で貸して下さることになりました。広さも駐車場の心配もなく、トイレや控え室もあります。ただ、週末は人通りの少ないオフィス街にあるため、果たして土曜日のヤードセールにどれだけ集客することができるか、それが最大の鍵となりました。ならば、徹底的な広告戦略で行こう!ということに。広告と口コミで広めて被災者支援の目的を持って足を運んでもらうしかありません。

🎨女性たちの底力
一方、企画を盛り上げる様々な案が次々に提案されてゆきます。単なるヤードセールではなく、日本の文化を紹介もかねて手作りのクラフトなども売ったらどうか?買わなくても募金をしてもらえるように募金箱を設置しよう。広告には被災者支援の目的を明記すべし。地震・津波被害の状況を伝えるコーナーを作ってはどうか?募金してくれた方にお礼の和風しおりを渡そう・・・などなど。百戦錬磨の女性たちが20人以上も集まれば、それはそれは、もうたくさんっ!!というくらいのアイデアが湧き出てくるのです。

それから、一週間というもの、Fundraiser and Sale for Tsunami Victims in Japanと銘打った支援活動に、十数名のメンバーが奔走しました。それぞれが得意な分野でリーダーシップを発揮し、適材適所で無理なく、そして和気合い合いと準備は進んで行きました。

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広告のビラを作成してくれた人、新聞等に広告を載せてくれた人、ビラをスーパーやカフェや町中に貼りまわってくれた人、サンプル商品の写真付きオンライン広告を出してくれた人、折り紙の鶴を黙々と折ってくれた人、被災地のマップを作ってくれた人、書道のデモを担当してくれた人、キャノピーやテーブルを提供してくれた人、悪天候の中一日販売をしてくれた人、お金の管理と送金の手続きをしてくれた人、当日これなくても出品してくれた人、セール開催中に奥でベビーシッターをしていてくれた人、売れ残った品を次回のセール用に引き取ってくれた人、差し入れのおにぎりや温かいお茶を用意してくれた人、その他ここに書ききれない細かい詰めを、人知れず陰でやってくれた人・・・。

そればかりではありません。女性たちが、日常の仕事や家事や子供たちのために時間が費やせない分を補うように、それぞれの夫や家族が応援・協力してくれました。シャイなご主人も、実は目立ちたがりのご主人も、日本語がペラペラのご主人もそうでないご主人も、企画のアドバイス、商品の運搬などを手伝ってくれ、実に頼もしい限りです。

🎨思いと行動の結晶
当日は、朝から雨。気温も低く、予想されていたとはいえ、ヤードセールにはとてもアンラッキーな天候となってしまいました。準備は朝7時過ぎから始まりました。商品が濡れないようにシートで覆ったり、風で飛ばされないように固定したり、余計に注意を払わなくてはなりません。売り場スペースは約3メートル四方のブース4つ分。大量に集められた品物・商品で、ブースは埋め尽くされます。商品は、1ドル以下の小物から、100ドル以上のものまで様々。始めは客足は鈍かったものの、日が高くなるにつ入れて訪れる人々は続々と増え、数人の売り子さんで各ブースをカバーするのにてんてこ舞となりました。

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通常のヤードセールの常連タさんイプではなく、明らかに広告を見てきてくれた、被災者支援に協力する意思を持ってきてくださった方が大部分です。日本の文化に関心を持っている人もいて、和風のクラフトやアートなどがとても好評でした。お客さんのなかには、商品を買ってくれて、そのうえ寄付をしてくれる方もいました。ただ、黙って大口の小切手を寄付をして下さる方もいました。

私たちの小さな活動は、雨天の中詰めかけて下さった多くのアメリカの方々のお陰で素晴らしい成果を上げることができました。ちりも積もれば・・・とはまさにこのことです。売り上げと寄付をすべて合わせて、合計計5685.46ドルとなりました。私たちの予想をはるかに超えた金額です。著名な方々の募金に比べたら取るに足らない額かも知れませんが、これは「海外に住む私たち日本人一人一人の思い」を行動に移したその結晶です。金額もさることながら、アメリカの皆さんの、被災した方々への励まし、「少しでも支援したい」という温かい心を、私たちは直に感じることができました。そしてそれは必ずや、被災地の人々の心に届いてくれるに違いないと願っています。

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🎨義援金の送り先
今回集まった義援金は、すべてサンフランシスコ日本領事館領事宛に送られました。領事館では、受け取った義捐金をすべて日本赤十字社に送金するとしています。

日本赤十字社のHPには以下のように書かれています。

日本赤十字社では、今回の震災の被害が甚大かつ広範囲に及んでいることから、被災された方々への義援金を受け付けております。この義援金は、今後、被災県で設置される義援金配分委員会に全額が送金され、同委員会で定める配分基準により、被災された方々に届けられます。日本赤十字社では、少しでも早くこの配分委員会が設置され配分が開始されますよう国や関係自治体に要請しています。

つまり、災害義援金は、日本赤十字社の一般事業への寄付金とは分けられており、その用途も異なるということです。集められた義援金はすべて義援金配分委員会(被災自治体、日本赤十字社、報道機関などで構成される第三者機関)へ一括して集められ、そこで配分基準を作成し、被災された方々へ現金で配られるということです。

🎨義援金の配分について
ところで、義援金は被災者の方々に、どのくらいどのように配分されるのでしょうか?
参考までに、阪神淡路大震災の時の記録を見てみました。報道機関(NHKなど)、企業の共同募金、日赤などを通じて寄せられた義援金は、1996年4月5日現在で、総額1759億5000万円でした。これはすべて、「兵庫県南部地震災害義援金募集委員会」(兵庫県,大阪府,神戸市,兵庫県市長会,兵庫県町村会,日本赤十字社兵庫県支部,兵庫県共同募金会等26機関で構成)に託され、その決定により、被災者へ配分されています。配分額は次の通りです(平成8年版 厚生白書より)。

• 死亡者・行方不明者見舞金・・・10万円
• 重傷者見舞金・・・5万円
• 住宅全・半壊・・・10万円
• 被災児助成金・・・1〜5万円
• 住宅助成金・・・30万円
• 被災児特別教育資金(両親を失った遺児)・・・100万円

1億8千万円という多額の義援金(分子)が集まったのですが、住宅全・半壊で義援金を受け取った人だけで44万5千人にもなるなど、被災者数(分母)も大きく、従って、一人当たりの配分額は10万円程度となっています。最高額を受け取ったのは、父母共に死亡した災害遺児で100万円です。100万円では、これからの生活や教育のほんの僅かな足しにしかなりませんが、遺児たちの将来のために最高額が配分されたことを嬉しく思います。

今回の東北関東大震災では、被害地域も死者・行方不明者の数も阪神淡路大震災よりはるかに大きくなっています。義援金の受け取り手である被災者数(分母)は過去に例のないものとなることが予想されています。

政府は、今回の震災の直接被害額を16〜25兆円と試算しているようですが、福島原発の問題を含めれば、さらに経済被害額は拡大するでしょう。その中で、義援金を送ることは、民間レベル、個人レベルでできる最大の支援の一つであることは間違いありません。

日赤によると、1995年の阪神淡路大震災では、1月17日の発生から2週間後の1月31日までに164億577万円、3月31日までに892億2310万円が集まりました。今回の東北関東大震災では、3月29日までに594億と、阪神淡路大震災時を大きく上回るペースで義援金が寄せられているようです(日赤HPより、日本国内のみ集計)。

日本中、世界中の人々からの温かい心と励ましと共に寄せられている多くの義援金が、より速やかに、効率よく配分され、被災された方々の少しでも大きな支えとなってくれることを願っています。

posted by Oceanlove at 06:07| 震災関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月29日

福島原発−海外在住の日本人の思い

前回の記事「福島原発−国家的危機に私たちがしなければならないこと」の中で、

・原子炉で核燃料溶融が進むと、放射能の広域汚染の可能性が否定できないこと
・放射線量の検出では、毎日の測定値は極微量でも、長期間の被曝が健康に及ぼす影響を考えるべき


という趣旨の記事を書きました。それに対し、

「(人々が)どのくらい怖がっているか、来てみないと分からない」
「こういった情報には非常にナーヴァスになっている」
「地獄へ落とされる気持の人もいる」

というご批判をいただきました。

私はアメリカ在住です。確かに、私の記事は、放射能の脅威のない場所にいながら、人事のように書いたと受け取られても仕方がないかもしれません。日本国内では、原発事故に関してニュースや週刊誌などで憶測や恐怖を煽り立てるような情報が飛び交い、人々は大きな不安に駆られています。記事では、既に多くの人々が不安に思っておられることを、無神経に繰り返すような形にもなってしまいました。気分を害された方、更に落ち込んでしまわれた方々にお詫びを申し上げます。ブログの記事に寄せていただいたご意見、ご批判は、全て謙虚に受け止めてまいります。


さて、前回の記事の中に次のように書いた部分があります。

私たちは国家的危機に直面しています。(中略)私たちは政府の情報を鵜呑みにして行動するわけにはいきません。かといって、いったい事実はどうなっているのか、何が正しいのか、判断するのは難しい状態です。自ら、自分や家族、周りの状況を考えて、重大な判断をするべきかもしれません。(中略)取り返しのつかないことになってからでは、いくら政府を責めても無駄です。一人一人が、己の信念に基づいて覚悟を決めなければならない事態になっているのかもしれません。

この部分について、言葉が足りず、真意が伝えられなかったように思います。今回、ここで補足させていただき、このようなことを書いた私の心境について書かせていただこうと思います。


🎨海外在住の日本人の思い
震災が起きてから、私たち在外の日本人もみな心えぐられるような思いでテレビ画面を見つめてきました。現地に飛んでいって被災した人々を助けたい、何かできることがあれば・・・そういういても立ってもいられない気持ちは、日本にいる人々と変わりはないと思います。

こちら(アメリカ)にいる日本人同士、連絡を取り合い、日本にいる家族の安否を確認しあい、情報交換をしてきました。遠くにいるもどかしさに苛まれながら、そして平常の生活を送っていることへの罪悪感と折り合いをつけながら、でも何かせずにはいられずに、支援活動などを始めています。

原発の懸念が高まったとき、ある友人から「ご両親を呼寄せたら・・・」というメールをいただきました。こちらの日本人はみな一度は同じことを考えたと思います。私も両親に一度だけ、こちらへ避難したらどうかと話をしました。でも、予想通り、両親はそういうわけもいかないよ、と言葉を濁しました。説得を試みることもできたかもしれませんが、両親の答えは分かっていましたのでそれ以上何も言いませんでした。

長年住んだ土地、家族、高齢の兄弟姉妹たち、大切な友人たち、そんな周りの人々をおいて、自分たちだけアメリカになど絶対にくることはないと、分かっていました。困難な事態になったとしても、それが両親の選択であり、私などが言うまでもなく、彼らなりの覚悟を決めているということです。その上で、両親は祈り続けているといっていました。二人とも、断食までしました。

もし、私たちが日本にいたらどうしていただろうか、あるいはもしアメリカの私たちの近くで原発事故など同様の事態が起きたらどうするだろうかと、考えました。当然、より正確な情報をつかもうとするでしょう。あらゆる事態を想定するでしょう。でも、政府や原発専門家がなんと言おうと、いくら情報を集めて分析しようと、一般市民の私たちにはすべてを把握できる術はありません。100%頼りになるものなんて何もない中で、いったい自分はどのような選択をするでしょうか?

万が一を考えて、避難ができるならするかもしれませんし、子供たちだけでも安全な場所へ送るかもしれません。いえ、そんな「選択」することさえできずに、なるようにしかならない、という状況におかれるかもしれません。誰にとっても、これが正解というのはなく、最終的には、心鎮めて、自分と家族で決めたことを信じて、覚悟を決めるしかないのではないでしょうか。「自ら、自分や家族、周りの状況を考えて、重大な判断をするべきかもしれない」「一人一人が、己の信念に基づいて覚悟を決めなければならない」と書いたのはこういうことです。

もちろん、覚悟を決めるというのは、諦めるということではありません。それぞれのおかれた場で困難に立ち向かう決意をするということです。最悪の事態が避けられても、困難な事態は続くでしょう。被災した人々への支援、日本全体の復興、原発問題、将来のエネルギー問題、それには、人々が英知を働かせて、立ち向かっていかなければなりません。

それならば、私はここにいて、私にできることをするほかはないと思いました。このブログで、情報を発信することも一つ、被災者支援のための募金活動などもその一つです。また、日本の両親の選択を尊重し、私なりに受け止めなければなりません。それも、受動的ではありますが私にできる選択です。

そして私も、心を合わせて懸命に祈ります。私は、放射線の脅威にこそ晒されてはいません。でも、どこに在住していようと、私は日本人です。在外の日本人の多くが皆そうであるように、遠くにいるからこそ、日本を思う気持ち、故郷を愛する思いは人一倍持っていると自負しています。遠く離れていようとも、いかなる立場にいようとも、人々の力を信じて、日本の復興を信じて、自分にできる行動をするだけなのだと、改めて思っています。


posted by Oceanlove at 05:34| 震災関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月22日

福島原発−国家的危機に私たちがしなければならないこと

日本中を、そして世界中を悲しみに包んだ東北関東大震災。犠牲者の方々に心からお悔やみを申し上げるると共に、被災されている方々に一日も早い支援の手が差し伸べられますことを心より願うばかりです。

福島第一原発は、予断を許さない状況が続いています。様々な情報が錯綜し、政府や電力の会見では、いったいどこまで明らかにされているのか、実際には何が起きていて、今後どんな状況になる可能性があるのか、私たちには知る良しもありません。ここに、分かる範囲で調べたことを記録しておきます。そして、私たちにできること、しなければならないことを考えました。

🎨原子炉で何が起きているか?
今後の懸念の一つは、燃料ウランが溶融して再臨界(再び核分裂を行う熱量レベル)に達してしまう可能性がどれくらいかということです。炉心温度が高まり燃料を覆っている被覆管が破損し、燃料ペレットがおちてきて集積して底に溜まった時の形状が、一定条件下(臨界量以上の塊となり、周りを飛び回っている中性子が壁に反射したりして核連鎖反応を引き起こすなど)で、再臨界に達する可能性は、否定できないようです。

二つ目は、再臨界に達しないとしても、燃料が溶融し圧力容器を破損して外部に漏れることはないかということです。1・2・3号機では、原子炉内部の温度がどれくらいなのか不明です。燃料を覆っているジルコニウムという金属は500度で水蒸気と反応し水素を発生し始めます。そして、1200度でジルコニウムが溶け、それが圧力容器や格納容器を破損し、外部の水分と反応して水蒸気爆発を起こし、それが放射線を大量に拡散する可能性があるのです。

三つ目は、放射性物質をどこまで閉じ込めておくことができるかです。既に、水素爆発や圧力を下げるための措置で放射性物質を含んだ蒸気が外部に漏れています。格納容器の耐圧は4−8気圧、内側の核燃料が入っている圧力容器は80気圧にも耐えられるといわれています。しかし、上記の再臨界や燃料の溶融による破損、水蒸気爆発が起きれば、放射性物質をここに閉じ込めておくことはできなくなり、放射能汚染が広域に広がります。

🎨海水注入や放水による冷却は正しいか?
現段階で一番の懸念は、3号機の使用済み核燃料プールの水位が低下して温度が上がっていることです。ここにヘリで散水したり、高圧放水車で水をかけたりしている模様ですが、必ずしも最善の対処ではないとの懸念もあります。高温状態の燃料棒に急に水をかけると、台所で空焚きしたところへ水をかけるとジュッと水蒸気が飛び散るように、水蒸気の圧力で燃料棒が崩れる可能性があるのです。燃料棒が崩れて底に溜まるようなことにあると再臨界の可能性が出てきます。

東電は、電力の供給停止により冷却システムを稼動することができなかったため、当初から海水の注入を始めました。冷却が必要だということで海水を使ったわけですが、そもそもこれが大きな間違いだと指摘もあります(参照)。高熱の炉心に海水をむやみにかければ、水蒸気が発生し、その後に残るものは塩です。かければかけるだけ塩が溜まり、そこには水が流れなくなり冷却はできなくなるというのです。

今回の原発事故の発端は、冷却装置、非常用発電機とその燃料タンクが津波でさらわれてしまったことです。つまり、安全の命綱である冷却システムを、津波で洗われるような場所に、すべて設置してあったことが問題だったのではないでしょうか。地震と津波に襲われる頻度の高い日本の原発で、100%事故が回避できる設計になっていなかったことは、今後大きな責任問題となっていくでしょう。

政府や東電の会見では、日本の原発は、チェルノブイリの原発とは、原子炉の設計が全く異なるので、心配はないと言い続けています。確かに、炉の設計についてはそうでした。が、冷却が進行せず、放射性物質を完全に閉じ込められていない状態、燃料の溶融や再臨界が起こりうる予断を許さない今の状態は、チェルノブイリが起きる可能性がまだあるということです。在日外国人が出国を始めました。各国大使館が、国民の帰国を勧めているのはその危険性のためです。アメリカでは福島第一原発から半径80キロ圏内の国民に避難指示が出て、横須賀の米軍基地の家族を帰国させています。

その可能性について、日本政府は確かな事実を伝えていないのではないかという不安の声が沸きあがっています。しかし、いずれにしても、現場の正確な状況や数値が把握できていないことにより、100%予測することは困難であるというのも事実のようです。

🎨放射線量の検出について
現在、各地の放射線量が一時間おきに測定され、発表されています。ニュース報道では、観測されている放射線は健康に害のないレベルだと繰り返し言われています。例えば、18日、比較的高い数値の見られる茨城県では毎時1.03μシーベルト、都心では毎時0.05μシーベルトなどとなっていました。これは極微量で、これだけでは人体に影響の出る値ではありません。

でも、気をつけなければならないのは、これは一時間あたりに出ている値です。被曝は、放射線を浴びた総量、蓄積量です。もし、日常的に1.0μシーベルトの放射線のある環境で一年間生活するとしたら、単純計算で24時間x365日=8760倍、8.76シーベルトが蓄積されます。一年間に、自然に浴びて害なしとされている放射線量は1〜2ミリシーベルトですから、既にこの4〜8倍です。

18日に原発から30キロの地点では150μシーベルトが記録されていました。その場所に居続ければ、24時間で3.6ミリシーベルト、2ヶ月近くで200ミリシーベルトを越えます。200ミリシーベルトは、人体に危険なレベルです。200ミリシーベルト以上の被曝については、被曝線量と発ガンの確率が「比例」していることが分かっています。

ニュースでは、人の衣服の周りをカウンターのようなもので測定している画像が出ますが、これはその時に衣服についている放射性物質の量を図っているだけで、本人がどのくらい被曝したかということとは無関係です。

また、皮膚を通した体外被曝だけでなく、呼吸や経口で体内に取り込まれた放射性物質による「体内被曝」もあります。衣服や皮膚についた放射性物質は、洗い落としたり除去することも可能ですが、体内被曝は放射性物質が体内にある限り続きます。

🎨私たちにできること、しなければならないこと
私たちは国家的危機に直面しています。日本政府にできることには限度があり、その対応は私たちを安心させてくれるものではありません。私たちは政府の情報を鵜呑みにして行動するわけにはいきません。かといって、いったい事実はどうなっているのか、何が正しいのか、判断するのは難しい状態です。自ら、自分や家族、周りの状況を考えて、重大な判断をするべきかもしれません。

自力で避難できる人もいるでしょうし、避難したくても様々な事情でできない人もいるでしょう。自分さえよければいいなどとは思えない、だからここに留まる、そういう考え方もあるでしょう。取り返しのつかないことになってからでは、いくら政府を責めても無駄です。一人一人が、己の信念に基づいて覚悟を決めなければならない事態になっているのかもしれません。

福島原発に関して、今の時点で私たちにできるのは、臨界が起こらないこと、チェルノブイリのような広域放射能汚染が起きないことを祈ることくらいです。現状維持でいてくれれば、電力が回復すれば炉心冷却が進むかもしれません。それでも、爆発でいろんな部分が破損したり、強い放射線のために作業は困難を極めるでしょう。いずれにしても数年かけて炉心の熱が下がっていくのを待つしかありません。

しかし、今、そしてこれから、私たちが日本人として真剣に考えなければならないことはたくさんあります。今後、福島県一帯は、大気・土地・海洋の放射能汚染で、居住も農業漁業などの経済活動も長い年月できない恐れがあります。福島の人々の避難生活、将来のすべてのことは彼らだけの問題ではありません。そのことについて、私たちはどう長期的に対処し、助け合い、この地域のそして日本全体の復興に取り組めばよいのか、考えなければなりません。また、政府が放射能汚染地域と被害をこうむった人々に、政府としてどのような決断と対処をしていくか見守り、声を上げていかなければなりません。そして、もっとも重大なことは、原子力発電の安全性の検証をすること、将来の日本のエネルギー問題について、一人一人が真剣に考え、議論に備えていかなければなければならないということです

現在も、決死の覚悟で冷却作業を行い、電気システムの復旧作業をされている技術者、自衛隊、消防隊、警察官らのすべての関係者の安全と健康被害が最小限にとどめられるように、そして彼らの努力が報われ、原発が一刻も早くコントロール下に置かれるよう、心から祈るのみです。
posted by Oceanlove at 06:59| 震災関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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