2015年02月01日

日本がテロの標的にならないために何をすべきか

邦人2名がイスラム国(ISIL)に拘束され殺害や脅迫を受けるという悲痛な事件が進行中である。イスラム過激派組織によるテロが日本や日本人の身に及ぶ事態が現実となってしまった。今は、日本政府に邦人救出に全力を尽くすことを望み、事態の好転を祈るばかりである。

この件がどのような形で進行するにせよ、今後、日本がどのような姿勢でテロ対策に臨むのか、日本がテロの標的とならないために何をすべきか、これは極めて重要な火急の議論である。

読売新聞は、日本政府がテロ警戒レベルを上げたことを受けて、理由を以下のように解説している。(128日 読売新聞)

「今回の事件をきっかけに日本人がテロリストにとって宣伝効果や利用価値の大きい格好の標的に浮上した恐れがあるためだ」

「日本は中東から遠く、軍事作戦にも加わっていないことから、これまでは比較的、過激派などの攻撃の対象にはなりにくいとされてきた。しかし、今回の事件では、欧米や中東諸国の首脳級が相次いで遺憾の意を表明したほか、日本だけでなく、各国メディアでも大きく取り上げられるなど、国際的な関心事になった。日本がイスラム国対策で多額の経済協力を行っていることや、日本人に危害を加えても軍事作戦などの報復を受ける恐れがないことも知れ渡った。」

これらは的を得た指摘だ。つまり、日本がイスラム国の敵であることがより鮮明になったために、テロの標的にされる確率はより高まったということだ。

日本がテロの標的とならないために何をすべきか。それは、テロと隣り合わせの国際情勢の中で、日本がどの様な理念と覚悟を持った国家として歩んでいくのかという重い選択でもある。その選択の手がかりとなるものが、パリで起きた銃撃事件の背景と「表現の自由」を掲げた30万人大行進の意義を考察することによって浮かび上がってきた。

今回の記事は、以下のテーマに沿って書き綴っていく。

1) シャルリ社銃撃事件と「表現の自由」の大行進

2) アラブ諸国に強いられた不正義と苦悩

3) 大行進によってより鮮明になった「反欧米」vs「欧米至上主義」

4) 日本のとる道は、挑発と暴力の応酬に参加しない道

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posted by Oceanlove at 07:18| 世界情勢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月19日

南アフリカの民主化とF.W.デクラークの功績 その(3)

この記事は、

南アフリカの民主化とF.W.デクラークの功績 その(1)
南アフリカの民主化とF.W.デクラークの功績 その(2)


の続きです。

アートデクラークの決断

南アフリカ共和国元大統領フィレデリック・W・デクラークは、後にこう語っている。

「(隔離政策に)このまま永久にしがみついているわけにはいかない。武力闘争に勝者はいない。私が決断すべきことは、パラダイム(一時代の支配的な考え方や方法論)を変更するか否かということであった。そして、私はその決断をしたのだ。」

デクラークのバックグラウンドからは、彼がアパルトヘイト撤廃を決断する大統領になるなどと誰が想像できただろうか。前述したとおり、デクラークはかつては隔離政策の信奉者であり、「(黒人と白人の)それぞれの発展」もしくは「異なる二国家の成立」を支持していた。デクラークの出身地トランスバール州は保守的な地盤であり、彼は所属するNational Party(国民党)の中でも保守派である。デクラークが有力者であることは間違いなかったが、改革者というではなかった。

しかし、80年代前半には、デクラークはすでに気づいていたという。「それぞれが発展」するには南アの白人社会と黒人社会は相互に依存し過ぎていたこと、白人たちはあまりに多くの利権を手放そうとしていないこと、そして、アパルトヘイトに国の将来がないことに。しかしその彼も行動を起こすまで、彼自身が権力のトップに立つ1989年まで待たねばならなかった。
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posted by Oceanlove at 05:41| 世界情勢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月13日

南アフリカの民主化とF.W.デクラークの功績 その(2)

この記事は、前回「南アフリカの民主化とF.W.デクラークの功績 その(1)」の続きです。

アートアパルトヘイト撤廃はなぜここまで遅れたのか?

80年代に入ると、アパルトヘイト政策を取り続ける南アフリカへの国際社会の非難の視線は一段と厳しくなった。経済制裁も課され、南ア経済は大きな打撃を受けた。しかし、これだけ世界から孤立しながら、なぜもっと早く、アパルトヘイトは撤廃されなかったのか。なぜ1990年まで遅れたのだろうか。

その理由は、80年代の世界情勢−「東西冷戦」および「アフリカ諸国のヨーロッパ植民地支配からの独立−が色濃く関係している。

1975年、南アの北隣のさらに北隣の国アンゴラでは、14年にわたる独立戦争を経てポルトガルによる植民地支配が終焉を迎えていた。しかし独立後、社会主義を掲げて政権を握ったMPLA(People’s Movement for the Liberation of Angola)に対し、共に独立戦争を戦った反政府組織(UNITA:National Union for the Total Independence of Angola、およびFNLA:Nation Liberation Front of Angola)が対立し、1975年から2002年に及ぶ内戦に突入した。  

このアンゴラ内戦は、旧ソ連をはじめとする社会・共産主義国がMPLAを、そしてアメリカ・南ア・イギリスがUNITAを支援する形の米ソ冷戦の典型的な代理戦争の一つとなった。27年間に及ぶ内戦の末、西側が支援したUNITAは破れ、今日までMPLAによる政権維持が続いている。しかし、内戦により国は疲弊し、アンゴラはいまだに世界最貧国の一つだ。(Angolan Civil War)
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posted by Oceanlove at 15:39| 世界情勢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月01日

南アフリカの民主化とF.W.デクラークの功績 その(1)

ネルソン・マンデラが亡くなったのは昨年の12月5日のことだった。マンデラの偉業については知らない者はいないだろう。南アフリカのアフリカ民族会議 (ANC:African National Congress) のリーダーとして人種隔離政策(アパルトヘイト)の撤廃運動を戦い、27年間の獄中生活を送った後に釈放された。1991年にアパルトヘイトは撤廃され、1994年に南アで初めて行われた民主選挙により大統領に就任、翌1995年にはノーベル平和賞を受賞した。

人種差別という不正義を正すために不屈の精神で戦い、獄中での精神的・肉体的な苦痛に耐え、しかも、釈放された後には、自らを苦しめた相手との対話により、真の和解と国の発展のために尽力した。まさに、全ての人が敬愛し学ぶべき偉大な指導者であった。

しかし、今回のブログで取り上げたい人物は、アパルトヘイト撤廃と南アフリカ民主化のもう一人の立役者であり、マンデラと共にノーベル平和賞を受賞した南アフリカ共和国元大統領、フィレデリック・W・デクラークである。マンデラの栄光の輝かしさのお陰でやや印象が薄いが、デクラークの功績がなければ今のマンデラはいない。(写真:フレデリック・W・デクラークとネルソン・マンデラ。1992年ダボス世界経済会議にて。Wikipedia より)

Frederik_de_Klerk_with_Nelson_Mandela_-_World_Economic_Forum_Annual_Meeting_Davos_1992.jpg


デクラークこそ、マンデラを釈放した人物であり、南アフリカの政治の中枢にいながらアパルトヘイト撤廃を指揮した人物である。マンデラが虐げられる黒人側から立ち上がった勇者なら、デクラークは虐げる白人支配層のトップに立っていた人間だ。南アで民主主義への体制移行が、流血や内戦の泥沼に陥ることなく行なわれることを可能にした最大の理由は、権力側自らが変わる決断をしたことにある(ただし、流血の惨事や虐殺もアパルトヘイト廃絶への長い壮絶な道のりの中で多数起きている。それは後に述べるが、ここでは1990年代の体制移行時について言及した)。

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posted by Oceanlove at 05:44| 世界情勢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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