2012年03月23日

米共和党予備選−ロン・ポールの目指す医療政策

前回の記事、米共和党予備選とオバマ・ケアの行方で、アメリカの直面する医療問題とオバマ・ケア、共和党を中心とするオバマ・ケア撤廃の動き、そして各共和党予備選候補者の医療政策を見てきました。さて、ではもう一人の候補者、このブログで数回にわたり注目してきたロン・ポール氏は、どのような医療政策を掲げているのでしょうか?

ポール氏もオバマ・ケアを撤廃すべきと考えています。「オバマ・ケアは絵に描いた餅である」点も、「オバマ・ケアは合衆国憲法違反である」点も、そこまでは他の3人の候補者と同様の意見です。しかし、ポール氏の主張をさらに掘り下げてみていくと、他の候補者たちと最終目標が根本的に異なることが分かります。ポール氏の最終目標は、メディケア、メディケイドを含めた全ての公的医療保険制度とマネージドケア医療(後に説明します)の廃止、政府による様々な医療の認可制度の廃止、そして医療の完全民営化です。この、かなり大胆な、非現実的とも思われる政策の裏にはいったいどんな考えがあるのでしょうか?

ポール氏は、周知の通り、産婦人科の医師として4000人を超える赤ちゃんの誕生に立ち会ってきました。命は、受精の瞬間に誕生するというPro-Lifeの考え方を持ち続け、何よりも命を大切にし、一人ひとりの患者に最良の医療を提供することを目指してきました。そんな、ドクター・ポールだからこそ、どんな医療改革を行い、どんな医療を目指そうとしているのか、その大胆な訴えに耳を傾ける価値があると思うのです。まず、ポール氏の選挙キャンペーンのウエブ上に載せられた文章を見てみましょう(参照)。
“DO NO HARM”
Dr. Ron Paul spent his entire career in the medical profession working to uphold this simple principle by ensuring his patients received the best care he could give them, even if they could not afford it.Dr. Paul understands the key to effective and efficient medical care is the doctor-patient relationship. 

Yet, federal bureaucrats continue to believe that their one-size-fits-all policies will lower costs, increase access, and cure an ailing industry.
Instead, excessive regulation, immoral mandates, and short-sighted incentives have created a system where no one is happy, doctors pass quickly from one patient to the next, insurance is expensive to get and difficult to maintain, and politicians place corporate interests ahead of their constituents.

「害することなかれ」

ポール博士は、医師としてのキャリアを通しこの基本的な教えを守り、全ての患者に、たとえ支払いが困難な患者に対しても、最良の治療を提供することを志してきました。ポール博士は、効果のある効率的な医療のカギは、医師と患者の人間関係であると考えています。かたや政府は、全ての人を一律のルールに当てはめて医療を提供する政策が医療コストを下げ、より多くの人に医療を提供でき、この病んだアメリカの医療を改善できると考えています。

ところが、その医療政策は、規則でがんじがらめになり、良心に反する義務が押し付けられ(筆者注:これについては後に説明します)、目の前の利益ばかり追求する医療システムを作り出しました。そして、このシステムの中では、誰も安心して医療を受けられず、医師は患者とじっくり向き合う余裕はなく、医療保険は高額で加入できず、政治家たちは国民の利益よりも大企業の利益を優先させているのです。(筆者仮訳)

First Do No Harm”は、ご存知古代ギリシャのヒポクラテスの誓いに由来するフレーズで、「何よりも害をなすなかれ」、つまり「患者に利する治療を行い、害となる治療はしない」という意味です。医学の道を志す医学生たちがまず始めに学ぶ基本的な姿勢であると言われています。
ポール氏は、現在のアメリカにおける医療は、コスト抑制を重視した管理型医療であると同時に、特定の利益集団によって政策が決定され、医療を提供するものの基本姿勢である“Do No Harm”に反する歪んだものであると主張しているのです。そこへ、オバマケアの導入により全ての国民に医療保険への加入を義務化しても、医療の改善に繋がるどころか、この病んだ医療システムをさらに悪化させるだけだというのです。

このポール氏の主張を、

1)
マネージドケアの功罪
2) 医療を取り巻く、政・官・業の三角関係

の2つの観点から、2回にわたり解説していきます。

1)マネージドケアの功罪

アートマネージドケア医療とは

近年、アメリカの医療は、基本的にマネージドケアと呼ばれる管理型医療システムで成り立っています。そのシステムを担っているのが、HMOHealth Maintenance Organization)に代表されるマネージドケア組織です。

HMOとは、医療保険会社が、提携する病院や医師たちをひとつのネットワークに取り込んだ会員制医療組織です。このマネージドケア組織は、治療内容や保険適用に関する独自のガイドラインをつくり、加入者に対し、比較的低額な保険料で医療サービスを提供しています。マネージドケア組織には、全米に550を超えるHMO組織(加入者数およそ5600万人)の他、PPOやPOSという組織が存在します(PPO、POSについては後に説明)。

アメリカで民間の医療保険に加入するということは、このHMOなどのマネージド組織が提供する医療保険プランに加入するということを指します。加入者は、選んだプランに応じて保険料を支払い、実際に医療にかかるときには、加入している医療保険プランが指定するネットワーク内の病院のプライマリーケア・ドクター(家庭医)に診療を受ける形になります。熱を出しても外傷を負っても、とりあえず家庭医が診療し、そこで対応できるものは対応します。さらなる治療や専門医による診療が必要な場合は、紹介を受けてこれまたネットワーク内の指定の専門医に行くことになります。

つまり、まずは家庭医でふるいにかけ、高額な医療費のかかる専門医にいく患者の数を制限することで、全体の医療コスト(保険会社が支払う診療報酬)を抑える仕組みとなっています。このマネージドケア医療の仕組みは、1973年にHMO法(Health Maintenance Organization Act)により、従業員25人以上の企業に対しHMOへの加入を義務づけた頃から広まっていきました。

マネージドケア医療の大きな特徴として、医療費の定額払い制があります。アメリカ政府は、レーガン政権時代の1982年、医療費の抑制を目的として、医療保険制度をそれまでの出来高払いから定額払いへと転換してゆきました。出来高払い制においては、保険に加入している患者は自由に医師や病院を選ぶことができ、(保険会社のガイドラインに沿ってではなく)医師の判断で治療が行われます。患者は自己負担額を払い、残りは医療保険から支払われるしくみです。日本の医療は従来は出来高払い制でしたが、最近では定額払いも導入されてきているようです。

しかし、この出来高払い制には、高齢化や医療の高度化に伴って医療費が膨張してしまうという弱点があります。80年代のアメリカは、医療費の高騰が進み、メディケアへの財政支出額が、1965年のメディケア制度発足から17年間で当初の60倍に跳ね上がるという事態に直面していました。また民間保険会社も医療機関への支払いがかさむ分を保険料として上乗せするので、保険料は次第に高額化し、高騰していったのです。

一方、定額払いによる医療保険制度は、マネージドケア医療の中核となる仕組みです。保険会社によって、あらかじめ疾患ごとに治療内容、医療費の支払い上限、入院日数などのガイドラインが細かく定められ、治療はそのガイドラインにしたがって行われ、それに対して定額の医療保険が支払われます。ガイドラインに定められた以上の治療に対しては医療保険は支払われなかったり、患者の自己負担や医療機関の損失になったりします。したがって、医師は治療に関する判断を自由に行うことはできず、ガイドライン内で治療を収めることが奨励されるわけです。定額払い制のマネージドケア医療は、医療費を抑制することに貢献し、80年代後半から90年代にかけて急速に拡大していきました。

ちなみに、今日、マネージドケア組織にはHMOをはじめ、PPOPreferred Provider Organization)、POSPoint of Service)という3つのタイプが存在します。比較的保険料が低額で自己負担額も少ないHMOでは、このガイドラインがより厳しく、患者の治療に関する選択の自由は著しく制限されています。一方、PPOは保険料は割高になりますが、HMOに比べて制限は緩やかで、家庭医を通さず専門医に直接行くことができますし、ネットワーク以外の病院や医師にかかる場合も保険が利きます。ただし、その場合には自己負担率が著しく増え、もともとの保険料が高額なので経済的に余裕がなければ加入できません。POSHMOPPOの中間タイプの保険プランです。

アートマネージドケアの弊害

マネージドケアは、医療コストを抑えた効率性の高い医療である一方で、様々な問題点も指摘されてきました。

まず、
保険のプランや払う保険料によって、患者が医療機関や医師を選択する権利、受けられる治療やサービスが制限されます。病気の治療内容や処方薬などに関する決定も、もはや患者と医師が主体的に行うことはできず、第三者である保険会社によってそのガイドラインが決定されていくことになります。コスト管理が優先され、医師が患者にとって本当に必要と思う治療が必ずしも提供できないという不満や批判が生まれてきました。

公的医療保険であるメディケアやメディケイドも例外ではありません。民間のマネージドケア組織がガイドラインを定めるのと同じように、メディケアなどの場合はHHS(米保健社会福祉省)が医療サービスのガイドラインを作成し、診療報酬を決定します。すでに述べたように、メディケアなどへの支出増加で連邦予算は逼迫していますから、政府としてはガイドラインを厳しくし、いかに医療コストを抑制するかに躍起になっています。

そんな、マネージドケア医療のあり方は、医療の現場に様々なひずみを生んでいます。例えばこんな事例があります。

ある病院で、患者のより早期の完全な回復を助けるため、抗生物質の投与の仕方や服用期間を含む規定を変えたことろ、病院の経営は著しく悪化していきました。調べてみるとその原因は、診療報酬の支払い規定にかかわっていたのです。メディケアに加入している患者が肺炎にかかり人工呼吸器を使用した場合には、メディケアからの診療報酬は実際にかかった治療費に800ドル加算され、同じ患者が肺炎にかからず短期間の診療ですんだ場合には、メディケアからの支払いは実際の治療費より逆に800ドル少なかったのです。患者にとって利益となる診療をしたにもかかわらず、病院は経営不振となってしまった、つまりメディケアの支払いのガイドラインは、患者が肺炎にかかり人工呼吸器を使用する方が病院はより儲かる仕組みなっていたということです。(Waste in health care? For some, it’s profit


病院側は、病院経営のためにより診療報酬の多い医療行為を行おうとする一方、保険会社(またはメディケア)側は、患者の肺炎の治療を行わない方が医療コスト(支払い)が少なく済むので、治療内容と保険適用のガイドラインを操作することで、病院や医師に対して肺炎を防ぐための、あるいは高額な治療を回避するためのインセンティブを与えようとします。それに対し、医師側はガイドラインに縛られて診療の自由を奪われること、またガイドラインに忠実であるか否かが医師としての評価と報酬につながるシステムに
反発します。

同じマネージドケア組織内で、それぞれの利害が対立し思惑が渦巻いています。そして、組織の運営やガイドラインの策定、診療報酬獲得をめぐる熾烈な駆け引きが、複数のステークホルダーたち(保険会社、医療機関、医師団、公的医療保険を運営するHHS、そして法律を決定する連邦議員など)を巻き込んで行われているのです。そして、次回さらに詳しく取り上げますが、その駆け引きには、それぞれの利益を代表するロビイストたちが奔走し、巨額のロビー費が継ぎこまれているのです。

アート患者を常に第一に考える視点

ポール氏は、臨床医としての長年の経験から、ガイドラインに縛られた公的医療保険を含むマネージドケア医療に一貫して反対し、このシステムの中で一番忘れられた存在なのが患者であるということを訴え続けてきました。その信念ゆえに、現役の医師時代にはメディケアからの診療報酬は受け取らず、低額の料金で患者を診察してきたことでも知られています。そして、ポール氏は、マネージドケア医療は、患者の選択の自由を奪い、医師の士気を下げ、医療コスト全体を押し上げ、医療の質を確実に低下させると警告してきたのです。そして、今まさに、アメリカの医療はそれらが複層した大きな課題を抱えています。

ポール氏が目指す医療政策のひとつ、「マネージケア医療の廃止」はここから導かれ、医師がガイドラインに縛られることなく、患者にとって本当に必要な医療を自由に提供することができる「自由診療医療」を目指すべきだと訴えているのです。オバマ・ケアの廃止を求めている点では他の共和党候補者たちと同じですが、その背景にある考え方には大きな相違があります。他の3人の共和党候補者たち医療政策が現状の医療システムの枝葉をいじることでしかないのに対し、ポール氏はその医療システムの問題の根幹に鋭くメスを入れようとしているといえるでしょう。

確かに、患者にとって本当に必要な最良の治療を、というのは言うは安くで、限られた医療資源をどのように配分するのかという問題は、アメリカに限らず多くの国が直面している極めて難しい問題です。公的医療保険にしろ民間の医療保険にしろ、コストコントロールが重要であることは言うまでもありませんが、医療費抑制を重視するマネージドケア医療が、患者の受ける医療の質や、時には命をも左右することになるという視点を、ドクター・ポールは常に忘れないのです。

次回に続く・・・
 
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2012年03月22日

米共和党予備選とオバマ・ケアの行方


過去2回のブログで、アメリカ大統領選共和党予備選の候補者であるロン・ポール氏について取り上げてきました。ポール氏の“真実に迫る”興味深い発言や、その政治思想の根底にあるリバタリアニズム、個人の自由と社会的責任に基づいた理想的社会の実現に向けた政治政策について、いくつかご紹介しました。

今回は、アメリカの医療問題に焦点を縛り、ポール氏の政策提言を吟味していきたいと思います。2012年米大統領選挙における医療分野の争点は、オバマ政権が2010年に成立させた包括的な医療保険制度改革法−通称“オバマ・ケア”です。国民皆保険を目指したオバマ政権が何とかこぎつけたこの医療改革ですが、選挙結果いかんでは実現されない可能性があるのです。この争点について話を始める前に、まずアメリカの医療問題について、簡単に触れておきたいと思います。

アート アメリカの医療問題

アメリカには公的な医療保険制度として、メディケア(65歳以上の高齢者・障害者向け医療保険)とメディケイド(低所得者・子供向け医療保険)、また、連邦職員と軍人・退役軍人用の公的医療保険制度があり、合わせておよそ9700万人(国民の約30%)が受益者となっています。一方、それ以外の国民は、雇用者を通じてもしくは個人で民間の医療保険に加入しなければなりません。民間の医療保険は保険料が高額なこともあり、およそ4600万人、国民のおよそ6人に一人が無保険の状態です。医療費は極めて高額で、保険のない人は医者にかかれないのが現実です。

医療保険加入状況
 
U.S. Census Bureau. 2008 *民間医療保険と公的医療保険の両方に加入している人が一部重複しています)

68.2%・・・民間医療保険加入(雇用者を通じた団体契約59.3%+個人契約8.9%) 

27.8%・・・公的医療保険加入(メディケア、メディケイド、連邦職員、軍人・退役軍人用保険)
 

15.3%・・・無保険

その結果、無保険者が救急医療に殺到(救急医療では誰に対しても診療拒否ができないことが法で定められています)したり、その無保険者の医療コストをカバーするために正規加入者の保険料が吊り上げられたり、また既往症のある人が保険への加入を拒否されたり、重病になった患者の家族が借金で家を手放さなければならない、などということが実際に起きています。

公的医療保険のメディケアやメディケイドに加入していれば安心かと言うと、そうも言えません。実際、公的医療保険メディケアはすでに2008年から赤字経営となり、2011年の保険料収入は支出の57%に留まっています。このままでは、今後数年間で破綻するとも言われる状況です。おりしも、アメリカの連邦予算は債務上限に達しており、メディケアとメディケイド合わせて6000億ドル(2011年度)、連邦予算の21%近くを占める医療保険をこれ以上膨らませるわけにはいかず、コスト削減が緊急課題となっています。


アメリカにおける医療費は、高齢者人口の増加と共に年々増加し続け、2009年にかかった総医療費は2.5兆ドル(国民一人あたり8,047ドル)、
GDPの17.3%を占めました。WHOによると、一人当たりの医療費は国連加盟国191ヶ国中最高でありながら、国民の総合的健康状態は72位にランクされています。医療費の高騰、無保険者問題、近い将来に予測されているメディケアの破綻など、アメリカの医療は、国民の健康と命、そして国家の財政にとって極めて深刻な状態におかれています。(Health care in the United States) 

アート 医療保険制度改革法−オバマ・ケア

この問題を改善し、全ての国民が安心して医療を受けられるような社会を実現するという使命感のもと、オバマ政権は2010年3月、医療保険制度改革法(Patient Protection and Affordable Care Act)、通称オバマ・ケアを成立させました。オバマ・ケアはワンフレーズで言うと、「全ての国民に対し、公的医療保険もしくは民間医療保険いずれかの医療保険への加入を義務化することにより、無保険者をなくそうとする改革」です(国による公的皆保険制度ではありません)。

低所得者には、保険加入に当たって税控除や様々な政府の支援が可能になると同時に、加入しない個人や企業には罰金が科せられることが定められました。またこれまでは、既往症がある患者は民間の保険会社から加入を拒否されてきましたが、保険会社はこのような拒否をしてはならないという条項も加えられました。この法律は、段階的に施行され、2014年度から本格導入される予定です。

2000ページ以上に及ぶ法の内容は極めて複雑で分かりにくいという評判ですが、以下に挙げたものが、医療保険制度改革法の主な中身です。(Wikipedia: Patient Protection and Affordable Care Actより)

・3200万人が新たに医療保険に加入することにより、国民の95%がカバーされる。

・保険会社は、既往症を理由に保険加入を拒否したり、加入者の発病を理由に契約解除したりできない。
・保険会社の医療費支払いの上限を撤廃する。
・子供は26歳になるまで親の医療保険でカバーできる。
・メディケア加入者は、自己負担の50%まで国の補助が出る。
・低所得者に対し、医療費負担が所得の15%を超えないような補助の制度を作る。
従業員50人以下の中小企業は、従業員用医療保険料負担の最大50%の税控除を受けることができる。
・従業員50人以上の企業は、全ての従業員用医療保険の負担が義務となり、違反には罰金が科される。
・全ての医療保険は、避妊薬や堕胎に伴う処方箋にも適用されなければならない。
・民間の高額医療保険への加入者に対し、保険料に40%の税金を課す。
・製薬会社と医療機器業者への計470億ドルの増税をおこなう。 
 

 アート オバマ・ケアヘの批判
 


さて、鳴り物入りで成立した医療保険制度改革法ですが、もともとこの法案には共和党を中心に反対派が多く、連邦議会での賛否は真っ二つに分れ、1年以上にわたる大論戦の末にようやく法案可決に漕ぎ着けました。しかし、法律にはなったものの、いまだ改正や廃止の声が上がり続けており、予定通り2014年から本格的に施行されるのかどうか、先行きが分からない状態です。

改革法に関する一般の世論調査も、支持しないが50%、支持するが42%と、評価は二分しています(12年2月27日、ワシントンポスト紙)。11月の本選では、医療保険改革法を守り貫きたいオバマ大統領とオバマ・ケアの廃止を目指す共和党との激しい戦いとなるのは間違いないでしょう。

国民皆保険制度に慣れている日本人から見れば、国民の命や健康を守り、安心して医療にかかれる制度を作ることは政府の義務であると思われるかもしれません。なぜアメリカの世論の半数近くが改革法に反対しているのか、不思議に思われるでしょう。また、オバマ・ケアを潰すなどというのは、国民の健康や福祉よりも自由主義経済や金儲けばかり重視する共和党の典型的な言い分だと思われるかもしれません。

実際のところ、アメリカ国内でも、「共和党は無保険者のことなど本気で考えてはいないのだ」、「高額な民間医療保険に加入して高度な医療を受けられる富裕層は、現状を変えたくないのだ」、「政治家やその家族は、政府の公的医療保険に加入しているくせに、これ以上加入者が増加するとメディケアは経営破たんするなどといって、低所得者たちを締め出そうとしている」・・・そんな巷の声も響いています。

しかし、相変わらずオバマ・ケアへの風当たりは強く、共和党予備選における医療問題はオバマ・ケアへの批判で一色です。ちなみに、オバマ・ケア(Obama Care)という呼び方は初めからあったわけではありません。医療保険制度改革法を指し示す用語としては以前はHealth Care Billとか Health Care Reformなどが使われていました。それが、法律の成立後、同法律反対派が、「医療改革は必要だが、オバマ改革には反対である」ということで、オバマ・ケアと呼ぶようになったのです。ですから、オバマ・ケアという言い方には少々批判的な意味が込められています。

では、いったい反対派は医療保険改革法の何を批判しているのでしょうか?主な点をまとめると以下のようになります。

・総合的に、10年間で約5000億ドルの増税になる。
・製薬会社等への増税により医療コストは上昇する。
・医療費支払い上限の撤廃により、保険会社の出費が増大し、保険料も上昇する。
・3000万人以上が新たに加入しても、それでもなお数百万人が未加入状態のままになると予測される。
・メディケア・アドバンテージを利用する高齢者(メディケアのオプションで、民間の保険も選択できる)の半数は、保険料の自己負担が増加するためこの制度が使えなくなる。
・避妊薬や堕胎に伴う処方箋への保険適用の義務化は、堕胎に反対する宗教法人の運営する病院やクリニックに、その主義に反するサービスを強いるもの、つまり道徳心に背かせる義務(Anti-Conscience Mandate)であり、容認できない。
・One Size Fits All(保険適用の一律のルールを全ての人に押し付けること)は、個人の自由と宗教の自由に違反する

参照:What is the Patient Protection and Affordable Care Act of 2010?
参照:Top Ten things Obama never told you about Obamacare
参照:The Impact of Obama Care
参照:Obama care Anti-Conscience mandate: An Assault on the Constitution

まとめると、オバマ・ケア反対派の主張は大きく2つに絞られます。

一つ目は、一言で言えば、オバマ・ケアは絵に描いた餅ということです。つまり、オバマ政権は、無保険者が保険に加入できるようにし、医療費を抑制することを目指し、財政赤字を増加させずに医療システムを改善する・・・と謳っているが、そんな都合のいい話はない。実際には、様々な形の税や手数料や規則で盛り込まれ、向こう10年で5000億ドルの増税となる。3000万人が新たに保険に加入することによって医療コストそのものは膨張し、保険料はつり上がり個人負担は増える。アメリカの医療問題は解決せず、事態は悪化するというものです。

二つ目は、「政府が個人に対し医療保険への加入を義務付けること」とは、それは言い換えれば、「政府が個人に対し特定のサービスを強制的に購入させること」であり、個人の選択の自由を定めた合衆国憲法に違反するという主張です。先の世論調査でも、個人への医療保険加入の義務付けは憲法違反だと考えている人の割合は76%に上っています(12年2月27日、ワシントンポスト紙)。

アート 共和党予備選候補者、それぞれの主張

さて、共和党予備選候補者は4名全員が、オバマ・ケアへの反対を表明しており、医療保険加入の義務は合衆国憲法違反であるという見方で一致しています。各候補の医療保険問題の考え方や政策には多少のばらつきは見られますが・・・

実は、先頭を走るミッド・ロムニー氏は2006年マサチューセッツ州知事時代に、州政府による公的保険制度いわゆるロムニー・ケアを導入しました。州民への医療保険加入の義務付けや罰則など、オバマ・ケアと類似した制度です。ロムニー・ケアの導入に当たり、保険加入義務への賛否両論はあったものの、「全ての州民に医療保険を提供する」という大目標を成し遂げるためのトレード・オフと理解され、民主・共和両党の協力により鳴り物入りで歓迎されました。

導入からおよそ5年が経過した現在のロムニー・ケアについての評価ですが、州財政への負担が当初の予想よりも重くなっていることや、中小企業経営者の従業員への保険料負担が増加していることへの不満がある一方、現在医療保険に加入している州住民は全体の98%を達成しています。マサチューセッツ州の世論調査では62%の住民がロムニー・ケアを支持していると答え、ロムニー・ケアはおおむね成功しているという評価が上がっています。Poll finds vast majority of Massachusetts residents like Romneycare

このような経緯のため、ロムニー候補はオバマ・ケアへの対応に微妙な立場に立たされています。政府による医療保険加入の義務化は合衆国憲法違反だと口を揃えてはいますが、自身がマサチューセッツ州で導入した医療保険制度の業績は正当化しているのに、オバマ・ケアを否定するのは自己矛盾だと批判される余地は否定できません。ロムニー氏は、基本的な考え方として、医療保険制度は連邦政府ではなく州政府によって運営されるべきであるとしています。ロムニー氏が、オバマ大統領と対峙する共和党候補としてふさわしいと認められるか否か、ロムニー・ケアはその行方に大きくかかわっていきそうです。
参考までに、ロムニー氏、ギングリッチ氏、サントーラム氏、それぞれが主張する医療政策を簡単にまとめて見ました。

【ロムニー氏】
・メディケアの拡充、プランを多様化する
・保険会社が既往症のある患者の加入を拒否できないとする規則は、条件付で撤廃する
・ヘルス・セービング・アカウント(*)を奨励する
・医療訴訟の賠償額に上限を設け、医療全体のコストダウンを図る
・民間医療保険を州をまたいで自由に購入できるようにする
・民間保険への個人加入者に対し、税控除を適用する

(*)ヘルス・セービング・アカウント(HSA)とは
医療費や保険料の支払いなど、医療に関係する使途のために自由に使える銀行預金口座。一定条件の医療保険に加入していれば開設可能で、この口座への預金は所得から控除することができ、連邦所得税や利子への連邦税もかからない。税控除により、医療目的の貯蓄を支援・奨励する仕組み。

【ギングリッチ氏】キャンペーン・オフィシャルサイトより
・メディケアを拡充し、民間保険の選択を含めプランを多様化する
・メディケイドを改正し、州ごとに患者のニーズに応じたサービスが提供できるようにする
・ヘルス・セービング・アカウントを奨励し、患者の医療負担を支援する
・保険会社に対し、加入者の発病を理由とした契約解除や保険料の増額を禁止する
・保険料や医療費に対する税控除を行う仕組みを作る
・医療訴訟を減らし、医療全体のコストダウンを図る
・医療の自由競争を促し、サービスの効率化とコストダウンを図る
・治療に関する選択肢を広げ、患者が医療情報や自由にアクセスできる仕組みを作る

【サントーラム氏】 (キャンペーンオフィシャルサイトより)
・メディケアを含む公的医療保険の拡充には反対
・ヘルス・セービング・アカウントを奨励し、患者の医療負担を支援する
・医療の自由競争を促し、サービスの効率化とコストダウンを図る
・民間保険への個人加入者に対し、税控除を適用する
・民間医療保険を州をまたいで自由に購入できるようにする。

(参照:GOP Presidential Hopefuls: Where They Stand on Health Care

ロムニー氏、ギングリッチ氏は、メディケアなどの公的医療保険を拡充し、サントーラム氏は医療の自由競争をより重視していますが、オバマケアに盛り込まれた「保険会社は既往症のある患者の保険への加入拒否できない」とする規則には3氏とも基本的に反対し、保険業界を擁護する立場です。サントーラム氏は、疾患を抱えている人がより高い保険料を払うのは当然であるとも明言しています。(参照

3氏とも一様に、オバマケアは医療問題を解決しないとしその撤廃を求めていますが、ではその代案は何かと言えば、ヘルス・セービング・アカウントの奨励、保険料に対する税控除、サービスの効率化によるコストダウンなどといった政策であり、あまり抜本的な改革とは言えないと私は感じています。要するに、彼らが主張しているのは、大枠ではアメリカの医療システムの現状維持であり、そこへ仕組みの変更を多少加えて問題に対処しようとしているだけであり、アメリカの医療問題の核心部にはまったくメスは入れられていないというのが、私の印象です。

次回は、もう一人の共和党候補者ロン・ポール氏の医療政策について、見ていきたいと思います。

posted by Oceanlove at 04:52| アメリカ政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月03日

米大統領予備選候補者ロン・ポール その政治思想と政策


前回のブログでは、2012年大統領選挙の共和党予備選の立候補者ロン・ポール氏について、私の目には候補者の中でただ一人、耳を傾けるに値し真実に迫ることのできる政治家であると書きました。そして、そう思う理由について、前回の大統領選挙(2007−08年)当時の、テレビ討論会の発言を引用しながら、ご紹介しました。ポール氏は、アメリカの連邦議会議員であり、2008年の大統領選挙共和党予備選候補者としてただ一人、911のテロ事件に関連して「彼らは我々が自由で豊かだから攻撃したのではない。我々が中東に介入したから攻撃してきたのだ」と、アメリカの中東への介入政策を見直すべきだと訴えた人物でもあります。

今回は、そのポール氏の政治思想とは何か、またその思想は国家のどんな政策に反映されているのか、見ていきたいと思います。

アートロン・ポール氏の経歴
まず、ロン・ポール氏の経歴について簡単に触れておきます。(ウキペディア:Ron Paul より

ポール氏は、1935年ペンシルバニア州ピッツバーグ生まれで、父親が乳製品業を営む家庭で育ちました。高校時代は陸上競技200メートルの州チャンピオンでした。大学で生物学を学んだ後、デューク大学医学部に進み、1961年に医師免許を取得しました。1963〜68年まで陸軍と空軍で軍医を務めた後、テキサスに拠点を移し、産婦人科医として開業します。妻キャロルとの間に5人の子供がいます(3番目のランド・ポールは、2010年ケンタッキー州から連邦議会上院議員に選出されました)。

初立候補は1974年。初当選は1976年、テキサス州共和党下院議員に選出されました。1976〜77年、79〜85年、そして1997年から現在にわたり、計10期下院議員を務めています。下院では、外交および金融サービス委員会に属し、「通貨政策とテクノロジーに関する金融サービス小委員会」の委員長です。1986年にはリバタリアン・パーティーから、また2008年は共和党から大統領選挙に立候補しており、2012年の大統領選挙は3度目の立候補です。リバタリアンの政治思想に傾倒していることを表明しており、2008年には共和党候補でありながら、党の方針と対立する数々の政策を打ち出し、その異色の存在が注目を集めました。しかし、主流のメディアからは異端視され、共和党候補の本命と見なされることはありませんでした。

2008年の共和党予備選から撤退したのちも、国民にとって真に益となる政治政策や独自のアイデアを広めるための活動を精力的に展開してきました。その活動のひとつが、 “
Campaign for Liberty”(自由のためのキャンペーン)という政治活動団体の創設です。その目的は、「合衆国憲法に根ざした小さな政府のメッセージを広めると同時に、草の根レベルの組織を作って、効果的な選挙キャンペーンを行い国政・地方選挙で勝てる活動家を育成すること」であるとしています。

オバマ政権がいばらの道を歩き始めた2009年、共和党保守の中からティーパーティー運動が沸き起こったのはご存知の方も多いでしょう。実はこのとき、小さな政府、他国への不介入主義、個人の自由、といったポール氏の政治思想が、図らずもティーパーティー運動をバックアップする構図が生まれました。その何十年もぶれのない主張が共和党保守派に新たな高揚感と共感とを呼び起こし、若い支持者たちからは信奉を得るようにさえなりました。

この頃から、共和党の異端児から、時の人へと、メディアの取り扱われ方も変わってゆきます。今回の共和党予備選では、獲得代議員数では現在4番手ながら、そのキャンペーンは熱気を帯びており、メディアへの登場数も他の候補者に引けをとらない活躍を見せています。


アートリバタリアニズムとは
次に、ポール氏の政治思想について見てみましょう。現在ポール氏は共和党の政治家ですが、かつてはリバタリアン・パーティーに所属していた経歴にもあるとおり、ポール氏の政治家としての心髄にあるのは、リバタリアニズムという思想です。いったい、リバタリアニズムとはどんなものなのでしょうか。ウキペディアにはこう書いてあります。(ウキペディア:リバタリアニズムより

自由主義思想の中でも個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する政治的イデオロギーである。リバタリアニズムは他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだと考える。」 

リバタリアニズムの根幹は、この「個人の自由の理念」、すなわち、人はみな、他人に害を及ぼさない限り、自分の選択した生き方をする権利がある、というとてもシンプルな理念です。個人の自由にも身体的自由、信教の自由、財産所有の自由など様々な自由がありますが、リバタリアニズムにおいて最も重要な自由の指標とされているのが、私的財産権の自由です。個人の財産が政府や他のものによって侵害されることは、個人の自由の制限ひいては破壊に繋がると考えるのです。この考え方は、経済・財政政策に大きく反映し、例えば、政府が一方的に様々な税を徴収する仕組みに対しても異論を唱えています(このことについては後でまた触れます)。

リバタリアニズムは「自由主義」ではないのかと思われるかもしれませんが、それは違います。自由主義は、「リベラリズム」の訳語です。ここで、リバタリアニズムとリベラリズムの違いをはっきりさせておかなければなりません。

リベラリズムも、身体的自由、信教の自由、財産所有の自由など個人の自由を尊重します。しかし、リベラリズムはその前提として社会的公正を重んじ、社会的公正のために個人の自由を制限することを認めている点で決定的に異なります。ですから、国民から税金を徴収し、税金で社会福祉や教育など幅広い公共政策を行うことや、弱者や貧困の解消のために法的に富の再配分を行うことは、リベラリズムにおいては正しく、現代の多くの先進国の政治はリベラリズムの理念に基づいています。

これに対し、リバタリアニズムは完全自由主義、自由至上主義であり、公共の福祉のためであれ、使い道が何であれ、政府が税という形で私有財産の一部を強制的に取り上げることは、公権力による個人の自由の侵害であるという点で、基本理念に反するとしています。

これだけですと、血も涙もない思想のように聞こえますが、リバタリアニズムでは、社会的弱者の支援や貧困の解消などに必要な援助などは、徴収した税金で政府が行うものではなく、個人の自由な意思による寄付で行われるべきものである、と主張します。そして、リバタリアニズムの理想とする社会においては、そのような寄付行為は、

富めるもの当たり前の社会的責任として認識される」「努力した者が経済的に報われることは全くもって正しい事であり、成功者が正しく報われることによってこそ人々に努力のインセンティブを与え、市場経済全体が底上げされ


としています。(ウキペディア:リバタリアニズムより

また、リバタリアニズムの考え方によれば、個人の自由には、自分の行動や選択の結果に対する責任が伴うとされています。この自己責任の原理が、人をして正しい行動や選択を行い、成功へ導くモチベーションになると考えられています。また、そこまでの自由が保障されることによってこそ、多様性というものも尊重される社会になるとも考えられています。したがって、リバタリアニズムの考え方においては、国家は法によって個人の自由を“制限”してはならず、国家(=連邦政府)の究極の役割とは、「個人の生命、自由、財産を保護すること」に尽きると考えます。国家の法律で制限されるべきものは、殺人や盗みなどの犯罪に限られ、他人に害を及ぼさないいかなる個人の行動も制限されるべきではない、と主張するのです。


アート国政政策への反映
さて、「国家の役割とは、個人の生命、自由、財産を保護すること」が、リバタリアニズムの政治理念であるということを述べてきました。この理念がポール氏の政治家としての根底にあり、「自由のための新たな運動」の先駆者として、ポール氏は長年にわたり様々なメッセージを発信し続けてきました。では、ポール氏はこの理念を、アメリカの国政の場でどのような具体的な政策に反映しようとしているのでしょうか?ここからは、今、現在進行形で繰り広げられている共和党予備選で、ポール陣営が展開している政策提案や公約を、財政、経済、国防、エネルギーの分野を例に、まずは簡単に見ていくことにします。 


【財政政策】 
Ron Paul 2012 Restore America Now より

減税を提唱。税の徴収は、基本的に、個人・企業の財力を削ぎ、生産性を低下させ、創造力を蝕み、投資欲を損ない、中間層や貧困層の生活を蝕むと考えます。逆に言えば、減税によって個人資産は増え、消費が伸び、学費が賄え、企業の投資が高まるというのが基本的なスタンスです。

ポール氏は、憲法改正により連邦所得税、相続税、キャピタルゲイン税、年金所得への課税を廃止することを公約に掲げています。この大幅減税は、小さな政府の実現、つまり財政支出のカットと車の両輪であり、海外援助、海外派兵、企業への補助金等の中止、5つの省庁の削減により1兆ドルの支出削減を行うとしています(
参照)。

【経済政策】 
Ron Paul 2012 Restore America Now “Economy より


自由主義経済を徹底する。政府による企業への税控除や補助金、規制等の介入を一切撤廃するとしています。政府による市場介入は、公正な競争を妨げ、利益誘導や汚職を招き、物価を上昇させ、結果的に経済に悪影響を及ぼすというのが基本的な考え方です。

金融危機に際し、債務超過に陥った銀行を破綻させずに救済し、政府予算の拠出をさらに拡大しました。これは、政府が政府の規制や権限によって特定の企業や銀行をてこ入れするという、大元の構造的問題を再びなぞっただけであり、根本的な問題解決にはなっていないとも主張しています。具体策を以下にあげます。

         適正財政に合致しない(歳入と歳出がアンバランスな)予算案を阻止する。
        
財政赤字の上限の引き上げを阻止し、歳出を削減させる。
        
FRB(連邦準備制度システム)の徹底した監査を要求し、最終的にはFRBを撤廃する。FRBはドルの価値を減少させ、ドルを増刷しては赤字を埋め合わせるという愚考を繰り返してきた。
         巨大企業によるホワイトハウス占拠(ロビー活動)を止めさせる。
        
高速道路燃料税の廃止、天然ガス仕様の車両への税控除をおこなう。

*経済・金融政策、とりわけFBRについて、次回以降ブログの続編で詳しく検討する予定です。



【国防政策】 
Ron Paul 2012 Restore America Now “National Defense より


国防は、合衆国憲法が定めた連邦政府の最も重要な責務であるとしながらも、世界135カ国に展開する米軍のミッションは往々にして不明確で、何が勝利なのか定義も曖昧であると指摘しています。他国の政治や選挙に干渉したり、他国の特定の指導者を擁立したり、爆撃によって罪のない市民を巻き添えにする行為が、逆にアメリカへの敵対意識を生み、国内外でのテロ行動を誘発させているという見解を持っています。また、このような世界の警察のような振舞いや国家建設(他国への干渉)などの外交政策は、国内財政を逼迫させ、国力を弱体化させていると主張します。

アメリカの自由にとって大きな脅威であるテロリズムへの対処するためには、まずアメリカの外交政策を見直さなければならないとし、「不介入主義」、「平和主義」、「自由貿易」を3本柱とする外交政策を提唱しています。具体策として以下のようなものがあります。

         国境警備を国防の最優先課題とする。
        
長期にわたる他国への派兵や介入は中止し、軍事作戦はアメリカを標的とするテロリストの逮捕に焦点を絞る。
        
戦争の開始は、憲法の定めに従い連邦議会が宣言しなければならない(議会の宣言なしに戦争を開始することは違憲である)。
        
縮小整理で軍事予算を削減し、21世紀型の活力ある軍事力を備える。
         アメリカ国民の血税で他国の為政者や独裁者を肥やすだけの対外援助(
ODA等)は中止する。

【エネルギー政策】 Ron Paul 2012 Restore America Now “Energy より


自由市場主義に徹する。連邦政府による各種の規制、特定業界への補助金、エネルギーへの高い課税が、末端の消費者を圧迫していると指摘します。環境保護団体や業界団体などの圧力により作られる政府のエネルギー政策(炭素税や
CAPTradeなど)や規制は、消費者を特定のエネルギーや電力へと誘導し、その市場拡大を狙った作為的なものであるため、エネルギー市場の自由競争が捻じ曲げられ、その結果、石油、炭素、天然ガスなどの従来の生産は打撃を受けるばかりでなく、新しいエネルギー技術開発の模索や公正な開発競争も妨げられる。したがって、消費者は高い電力コストを支払い続けることを強いられていると主張します。具体策として次のようなものがあります。

         アメリカ海岸沖での原油採掘を奨励し、輸入への依存を減らす。
        
ガソリン税を廃止し、一ガロン当たり18セント価格を引き下げる。
        
石炭と原子力発電を妨げている規制を廃止する。
        
DOE(環境省)やEPA(連邦環境保護局)を廃止する。企業の環境汚染に対しては連邦政府が関与する必要はなく、環境を汚染した業者は、裁判を通じて被害者に対し直接的な責任を負うべきである。
         代替エネルギーの生産や購入には税控除で酬いる。


アート原子力エネルギーについて
ちなみに、原子力エネルギーについては、技術面・安全面の可能性は否定していません。むしろ、米原子力潜水艦の実績から、原子力エネルギーの技術や安全性について認める発言も行ったり、政府による規制で原発が妨げられるべきではないとも主張しています。これだけでは一見、原発擁護派のように見えますが、ポール氏が原発エネルギーを支持するのか否か、それを見分けるためには、原発云々以前のポール氏の最も原理的な考え方を理解する必要があります。

ポール氏は、上記の具体策にあるように、エネルギー分野を管轄している米環境省(
DOE)を廃止し、エネルギーを完全に自由市場経済の下に晒そうという、突拍子もない提案を行っています。これはどういうことかというと、原発に限って言えば、環境省がなくなるということは、国による様々な規制や安全管理の規定が無くなる代わりに、原発産業への多額の開発補助金もなくなり、原発の管理・運営は完全な企業責任となるということです。また、事故の際には一定以上の補償を政府に転嫁(税金で補償)できるとした「プライス・アンダーソン法」も無効となります。開発から事故処理、廃棄物管理まで一切企業責任で行わなければならないということです。そうなると、それらにかかる一切のコストが電力の小売価格に反映されていくため、公正な自由市場競争では他のエネルギーに勝てないであろうことが示唆されるのです。

つまり、ポール氏の言い分は、ビジネスは自由ですよ、原発の開発も安全性もリスクも全て自己責任で行い、それでも消費者に魅力的な価格で提供できるならおやりなさい、国はそれを妨げる立場にはありません、ということなのでしょう。裏を返せば、政府と業界の癒着、多額の補助金、事故時の責任の転嫁によって成り立っている現在のアメリカの原発産業は、自由競争では勝てないということです。

これは、消費者はモノやサービスが安全で安ければ買うし、そうでなければ買わないという市場原理を徹底的に追求した考え方です。安全管理は国の規制によってではなく、消費者の厳しい目に晒すことによって行われるべきで、リスクが高く価格も高いものは自然と淘汰されてゆく、原子力エネルギーもそれに任せましょうというのが、ポール氏の主張なのです。個人や企業の自由と自己責任、自由市場主義という、まさにリバタリアンの政治理念が反映された政策といえるでしょう。


その他、以下のような政策を提言しています。いづれも、「個人の自由の保護」と、「政府の不介入」という基本理念に基づいています。

・銃規制の撤廃。銃規制は、合衆国憲法修正第2条に記された自己防衛権の侵害に当たる。現在の銃規制が、銃犯罪の撲滅には寄与していないことは明らかである。
・麻薬の合法化。麻薬売買の規制は、当局による取締りと犯罪のいたちごっこを助長するだけである。規制によって、闇の麻薬市場を拡大させ、密輸組織による組織的犯罪を悪化させる要因となっている。
・同性婚については中立(?)。個人的には婚姻は男女間で行われるべきと考えるとした上で、その考えを社会に強要するべきではないとする。そもそも、婚姻とは個人の宗教観価値観に基づくもので、連邦政府が規定したり、法制化すべきものではないと指摘。結果的に、同性婚の合法化に賛成なのか反対なのか、有権者にとっては、判断のつきかねない態度となっている。
・小さな政府を実現するために、連邦政府の役割を縮小し、社会福祉、教育、各種の規制、年金・医療等を各州の自治の下に置くべきである。

さて、ここまで、ポール氏の主張する税制、経済、国防、エネルギー政策について、基本的考え方を見てきました。次回は、医療政策について、詳しく見てみたいと思います。


posted by Oceanlove at 18:44| アメリカ政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月10日

ロン・ポール、最も注目したい米大統領選共和党候補

🎨2012年、熱気を帯びる共和党予備選
今年の11月に行われる米大統領選挙。再選を目指す民主党のオバマ大統領と一騎打ちとなる候補を選ぶ共和党の予備選挙が、1月3日のアイオワ州を皮切りに本格的に始まりました。予備選とは、党の大統領候補を選ぶために州ごとに開かれる党員集会を指します。その振出しとなるのがアイオワ州で、最も注目を集める集会のひとつです。3月6日はスーパーチューズデーと呼ばれ、マサチューセッツ州、バージニア州など全米10州で一斉の党員集会が行われます。そして6月5日、モンタナ州、ニューメキシコ州、サウス・ダコタ州で行われる最終日まで、5ヶ月間かけて全ての州で行われます。

各州の党員集会では、党員たちは各候補者に直接投票するのではなく、8月の党大会で実際に候補者に直接投票する代議員を選出します。これらの代議員は、あらかじめ党大会でどの候補に投票するか宣言しているので、各州の党員集会では、候補者たちは自分を支持してくれる代議員をより多く獲得することを目指します。最終的に、党大会の代議員による投票で、過半数を獲得した候補が、正式に大統領候補として指名されるというわけです。

現在、共和党予備選のレースを走っている主な候補者は、ミット・ロムニー氏(元マサチューセッツ州知事)、リック・サントーラム氏(元ペンシルバニア州選出上院議員)、ニュート・ギングリッチ氏(元連邦議会下院議長)、そしてロン・ポール氏(テキサス州選出下院議員)の4名です。他にも、特定の州だけで予備選に参加する候補者も数名いますが、獲得代議員数が少ないので、有力な候補とは見なされていません。

すでに行われた党員集会では、ニュー・ハンプシャー州、ネバダ州、フロリダ州ではロムニー氏、ミズーリ州、コロラド州、ミネソタ州、アイオワ州ではサントーラム氏、サウス・カロライナ州ではギングリッチ氏が、それぞれ代議員の獲得数で一位となり勝利しています。

それぞれの代議員獲得数は、2月8日の時点で、ロムニー氏(112人)、サントーラム氏(72人)、ギングリッチ氏(32人)、ポール氏(9人)となっています。党大会で指名を勝ち取るには1144人の代議員を獲得しなければなりませんので、まだ勝敗の行方は分かりません。

さて、4名の候補者の中で、まだ一度も勝利をしていない候補がロン・ポール氏です。ミネソタ州やニューハンプシャー州では得票数2位、アイオワ州、コロラド州などでは3位につけています。獲得代議員数は少ないのですが、他の3人の有力候補の勝るとも劣らぬ精力的な選挙戦を繰り広げています。

そんな4番手のポール氏について、なぜ書こうと思ったのかといえば、それは、私個人にとっては4人の候補の中でただ一人耳を傾けるに値する人物だからであり、そして、アメリカの国政の場で活躍する政治家の中で私の知る限りただ一人、真実に迫ることのできる政治家だからです。

今回のブログでは、その「真実に迫ることができる政治家」とはどういうことか、これまでの政治家としての歩み、政治思想など、ロン・ポール氏の魅力について満載した記事を書いていきたいと思います。

🎨2008年の共和党予備選
私がポール議員に注目するようになったきっかけは、今から約5年前にさかのぼります。2008年の大統領選挙に向けて2007〜08年に行われていた、共和党予備選の各候補者による討論会です。

実は、ポール氏はこれまでにも過去にに二度、大統領選挙に立候補しており、今回の立候補は3度目になります。1986年にはリバタリアン・パーティーから、2008年には共和党から立候補しました。

2008年の共和党予備選には、ポール氏の他、ジョン・マケイン氏、マイク・ハカビー氏、ミット・ロムニー氏、元ニューヨ−ク市長ジュリアーニ氏などが立候補していました。予備選は、圧倒的な優位に立つマケイン氏とそれを追うハカビー氏の争いとなり、2008年3月までには他の候補者は全て撤退していきました。ポール氏は、最初の党員集会であるアイオワ州で7%の票を獲得して第5位発進し、その後の各州における党員選挙で2〜5位をキープしました。ネバダ州予備選ではマケイン候補を抑えて第2位という健闘も見せました。

覚えておられる読者の皆さんも多いと思いますが、前回の大統領選挙では、2期にわたるブッシュ政権が強行して泥沼に陥り財政をひっ迫させていたイラク戦争と、外交・軍事政策が大きな争点の一つとなっていました。「イラク戦争で大きな犠牲を払いアメリカ経済は困窮している」という激しい世論の批判に対し、各候補者たちは、ブッシュ政権の政策を必死に防護していました。2008年1月24日の討論会において、マケイン候補は、次のように述べ、アメリカの軍事政策を肯定しています。

We are succeeding in Iraq, and every indicator is that, and we will reduce casualties and gradually eliminate them. Anybody who doesn't understand that it's not American presence, it's American casualties. We have American troops all over the world today and nobody complains about it because we're defending freedom. (2008年1月24日New York Times)

「我々はイラク戦争に勝利しつつあります。犠牲者の数は減っていくと予想され、また徐々に無くしていかなければなりません。懸念すべきは犠牲者の問題であり、アメリカの軍事政策の問題ではないのです。今日アメリカ軍は世界中に展開していますが、それに不満も持つアメリカ人はいないでしょう。なぜなら、我々は自由を守っているからです」(筆者仮訳)


🎨イラク戦争は正しかったのか?「イラク戦争は正しかったのか。犠牲の血と予算に見合う価値があったか?」

討論会では、核心をつく質問が出されていました。ポール氏を除く全ての候補が、軒並み「正しかった。その価値はあった。なぜなら、われわれの自由と民主主義を脅かすテロリストたちに勝利しなければならないからだ」というような解答に終始していました。

その中で、ただ一人、イラク戦争は間違っていたと断言したのがポール氏です。その発言を見てみましょう。

It was a very bad idea, and it wasn't worth it. (Cheers, applause.) The al Qaeda wasn't there then; they're there now. There were no weapons of mass destruction. Had nothing to do with 9/11. There was no aggression. This decision on policy was made in 1998 under the previous administration because they called for the removal of Saddam Hussein. It wasn't worth it, and it's a sad story because we started that war and we should never be a country that starts war needlessly.

「イラク戦争は大きな間違いでした。その価値はありませんでした(会場から拍手)。もともとアルカイダはイラクにいたわけではないのです。大量破壊兵器も存在しませんでした。第一、イラクは911とは何の関連性もないことです。イラクによる侵略行為があったのでもありません。イラク攻撃は、1998年に当時の政権によって作られた政策−つまり、サダム・フセインを失脚させること―に基づいているのです。無意味な戦争でした。我々は必要もない戦争を始めるべきではなかったのです。だが、はじめてしまったのだから遺憾としか言いようがありません。」(筆者仮訳)


🎨真実に迫ること=絶対的タブー
アメリカ政治においては、外交・軍事政策を声高らかに批判することが難しいという現実があります。アメリカが最強の軍事力を保持し、世界中に基地を保有し、世界の警察の役割を担っているのは、国家の防衛であると同時に、自由と民主主義を守るためであり、その自由と民主主義を脅かすいかなる力に対しても容赦はしない、それがいわばアメリカの外交・軍事政策の大義名分です。それに異を唱えるということは、国家への忠誠心がないということ、自由と民主主義への反逆であると見なされてしまうのです。

特に911以降は、テロ対策の強化が図られ、「国家への忠誠」が「言論の自由」を凌駕し、うっかり外交・軍事政策への批判を口にすることすらはばかられるような風潮が広がりました。911はアルカイダによる自由と民主主義への挑戦であり、テロ行為への報復は当然である、これは自由と民主主義のための正義の戦争であるというのがアメリカ政府の揺るがぬ根幹です。

それ故、当然浮かんできてよさそうな疑問−つまり、何が、彼らをしてテロ行為を起こさせたのか?その原因は何だったのか?ということについての議論は、不思議なことにほとんどといってよいほど聞かれなかったのです。主流メディアでもそのような議論を取り上げることはほとんどなかったと記憶しています。

一方のアメリカを除く国際社会では、「アメリカの外交政策、特に中東への介入政策が、中東における反米感情を招いてきたのではないか、だからアメリカは自らの外交政策を見直すべきではないか」という論評も少なからず見られましたし、そういう率直な感想を抱いた人もアメリカ以外の国々には多かったのではないでしょうか。

いずれにしても、相手に攻撃された理由について冷静に客観的に分析し検討すること−つまり“真実に迫ること”−は、国家として、政治家として、国民として、あらゆるレベルで行われて当然のことのはずです。

しかし、アメリカでは、この“真実について迫ること”は、自国の政策がテロ攻撃を誘発した結果、911で何千人もの犠牲者を生んだという見方に繋がるためか、暗黙のうちに絶対的タブーとされました。うっかり口にしようものなら、すぐさま非国民のレッテルを貼られてしまうような風潮が渦まいたのです。そして、目には目をで、テロとの戦いは「自由と民主主義を守るためのテロとの戦い」が国是となり、主流メディアもこぞって対テロ戦争を持ち上げました。誰も政府の軍事政策を批判をする者はなく、ましてや、政治家がそのような発言をすることは政治的自殺行為に等しかったわけです。

🎨タブーを打ち破ったロン・ポール
そんな中、タブーを打ち破り、たった一人、平然と「我々が中東への介入が、反感を買ったのだ」と言い放った政治家がポール氏でした。2007年5月15日にサウスカロライナ州で行われた共和党予備選候補者によるテレビ討論会での発言から見てみましょう。(前文を読みたい方はこちらをご覧ください。Republican Debate Transcript, South Carolina)

Non-intervention was a major contributing factor. Have you ever read the reasons they attacked us? They attacked us because we've been over there; we've been bombing Iraq for 10 years. We've been in the Middle East.

「不介入政策は、(国防に)大きく寄与してきたのです。テロリストたちがわれわれを攻撃した理由(声明文)を読んだことがありますか?彼らが攻撃してきた理由は、アメリカが彼らの国へ介入し、イラクを10年間も攻撃してきたからなのです。つまり、中東におけるアメリカの介入政策ゆえなのです。」(筆者仮訳)


討論中の対話の一部を抜粋したため、分かりにくいところがありますので少し解説を加えます。ポール氏は、アメリカ歴代の共和党保守派は、外交では不介入政策をとってきたことを指摘し、不介入政策は合衆国憲法の精神に基づくよい政策であり、国防に貢献してきたのだと言っています。それが、いつの頃からか共和党は自ずからの理念を喪失してしまい、中東や世界中の国々や地域の問題に首を突っ込むようになってしまった。1990年代のイラク攻撃で何万人もの民間人を犠牲にしたことも含め、それらの介入が反米感情を生み出し敵を作ってしまったのだと。今こそ憲法の精神に立ち返り他国への介入を止めるべきである、と主張したのです。

討論会で、ポール氏のこの発言を隣で聞いていたルディ・ジュリアーニ候補が、信じられないという表情で反発しました。911のテロ攻撃を受けて陣頭指揮をとった元ニューヨーク市長として、アメリカの外交政策が911を招いたなどというのは尋常ではない発言だ、撤回すべきだと激しい不快感を示したのです。それに対し、ポール氏は毅然とした態度を崩さすに、次のように述べました。

If we think that we can do what we want around the world and not incite hatred, then we have a problem. They don't come here to attack us because we're rich and we're free. They come and they attack us because we're over there. I mean, what would we think if we were –if other foreign countries were doing that to us?"

「もし我々が、世界中でやりたい放題のことをやっても反感を買うことはないなどと考えるなら、我々の方に問題があります。彼らは、我々が豊かで自由だから攻撃してきたのではないのです。我々が、彼らの国に介入していたから攻撃してきたのです。もし、他の国が我々に同じことをしたらどう思うでしょうか?」(筆者仮訳)


アメリカ人の中にも、他国への介入政策、とりわけイスラエルに肩入れした中東政策が、アメリカへの反発を招いており、それが911に繋がったのではと考える人々は少なからずいましたが、これまで誰も表立って言えなかったことを、国政の政治家、しかも共和党の大統領予備選候補者という立場の人間が堂々と言い放ったことは、アメリカ社会にとってショッキングな出来事だったと言えるでしょう。

ご想像の通り、ポール氏のこの発言は、アメリカ中で物議を醸しました。「なんとけしからん政治家か」「共和党の考え方を逸脱している」「愛国心のない政治家に大統領候補の資格はない」といった誹謗中傷と、まったく逆の「よくぞ言ってくれた」「真実を語る政治家は彼だけだ」と賞賛する声とが入り交ざっていました。いえ、おそらく前者のほうが多かったでしょう。

ちなみに、討論会では、ポール氏の共和党への忠誠心についても次のような質疑応答が交わされています。

質問者:「共和党支持者たちの中には、あなたには党への忠誠心がないのではないか、つまり、いづれ共和党を離党して第3政党から立候補し、共和党に不利となる活動を行うのではないかという懸念がありますがいかがですか?」

ポール氏:「私の最大の懸念は、そのようなことをいう人々は、共和党の理念に対する忠誠心がないのではないかということです。つまり、保守であり、適正財政であり、小さな政府であり、個人の自由という理念です。私は第3政党から立候補するつもりはありません。今の共和党は、共和党らしく振舞っていないことが問題なのです」


共和党予備選は、2008年3月には事実上マケイン氏の勝利が固まり他の候補者たちが撤退していく中、ポール氏は6月までキャンペーンを張り続けました。そのときに、ポール氏は次のように述べています。

「もし、票を集めるためだけにキャンペーンを続けるなら、それもひとつだが、国の将来のためにアイデアと影響力を広めるためにキャンペーンを続けるなら、それに終わりはない」。


主流メディアは、共和党政治家としては極めて異色のポール氏を異端児扱いし続け、大統領候補でありながら本気で取り扱われることはありませんでした。やがてメディアの注目は、共和マケイン対民主オバマの決戦に移っていったわけですが、今から5年も前の2007年にポール氏がアメリカ社会に投げかけた小さな波紋は、以後少しずつ広がっていったのです。

次回につづく・・・
posted by Oceanlove at 07:12| アメリカ政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月21日

ウォール街占拠運動が暴くアメリカ支配の姿 その(2)

🎨金で買われるアメリカの民主主義

前回の記事で、1%の人々に富が集中していることへの不満と抗議の運動であるウォール街占拠とその背景について述べました。この先に広がっているのは、1%の彼らがその財力で何人の連邦議員を確保できるかという問題、つまり、経済における支配の問題ではなく、政治における支配の問題です。ここからは、アメリカにおける金と政治権力の関係について、解説していきます。

まず上位1%の特権階級による政治支配の目的は何かと言えば、自分達の利益や富を維持・拡大するための政策を実行することであり、彼らは、そのための税制改革や、自由貿易推進といった政策の実行に尽力してくれる議員に対し、政治献金を提供します。選挙に多額の資金を要するアメリカでは、政治家は多くの献金に頼らなければ当選できません。したがって、献金を受けた政治家は、選挙区の住民の意思ではなく、献金を提供してくれた個人・企業・団体の意志を反映させた政策を実行することになります。

ハーバード大学ロースクール教授で、政治と金の問題に厳しい発言で知られるローレンス・レーシッグ氏は、アメリカ政界における金の影響力について、示唆に富んだ発言を行っています。

「選挙に最高額を貢献したものが一番の力を持つということは、暗黙の了解となっている」
「われわれの議会を構成する議員は、30〜70%の時間を再選のための資金集めに費やしている。そして、ますます政治献金に頼るようになってきている。」
「もし、一部人間たちだけでなく、全ての有権者が何らかの方法で資金協力をすることで、選挙資金を賄えるようなシステムがあったとしたら、巨大な影響力を持つ人物や団体から解き放たれた自立した議会を臨むことができるだろう。」(10月22日NPRニュースより

はっきりしていることは、アメリカでは政治が金によって動かされていること、そして、政治への金の影響力を排除しなければ、国民の声を政治に反映する真の民主主義は実現できないことを、当の政治家たちも自認しているということです。

レーシッグ教授は、個人献金の最高額を提供できるドナーというのは人口の約0.05%でしかなく、したがってウォール街占拠運動のスローガンは、99%の庶民ではなく、「99.95%の庶民」と言い換えなければならないと言い切っています。金の大きさが言論の自由の大きさとなり、金のない人の言論の自由はあってないに等しい、それが現在のアメリカの姿です。

🎨アメリカにおける政治献金規制の歩み

では、アメリカでは政治資金はどのように扱われ、どのような規制が敷かれているのでしょうか?

アメリカにおける政治資金規正の試みが始まったのは1800年代にさかのぼりますが、はじめての全国規模の法令が適用されたのは1972年の連邦選挙運動法です。1974年には、連邦選挙委員会が設立され、個人・企業・団体からの献金額の上限が1000ドル程度と定められ、献金の情報開示が義務づけられました。この連邦選挙運動法によって管理された政治献金はハードマネーと呼ばれます

しかし、これとは別に、アメリカには政治資金を調達するための仕組みが存在してきました。PAC(Political Action Committee)と呼ばれる、企業や労働組合、ロビーグループなどが作る政治献金組織です。規模は様々ですが、大小合わせて4千から5千にも上るとされています。PACは、連邦選挙運動法によって、合法的に献金を集め、それぞれのPACが理念や政策を共有する政治家たちに対して献金を行っています。例えば、銃業界のPACには「全米ライフル協会」というのがあり、武器メーカーから潤沢に資金提供を受けています。そして、合衆国憲法修正条項第2条に定められた「武器を所持する権利」を保護するために、銃規制に反対する議員に対し政治献金を行っています。

PACから候補者への直接献金は一回の選挙あたり5000ドルと一定の上限はあるものの、PACが独自に行う間接的な政治活動やテレビ広告は、定められた条件(「〇〇候補に投票しよう」などの表現を使わない、など)を満たしている限り、規制の対象になってきませんでした。したがって、企業や団体はPACを通すことで、特定の候補者の選挙運動を、法に抵触せずに金銭的に支援することが可能なのです。こちらの政治献金をソフトマネーといい、これがアメリカにおける政治献金の抜け道となっています。(Wikipedia: Political Action Committee) 

ハードマネーとソフトマネー。法の規制をくぐってほぼ無制限の政治献金ができる制度のおかげで、巨額の選挙費用が賄われるなど、政治に対する金の影響力は強まり、金権政治の横行は常態化していきます。

ハードマネー関する規制では過去10年ほどの間に、興味深い動きがありました。きっかけは2001年、大手エネルギー会社のエンロンが巨額の不正経理・不正取引により破綻した事件です。エンロンの不透明な政治献金の流れは政治スキャンダルとして大きく騒がれ、同社から巨額の政治献金を受けていたブッシュ前大統領に対する批判が沸き起こります。

政治献金規制を強化する機運がいよいよ高まり、2002年、共和党マケイン議員と民主党のファインゴールド議員が超党派で推し進めていた選挙資金改革法、「マケイン・ファインゴールド法」が成立しました。これによって、個人を除く、企業・団体からの政党への献金が全面的に禁止されたのです。その代わりに、候補者や議員に対する直接的な個人献金は認められ、その上限は一回の選挙あたり2400ドルに引き上げられ、州や選挙区の党支部への献金の上限は1万ドルと定められました。

これらの規制が及んだのはハードマネーのみですが、少なくとも、企業・団体献金による直接献金は違法となり、個人の政治献金も連邦選挙委員会の下に厳しく管理されることとなったのです。

ところが、2010年1月、政治と金の問題をめぐるある判決がアメリカ国内を騒然とさせました。

連邦最高裁判所が、企業・団体の政治献金を禁じた「マケイン・ファインゴールド法」は違憲であるする判決を下したのです。この判決の基になったのは、「政治資金の提供は、政治的言論の自由の一形態として、合衆国憲法修正1条が保障している表現の自由の問題として保護されるべきだ」という考え方です。政治資金の提供を規制することは、企業の表現権の侵害であると判断され、これまで個人にしか認められていなかった「表現の自由」が、企業にも認められることとなったのです。これにより、これまでも行われていたPACを通じた政治献金(ソフトマネー)と共に、企業・団体からの特定の政治家への献金(ハードマネー)が可能となり、企業・団体は複数のルートから事実上ほぼ無制限に政治献金を提供することが可能になったのでした。この判決は、いわば、アメリカ政治が企業・団体に乗っ取られた瞬間でした。

🎨ノースカロライナの衝撃

さて、話は、この最高裁判決から一年を待たずに行われた2010年の中間選挙に移ります。これまで圧倒的な民主党の基盤だったノースカロライナ州で、共和党が大躍進し、州議会の過半数を獲得するという衝撃的なニュースが流れていました。2011年10月、雑誌「The New Yorker」に掲載された記事「State For Sale」を、以下にご紹介します。(筆者要約)

選挙期間中、州議会上院議員を3期務めていた民主党保守派のジョン・スノウ議員は、過去に例を見ないネガティブキャンペーンの嵐に巻き込まれました。対戦相手は、ティーパーティーの支援を受けた共和党のジム・デイビス候補です。デイビス候補は新人で政治経験も浅く、当初スノウ議員の勝利は確実視されていました。ところが、ふたを開けてみると、デイビス陣営にはどこからか底なしの選挙資金が注ぎ込まれ、テレビコマーシャルや郵便物などあらゆる広告を利用して、スノウ氏のこれまでの政治活動の揚げ足を取るようなネガティブキャンペーン(相手を中傷する選挙広告)が繰り広げられたのです。

例えば、スノウ氏は2009年に州議会で人種差別禁止法案に賛成票を投じていました。この新法は、判決が陪審員の犯人への人種差別意識によって左右されたと認められた場合には、裁判官が死刑判決を再考することを可能にする法律です。死刑判決において、人種間の著しい不公平な現状を改善するための州法でした。しかし、これに賛成したことを逆手に取られ、ネガティブキャンペーンでは、「スノウ候補のおかげで、もうすぐ死刑囚が解き放たれるであろう」というメッセージが、黒人犯人の顔写真入でばら撒かれたのでした。

事実の歪曲や意図的に誤解を生ませるような中傷攻撃が容赦なく続き、選挙結果は200票の僅差でスノウ氏の敗北に終わりました。選挙後の調査で、ある二つの政治団体が、州議会の一選挙区を争うキャンペーンとは思えない額の数十万ドルの広告費を注ぎ込んでいたことが分かりました。この政治団体とは、地元の企業オーナー・資産家のアート・ポープ氏の出資で設立されたPAC(政治献金組織)、「Real Job NC」と「Civitas Action」です。ポープ氏からデイビス陣営への政治献金は、州が規定する個人献金の限度額4000ドルのハードマネーのほかに、ポープ氏所有の複数の系列企業から、合計で20万ドル(約1400万円)におよぶソフトマネーが「Real Job NC」を通して提供されていました。デイビス候補を支援するこれらの団体は、テレビ広告などで徹底的なネガ・キャンを張り、スノウ候補を敗北に追い込んだのです。

ポープ系列PACのネガキャンの標的となって議席を落とした候補者は他にも多数いました。地元弁護士で選挙改革に積極的だったクリス・ヘガティー氏、7年間州議会下院議員を務め上院議員を目指していたマーガレット・ディクソン元議員など、地元のコミュニティーやビジネスの支援を受けていた民主党候補たちが軒並み落選しました。

最終的に、2010年のノースカロライナ州議会選挙では、ポープ攻撃の対象となった22選挙区のうち、18区で共和党候補が勝利し、1870年以来初めて、州議会上・下両院で共和党が与野党が逆転を成し遂げたのでした。ポープ系列の企業・団体がこの選挙で費やした資金は、総額220万ドル(1億5400万円)に上りました。敗れたクリス・ヘガティー氏は、「個人の資金力がこれほど巨大化することは脅威だ。ノースカロライナの政治は金で買われている」とコメントを残しています。


🎨スーパーPACの出現

このような現象はノースカロライナに限ったことではありませんでした。企業・団体の政治献金を認めるれ連邦最高裁判決後の初の選挙となった2010年の中間選挙では、財力を持った人物や大企業をバックにした候補が、潤沢な資金でテレビコマーシャルを駆使し、選挙を有利に戦うという選挙戦が、アメリカ全土で繰り広げられました。

政治献金は選挙の勝敗を左右しますが、同時に当選した議員の投票行動をも巧みに左右します。選出区の有権者の代表のはずの議員が、しばしば地元の有権者の意向と異なる投票行動をするのはなぜか。その背景にある驚くべき現実に注目してみたいと思います。

それは、議員が受け取っている政治献金総額に占める、出身州の選出区以外の大企業や有力なドナーなどから受け取っている献金の割合の高さです。各議員がどのようなタイミングで、個人、企業、各種団体などのドナーからどれだけの政治献金を受け取っているかは、情報開示義務によって、有権者である国民につまびらかにされています。ある政治系シンクタンクによると、連邦議会下院議員では、選出区外から受け取った献金の献金総額に対する割合は、平均で79%に上っています。中には9割以上の献金を選挙区外のドナーに頼っている議員もいます。

例えば、債務上限問題で赤字削減策をまとめるスーパーコミッティーのメンバーである、カリフォルニア州選出の民主党下院議員ザビア・ベセラ氏と、ミシガン州選出の共和党下院議員デイブ・ケンプ氏が2009〜2011年の2年間に受け取った献金について見ました。

ザビア・ベセラ議員 (参照
• 総額 147万589ドル
• 選挙区外のドナーからの献金額 144万3998ドル(99.1%)
• 内およそ3分の1の54万ドルは、ワシントンDCを拠点とするドナーからの献金

デイブ・キャンプ議員 (参照
• 総額 389万7600ドル
• 選挙区外のドナーからの献金額 169万3038ドル(94%)

多くの議員たちが受け取っている選挙区外・州外からの政治献金の多くは、政治献金組織PACから提供されています。すでに述べたように、PACは大小あわせて数千もありますが、例の2010年の判決の後、複数のPACが寄り集まった組織、「スーパーPAC」なる巨大組織が出現し始めました。個人、企業、団体等からの無制限の献金を集め、それぞれの理念や利益を追求するために働いてくれる議員たちに無制限の支援活動を行っているのです。現在84のスーパーPACが存在し、2010年度には総額6500万ドルの活動費を支出しています。

例えば、ワシントンDCに拠点を置くスーパーPAC「Club for Growth Action」。もともとは1999年に結成された保守系PACでしたが、現在では527の関連組織・団体が結集し、減税、小さな政府、歳出削減、自由貿易などを政策目標に掲げ、保守派議員の活動を全面的に支援しています。2010−11年度にはおよそ500万ドル(約4億円)を集め、そのうちおよそ500万ドルを選挙キャンペーンに費やしました。(Club for Growth Action Independent Expenditures

守系の組織ばかりではありません。やはりワシントンDCに本部のある「NEA Advocacy Fund」は、National Education Association(全米教育協会)を母体とした労働組合・リベラル系のスーパーPACです。2010年には、420万ドルの献金を集め、教育費の削減や教員数の削減を阻止するためのキャンペーン活動を展開しています。(NEA Advocacy Fund Independent Expenditures

特記すべきは、支出の内訳です。「Club for Growth Action」では、共和党保守系議員への支援キャンペーンは59万ドル(全体の約12%)に留まり、対立する民主党候補へのネガティブキャンペーンには410万ドル(約82%)が使われました。「NEA Advocacy Fund」の支出は、民主党議員への支援キャンペーンはわずか1000ドルに対し、ほぼ全額の419万9000ドルが共和党議員へのネガティブキャンペーンに支出されています。(参照

ノースカロライナの例のように、2010年の中間選挙で当選を果たした共和党の新人議員たちの多くは、ネガキャンの嵐の中、ティーパーティー運動の波に乗って浮上してきました。その全米各地のティーパーティー運動の資金源となっているのも、無数の地元の保守系PACであり、そして各地のPACが緩やかに繋がって最強の力を持つようになったスーパーPACなのです。

テキサス州ワコのティーパーティーの代表であるトビー・マリー・ウォーカ氏が、興味深い発言をしています。「選挙区以外または州外から提供される寄付金の限度額を定める法律などできれば、選挙において地元の有権者の意思がより反映されるであろう。」(NPRニュース

小さな政府を目指し容赦のない戦略展開を見せているティーパーティーでさえも、政治に及ぼされる金の影響力について懸念を持っているとは、なんとも皮肉なものです。

🎨アメリカ政治の真の支配者

「政治献金は、政治的な言論の自由の一形態」であるとし、企業にも政治献金の権利を認めた最高裁判決は、このスーパーPACを誕生させ、アメリカの民主主義を根底から崩壊させ始めています。議員たちはもはや、選挙区の有権者の代表などではなく、選挙区から何百、何千マイルも遠く離れたワシントンDCで、法の抜け道すら探すことなく公明正大に金をばら撒き采配を揮う、スーパーPACのロボットと化しているのです。

2012年の大統領選の予備選がいよいよ熱を帯びてきました。それぞれの候補者に対し、支持者からの直接の政治献金(ハードマネー)と共に、スーパーPACを通じて個人、企業、団体から選挙資金(ソフトマネー)が続々と集められています。

共和党大統領有力候補の一人ミット・ロムニー候補のもとには、2011年の第二期(3ヶ月間)に、50名の大口ドナーから、まずは個人献金の上限である一人2500ドル、計12万5千ドルが寄せられました。この50名は、ロムニー候補のスーパーPACである「Restore Our Future」を通じて、さらに一人あたり10万ドル〜100万ドル、総額640万ドルもの献金をしています。オバマ大統領も例外ではありません。再選を目指すオバマ陣営のスーパーPAC「Priorities USA Action」には、同時期に9名の大口ドナーから260万ドルの選挙資金が集められました。この資金こそが大統領選の行方をも決定していくのです。("We are the 99%," but the 1% Buy Elections, Reports Show) 

「アメリカ政治の真の支配者とは?」という問いの答えは、スーパーPACを通して大口献金をすることができ、巨額の資金で醜悪極まりないネガキャンを張り、選挙キャンペーンを背後から操作している人々であり、政治献金で議員の投票行動を思うままにコントロールするスーパーPACとそのドナーたちであるといえるでしょう。彼らはみな、そのような形で政治を操る仕組みを勝ち取ったまさに所得上位1%、いえ、0.05%の一握りのアメリカ人たちなのです。

一見、自由や平等や民主主義が当然と思われている今日のアメリカ。しかし、現実はアメリカ政治は金で買われており、アメリカの民主主義はうわべだけのものに過ぎない・・・。富の集中する1%による経済と政治の支配の現実を日の下に晒し、差別と不公平に怒りの声をぶつけるウォール街占拠運動。クリスマスも、年が明けても続ける覚悟だという彼らの運動は、2012年、どのような形になっていくのでしょうか。
posted by Oceanlove at 09:59| アメリカ政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月12日

ウォール街占拠運動が暴くアメリカ支配の姿


ニューヨークで、“Occupy Wall Street”、ウォール街占拠運動がはじまったのは9月半ばのことでした。彼らのスローガンは「1%の金持ちと99%の庶民」。この占拠を一言で表せば、アメリカを覆う不況の中、巨大な富が所得上位1%の人々に集中していることへ抗議と是正を求める運動です。ソーシャルネットワーキングを通じて集まった数百人の若者のデモから始まったこの運動は、瞬く間に全米各地に飛び火し、3ヶ月わたり数万人規模によるデモ行動が繰り広げられてきました。大統領選を来年に控えた今、このデモ行動が意味しているものは何か、そしてこの運動に現れた庶民のエネルギーはどこに向かおうとしているのでしょうか。

今年最後となるこのブログでは、2011年末のアメリカ社会の現状を、ウォール街占拠運動とその背景にある政治課題をテーマに2回にわたってまとめてみたいと思います。


🎨ウォール街占拠運動とは

今回のデモ行動は、10月1日、イースト・リバーにかかるブルックリン橋の上で700人以上のデモ隊が逮捕されたことが大きく報道され、全米の注目が集まりました。占拠運動の拠点ともなっているニューヨーク市の私有地ズコッティ公園には、テントが設営され、メディアステーションやフードスタンドが立ち並び、日々様々な集会やイベントが開かれています。さながら、ひとつの自治村が出来上がった感じです。占拠運動は、ワシントンDC、ロサンゼルス、サンフランシスコ、フィラデルフィア、ボストンなどにも広がり、長期戦の構えを見せています。

11月はじめ、カリフォルニア州オークランド市でも、公立学校の教師や医療従事者、カリフォルニア大学バークレー校の学生たちなど5000人を超えるデモが起きました。高い失業率、不動産を奪う金融機関や、行政サービスのカットに抗議し、オークランド港を封鎖する事態にまで発展しました。

全米第5番目の規模のオークランド港は、カリフォルニアから輸出される農産物や、アジア諸国から輸入されてくる商工業製品などの物流拠点となっています。グローバル経済の象徴であるこれらの「資本」を一時的にストップさせることによって、行き過ぎた市場経済主義への抗議を示したものでした。

そして、11月15日未明には、治安や衛生環境の悪化への危惧を理由に、デモ隊が泊り込むズコッティ公園にニューヨーク市警察が突入しました。設営されていたテントを撤去したり、警官隊がデモ参加者たちをトラックに押し込むなどして、強制排除するという行動に出たのです。それでも座り込みを続けたデモ隊に対して、警官がペッパスプレーを吹き付けるなどの騒動がありました。

警官隊との小競り合い、衛生と治安の問題が指摘されながらも、比較的平和に組織的に行われてきたデ
モ運動。しかし、彼らの不満・怒り・エネルギーは収束する様子はなく、妥協を許さない徹底抗戦が展開されています。

🎨占拠運動支持者たちは何を訴え 求めているのか?

参加者の多くが無職の若者というイメージを持たれているかもしれませんが、占拠運動支持者の全体像を見てみると、実はそれは正しくありません。あるネット調査によれば、支持者の半数はフルタイム、20%はパートタイムの職についており、無職は13%という結果が出ています。平均年齢は33歳、モスリム、ユダヤ教徒、キリスト教徒など宗教色も多様で、支持政党では民主党支持者は27.3%、共和党支持者は2.4%、その他は無党派層でした。

また、デモ支持者が訴えているものは、単なる所得の格差への不満でも、雇用創出といった単一の要求でもありません。

ある民間団体(OWS-POP:Occupy Wall Street-Public Opinion Project)が、ニューヨーク、ボストン、ワシントンDCの3都市で、参加者たちに直接アンケートをとり集計した調査結果によると、「もしアメリカの社会問題をひとつ取り上げるとしたらそれは何ですか?」という質問に対する回答は以下のように多岐にわたっています。

・企業の政治への影響力を無くす、または減らすこと。
・税制改革で、高所得者への課税を増やし、低所得者の負担を減らすこと。
・雇用の創出。法人税を減らし、企業の活性化と雇用増大につなげること。
・公的医療保険制度の導入。
・石油依存からの脱却と代替エネルギーへの転換。
・戦争を終焉させること。

しかし、この一見バラバラで焦点が欠けて見えるデモ支持者たちの問題意識は、より深く手繰っていくと一本に繋がった問題の根幹に突き当たります。その根幹が、彼らの叫ぶ「1%の金持ちと99%の庶民」というスローガンに凝縮されているのです。

9%台で続く失業率、全米各都市に1300万人の失業者があふれ、ローン返済不能で差し押さえとなった住宅が虫食いのように散らばった郊外型宅地。州財政危機で削れられる教育費や行政サービスに加えて、いよいよ年金やメディケア(高齢者向け公的医療保険制度)まで削減対象とせざるを得ない・・・。経済も財政も過去にない窮地に立たされ、アメリカ社会にこれまでにない重苦しい空気が漂っています。

そんな中、人々の将来への不安と、このような社会状況を生み出した政治への不満と怒りが一気に表面に噴出したのが、この占拠運動です。その矛先は、99%の庶民から富を吸い上げて資産を増やし続けている上位1%、およそ140万世帯のアメリカ人支配層に向けられています。それは、その1%の人々が富の支配のみならず、政治や経済までも支配することへの、99%の強い怒りであり、批判なのです

🎨上位1%に集中する富

では、いったいどれくらいの富が上位1%に集中しているのでしょうか?最近のニュース記事には以下のような様々な数字が踊っています。

・1979〜2007年の間に上位1%の所得は275%増加したのに対し、中間層の60%の所得増加は40%に留まっている。 (10月25日 New York Times)
・国民の総所得に占める上位1%の所得は、1979年には8%だったのが、2007年には17%を占めるようになった。(同上)
・所得上位400人についてみると、1992年から2007年にかけて税引き前の所得は392%あがり、対する課税額は平均で37%減少している。(Mother Jones Politics
・2008年以降の不況で、平均世帯の資産は36.1%も落ち込んだのに対し、上位1%の人々の資産の減少は11.1%に留まっている。(同上)
・2009年の上位1%の年平均所得は96万ドル(およそ7千万円)、最低でも34万4000ドル(およそ2280万円)。(10月29日CNN

2008年の住宅ローンの焦げ付きと金融危機以降、平均世帯の資産の落ち込みは特に激しくなっています。個人資産に占める不動産の割合は、所得上位1%では10%であるのに対し、下位60%では65%を占めています。したがって、平均的世帯では住宅ローンが支払えなくなり、差し押さえられるという住宅ローン問題がより重くのしかかっているのです。

最も分かりやすいのは、以下のような富の配分でしょう。2007年には、上位1%が34.6%、その次の19%の人々が50.5%を保有している、つまり、上位20%の人々が全体の85%の富を保有しているのです。

所得   資産の割合(2007年)
上位1%   34.6%
上位19%  50.5%
上位20%  85.1%
下位80%  14.9%

ちなみに、2007年の世界同時不況以降、上位1%のシェアは34.6%から37.1%へ、上位20%のシェアは85%から87.7%へとさらに増加しています。(Occupy Wall Street and the Rhetoric of Equality

🎨富の不公正な再配分はなぜ起きたか

上位1%の人々に富が集中するようになった背景には様々な要因が考えられます。この富の集中が緩やかに起きた要因には、過去20-30年間の経済のグローバル化(低賃金労働力を求めて雇用が開発途上国に流出)、テクノロジーの高度化(アメリカ国内には専門性の高い職種が残り、単純労働は海外へと流出)、そして慢性的な貿易赤字などがあります。これらはみな、アメリカ経済の低迷や失業率の上昇に貢献してきました。しかし、過去10年ほどの間に急激に起きた富の集中には、別の原因があります。その最たるものが「ブッシュ減税」です。

2000年代初め、ITバブルの崩壊に伴い経済成長が低迷していたブッシュ政権時代、景気刺激策として大型減税策が導入されました。まず、2001年に個人所得税率の低減を中心とする総額1兆500億ドル、さらに2003年には法人税やキャピタルゲインの減税などを含む3200億ドルの減税がそれぞれ施行されました。

所得税の最高税率(年収37万4000ドル:およそ2600万円以上の層)は39.6%から35%へ、最低税率(年収1万7000ドル:およそ120万円以下の層)は15%から10%へと引き下げられました。それと同時に、キャピタルゲインは20%から15%へ、配当課税も所得税率と同率から一律15%へ、また、相続税も段階的に0%まで引き下げられたのです

大多数のアメリカ人にとって、所得の80%は給与所得です。しかし、年収20万ドル(約1400万円)を超える高額所得者になると、総所得に対する給与所得の占める割合は激減し、年収100万ドルを超える億万長者になると給与所得の占める割合は25%以下と低くなります。その分、キャピタルゲインや配当、相続などによる所得が75%以上を占めることになります。この部分にかけられる税率を15%以下まで大幅に下げたブッシュ減税は、極めつきの高額所得者優遇税制だったのです。(参照

これにより、金融資産に限って言えば、上位1%の人々が所有する資産は全体の42.7%、次の19%の所有は50.3%、つまり上位20%の人々が金融資産全体の93%を占有するという現状が生まれました。総じて言えば、ブッシュ政権時代の2002年から2007年の間に増加した総国民所得の66%は、上位1%に再配分されるという事態がもたらされたのです。(Distribution of Wealth: Wikipedia) 

所得    金融資産の割合 (2007年)
上位1%    42.7%
上位19%   50.3%
上位20%   93%

このような不公正な富の再配分は、高額所得者優遇税制、すなわち連邦議会とIRSが決定するに税率、ゼロ金利政策、インフレの原因となったドルの市場供給、物価上昇など、政府が決定してきた複数の経済政策によってもたらされてきました。ブッシュ減税は、庶民にとっても所得税減税ではありましたが、ゼロ金利策と物価上昇で減税分が相殺され、99%の人々の懐から失なわれたなけなしの富は、1%の人々の金融資産の上乗せという形で再配分されていったのです。

ウォール街占運動のスローガン「1%の金持ちと99%の庶民」は、言い換えれば「1%の金持ちによる99%からの富の搾取」ということになるでしょう。

🎨アメリカの債務危機問題

ところで、今まさにアメリカが直面している国家の債務危機問題も、ブッシュ政権時代の政策に起因しています。

先ほどのブッシュ減税は、短期的には景気回復に貢献し、2001年には1.08%だった経済成長率は2003年までに2.49%まで回復していました。しかしながら、減税による税収の落ち込みと、対テロ戦争のための国防費の大幅な増加により、経常収支は、2380億ドルの黒字だった2001年を最後に赤字に転落してゆきます。

2001〜2009年の間に、税収は対GDP比で19.5%から14.8%へと減少する一方(4.7%減)、財政支出は対GDP比で18.2%から24.7%へと増加(6.5%増)しました。財政支出の増加は、

・メディケア/メディケイド(高齢者・低所得者向け医療保険)(対GDP比で1.7%増)
・国防(同1.6%増)
・年金(同0.6%増)
・フードスタンプ(低所得者向け給付金)や失業保険(同1.4%増)

など、削ることの難しい国防と社会保障分野にまたがっています。テロ戦争への巨額の出費のみならず、退職期に入ったベビーブーマー世代への年金支給や高齢者医療費の増大、失業率の増加などが、政府の財政を押し上げています。

2001年当初、ブッシュ政権は、クリントン、ブッシュ・シニア、更にその前のレーガン時代からの累積債務5.7兆ドルを引き継いでいましたが、それ以後毎年5000億ドル前後もの債務が積み重ねられ、政権末期の2008年には過去最高の10.7兆ドルまで増大しました。

オバマ政権になってからは、リーマンショック後の税収の落ち込みと、AIG救済に850億ドルの融資、金融安定化法による7000億ドルの公的資金の注入などが追い討ちをかけてゆきます。国家債務は、2008年には1兆ドル、2009年には1.9兆ドル、2010年には1.7兆ドルそれぞれ増加し、2011年の今年、債務上限の14兆2000億円まで膨れ上がってしまったのです。

🎨機能しなかったスーパーコミッティー

米国の債務は、国債発行や借入金の金額の上限が14兆2940ドルと法律で定められています。上限の引き上げが行われなければ、債務不履行(デフォルト)となる状況で、今年7月、連邦議会が緊迫していました。引き上げに必要なある前提条件で、上下両院が何とか合意を果たし、ぎりぎりの段階で債務不履行を回避したのでした。

その前提条件とは、第一段階として今後10年間で約1兆ドルの歳出削減を行い、債務の上限を9000億ドル引き上げること、第二段階として、超党派の上下両院の議員12名で構成する特別委員会、いわゆるスーパーコミッティーを設置して、10年間で1.5兆ドルの追加歳出削減を協議し対策案を打ち出すことでした。

11月23日までに削減案を提出し、その一ヵ月後の12月23日までに議会を通過・発行されなければ、自動的・強制的な1.2兆ドルの歳出削減(国防費と非国防費で等分)が行われることが合意されていました。自動的削減には、国防費4920億ドル、非国防費(医療、教育、麻薬取締り、国立公園維持管理、メディケア、農業など)4920億ドルが含まれています。

赤字削減の方法は、当然のことながら、歳出削減か、増税か、またはその組み合わせのどれかです。

歳出削減を求める共和党は、連邦予算の中で最も大きな歳出のひとつである年金とメディケアを削減対象とすることを主張してきました。いわゆる「聖域」とされてきた年金・メディケアも削減の対象とせざるを得ないというのが共和党の主張です。

しかし、聖域に手をつけることはには、国民からの激しい反発が予想されるのみならず、より手厚い政策をモットーとしている民主党にとって政治的に致命傷となります。よって、民主党は歳出の削減よりも増税、つまり、ブッシュ時代に導入された「ブッシュ減税の中止」による税収の増加を訴えてきました。

それに対し共和党は、不況の中での増税はますます経済を悪化させる、従来の減税策は継続し、政府の歳出を削減すべきだと反論し、堂々巡りが続きました。

「政府の歳出カットなしに、増税はありえない」とする共和党と、「増税なしに、政府の歳出カットはありえない」とする民主党。結局、スーパーコミッティーは、6対6で真っ向から対立したまま、期限切れとなりました。事態の打開へ期待を託されてきた委員会の働きは失敗に終わり、このまま行けば、自動的な1.2兆ドルの歳出削減で、国防費や社会保障費が削減される見通しです。米政界の憤慨と落胆、国民の政治への不信と失望が国中を覆っています。

🎨「建国の父の思想」のレトリック

しかし、スーパーコミッティーが何も結論を出せなかったことは、まったく不思議ではありません。ある意味、「共和党は小さな政府を目指し、民主党は大きな政府を目指す」という、アメリカ政治における古典的な対立の延長にすぎません。

政府・マスコミの論調も、突き詰めていくと政府の役割とは何か、というところに帰着しています。つまり、政府の役割とは、「ゆりかごから墓場まで」の社会保障を提供していくことなのか、それとも、安全保障、司法、セイフティーネットとしての最低限の社会保障の提供に限るべきなのか、という二者択一の、これまでも繰り返されてきた議論です。

この種の議論になると、必ずといってよいほど保守派の政治家の口から飛び出すのが、Founding Father「建国の父」という言葉です。

保守派といえば、特にオバマ政権となって以来、政治的保守の考え方が一段と強まり、ティーパーティーという古くて新しい運動を盛り立てててきました。ティーパーティー運動とは、2009年ごろからアメリカ政界で始まった「増税なき小さな政府」を掲げた保守派の市民運動です。自由主義、市場経済主義が色濃く、反オバマ、反政府介入で一大勢力を形成し、去る2010年中間選挙では共和党の大躍進、連邦議会下院の与野党逆転をもたらしました。

その共和党保守やティーパーティーの支持者たちは、好んで「建国の父」という言葉を使い、建国の父たちの考え方への回帰を訴えます。

彼らは、建国の父たちの言ったところの「平等」について考えなければならないと言います。そして、「政府の仕事とは、人々に職を提供することでも、人々に平等に富を分け与えることでもなく、自由や富を追求する権利を平等に提供することである」と主張します。たとえ、その権利が不平等な財産の所有に繋がったとしても、自由や富を追求する権利がまずはじめに与えられなければならない、というのが彼らの保守派の主張なのです。

🎨アメリカ独立宣言の欠陥

私は、前回のブログ「TPP交渉と国民の思想」で、アメリカ独立宣言に記された「生命・自由および幸福追求の権利」について触れました。アメリカ人にとって「自由と幸福追求の権利」は、イギリスの植民地から立ち上がり、自由を手にした人々が獲得した独立の原点であると同時に、「普遍の命題」として今日の社会全体で共有されている価値観でもあると述べました。確かに、それはアメリカ社会で暮らす私自身が感じていることでもありました。

しかし、この観点には実は大きな欠陥があります。

1776年の独立宣言には、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」と記されています。しかし、「全ての人間」とは誰のことを指していたでしょうか?

独立宣言を起草し、奴隷制度廃止論者だったトーマス・ジェファーソンでさえ、自ら奴隷を所有していた時代でした。同時代の人々に、その「全ての人間は平等」という表現と、奴隷制度の間にギャップに疑問を抱いた人がどれくらいいたか知る由もありません。しかし、黒人の人々の苦悩は、1865年の南北戦争後の奴隷制度廃止、20世紀初頭の人種分離の合法化、1950年代から始まった公民権運動を経て、1964年の公民権獲得と社会的差別の撤廃まで、延々と続いていくのです。

現実には、建国の父たちのいう平等とは、「白人の移民と英国人の対等」という意味であり、彼らの目指した自由とは英国王ジョージ3世の圧制からの自由でした。独立宣言の「自由と幸福の追求権」は、実は白人移民という限定的な人々に与えられた不可侵の権利であり、その限定されたエリート階級の人々によって政府が樹立され、彼らの意思によって国家は運営されてきたのでした。

今日のアメリカ社会では、独立宣言は広く普遍で名誉なものとして理解され、宣言がかつてそのような欠陥を含んでいた事実は歴史の中に埋まってしまったかのようです。建国の父たちの思想は、その輝ける功績がゆえに、国家がよって立つ頑強な土台としての地位を獲得し、現代においても、小さな政府を目指す保守系の政治家やティーパーティー運動の中に脈々と受け継がれています。

しかし、2011年の今日、保守系政治家やティーパーティー支持者たちが「建国の父の思想」を大義名分に、自由や権利について語るとき、それが彼ら特権階級の富と権力の維持のためのレトリックに過ぎないことに、99%の我々は気づき始めています。政府の介入を排除し、金持ち優遇税制を敷き、市場至上主義政策を推し進める彼ら「上位1%」は、独立宣言の自由と平等条項から非白人を除外した当時のエリート白人の姿と重なって見えるのです。

そして、彼ら1%の支配する政治、経済、金融の仕組みによって、われわれ99%の庶民は不公正に富を奪われている・・・ここに、ウォール街占拠運動の核心があると言えるでしょう。

次回に続く・・・
posted by Oceanlove at 18:34| アメリカ政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月13日

TPP交渉と国民の思想 〜日本が守らなければならないもの〜


11月11日、野田総理大臣は、日本がTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉に参加することを決断しました。予想はしていたことですが、とうとう始まるのか、という思いです。

今回のブログは、前半でTPP交渉参加に関して、私なりに検討した要点を5つにまとめて解説しました。この部分は、ニュース報道や専門家の意見等を参考にしていますので、皆様もすでにご承知のことと思います。そして、後半では、経済のグローバル化という問題を「国家の主権」と「国民の思想」という観点から考察し、TPP交渉に参加するにあたり、日本が守らなければいけないものについて思うところを述べていきます。


TPP交渉参加に関する5つの要点

1) TPPはアメリカが貿易黒字を出すためのアメリカの国家戦略である。
2) TPP交渉は実質日米自由貿易協定である。
3) 「TPPにより日本の製造業の輸出が伸びる」は誇張。「TPPに参加しなければ世界の孤児になる」は大うそ。
4) 公共の利益を守れない可能性のあるIDS条項は取り除くべき。
5) 非関税障壁の撤廃を許してはならない。


1) TPPはアメリカが貿易黒字を出すためのアメリカの国家戦略である

TPPはアメリカ主導の自由貿易協定です。アメリカがなぜこのような新しい自由貿易の仕組みを設けようとしているかを考えればその本質が見えてきます。

イラクとアフガニスタンという二つの泥沼戦争と、2008年の金融危機に端を発する世界恐慌のおかげで、世界を取り巻く政治、経済、軍事の情勢は大きく変化しています。アメリカは世界の覇権国の地位を揺るがされるのみならず、財政難や国力の緩やかな衰退という歴史的な厳しい状況に直面しています。アメリカ経済が一向に回復せず失業者があふれる中、オバマ大統領は、「アメリカが世界の消費地である時代は終わった。これからは新興国の集まるアジア地域をターゲットとしてアメリカ製品の輸出を増強していくことを新たな国家戦略とする」と明言しました。

アジアには、TPP構想が持ち上がる以前から、ASEAN+3という、東南アジア諸国連合10カ国と日本、韓国、中国を加えた地域協力の枠組みがありました。1997年のアジア通貨危機をきっかけに始まった、東アジアと東南アジア諸国が強調して発展していこうという共同体構想です。しかし、近年の中国の目覚しい経済発展と軍事力の増強、そしてその周辺アジア諸国の発展はアメリカを脅かす存在となってきました。

ASEAN+3による地域全体の発展は、地理的にも経済的にもアメリカにとって不利となりますから、アメリカはこれをけん制しようとしてきました。でもただけん制するのではなく、自らが中に入ってその発展の恩恵を自らに取り込もうとしたのです。アメリカはまず、シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランド4カ国で始まった自由貿易協定に目をつけ、それを拡大する形でTPP「環太平洋パートナーシップ」と名付けた新しい貿易協定のリーダーシップを自ら取る形になったのです。

当然、自由貿易協定には地域全体の発展とか、グローバル経済の恩恵などのメリットもありますが、TPPの本質は、TPP各参加国にプラスの経済効果があろうとなかろうと、アメリカによる「他の参加国を相手に貿易黒字を出し、アメリカ経済を生き長らえさせる」という至上命題を持った国家戦略であるということです。交渉参加にあたっては、この本質をしっかりわきまえておく必要があります。

ちなみに、TPPに中国が招かれていないのは、中国がアメリカにとって政治的敵国であること、新興国である中国と衰退期のアメリカが「共に発展する」ことはありえないこと、政治機構の異なる中国を相手に自国に有利な交渉ルールをしくことは困難であること、従ってアメリカが対中貿易で黒字を出せないであろうこと、などの理由によると思われます。

2) TPPは実質的に日米自由貿易協定である。

すでにニュース解説等で示されている数字ですが、TPP参加国とされている10カ国のGDP(国内総生産)は日米で91%を占めています。アメリカが67%、日本が24%、オーストラリアが4%で、残りの7カ国はあわせてたったの5%です。圧倒的なGDPを持つアメリカが農産物を大量に売ることのできる相手は誰でしょうか。

日米豪を除いた7か国(シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランド、ペルー、ベトナム、マレーシア)の経済規模ははるかに小さく、しかも、これらの多くは外需依存(輸出型)の経済で成り立っている国です。つまり、国内消費能力の低いこれらの国々に品物をいくら売ろうとしても高が知れています。オーストラリアも大国ですが、アメリカと同様に農産物立国なので、自国の農産物を日本へ輸出することがTPP参加のメリットとなる立場に立っています。つまり、アメリカが輸出で儲けることのできる国、それだけの消費能力を持つ国は日本なのです。だから、TPPは実質的に日米自由貿易協定に近いと言えるということです。

3) 「TPPにより製造業の輸出が伸びる」は誇張。「TPPに参加しなければ日本は世界の孤児になる」は大うそ。

2)と同様の理由で、日本の工業製品の購買能力のある相手国は、経済規模から考えてアメリカとオーストラリアです。しかし、アメリカもオーストラリアも、日本製品を輸入するより、自国製品を日本へ輸出することで儲けたい国です。いったい両国への輸出をどれだけ伸ばせるのでしょうか。

仮に自動車産業で見ると、北米向け日本車の3分の2ほどがすでにアメリカ国内の工場で生産されています。これは為替の変動等のリスク回避のためにもすでにそうなっているのであり、現地生産されているものに関しては、関税の撤廃は何の意味もありません。そもそも、自動車の関税は2.5%、テレビは5%とすでに低いレベルになっており、それが取り払われたとしても効果は限定されており、関税撤廃で利益が大きく伸びるとはいえないでしょう。不況のどん底にあるアメリカに、日本製品の輸出の伸びしろがどれほどあるのかも首をひねりたくなります。また、他の小国7カ国を相手に、いったいどれほどの輸出が期待できるのかも、政府に示してもらいたいものです。

また、関税撤廃により日本の製造業の競争力が強まるというのは、必ずしも正しくはありません。なぜならば、いまや貿易による利益を左右するのは関税ではなく為替だからです。たとえ、関税撤廃により日本製品の輸出を多少伸ばすことができたとしても、円高ドル安により実益とならない可能性があります。

11月1日、衆議院本会議で共産党の志位委員長が、実に的を得た発言をしています。
「TPP参加によってアメリカへの輸出が増えるでしょうか。アメリカへの輸出の最大の障害となっているのは、関税ではありません。円高とドル安です。TPP参加による関税撤廃と円高・ドル安によってもたらされるのは、アメリカからの一方的な輸入拡大ではないですか。そしてそれがもたらすのは350万人もの失業者だということは、農水省の試算でも示されている通りです。失業者が街にあふれれば、労働者の賃下げ、家計と内需の縮小がいっそう深刻になるでしょう。総理、TPP参加によって「世界経済の成長を取り込む」どころか、アメリカの対日輸出戦略に日本が取り込まれる。これが、真実の姿ではありませんか。それは日本経済を成長させるどころか、内需縮小と衰退への道ではありませんか。」

先月25日に発表された政府の試算ではTPP参加による経済効果は10年間で2.7兆円だということですが、年平均ではたったの2,700億円です。500兆円を超える日本のGDPに対して0.054%でしかないことも指摘されています。一方で、農林水産省の試算(2010年10月)では、農業関連のGDPが7.9兆(1.6%)円減少し、雇用は340万人減ると示されています。

以上のことから、「TPP参加により製造業の輸出が伸びる」は誇張であり、TPP参加による経済的メリットはそれほど大きいとは言えないと考えます。また、TPP参加国はたった9カ国。他に貿易ができる相手は世界にたくさんいるし、TPP以外の手段もあります。「TPPに参加しなければ世界の孤児になる」はTPP推進のための脅し文句に過ぎないのです。

4) 公共の利益が守れない可能性のあるIDS条項は取り除くべき。

以前から、アメリカが主導となって推し進めてきた諸外国との自由貿易協定には、投資家とその現地国家との間で争いが起こったときの解決方法に関する取り決めであるISD条項(Investor-State Dispute System)というものが含まれています。これは、現地国が自国の利益のために制定した政策や規制によって、海外の投資家が不利益を被った場合には、投資家は世界銀行傘下の「国際投資紛争解決センター」という第三者機関に訴えることができる制度です。

このISD条項によるアメリカの暴挙が次第に明るみに出ていったのは、1994年にアメリカ・カナダ・メキシコの3カ国によってNAFTA(北アメリカ自由貿易協定)が結ばれた後のことです。ISD条項により、アメリカ企業はビジネスを行う現地国家を相手に数々の裁判を起こし、アメリカ企業にとって有利な結論を引き出し賠償金を請求してきました。

例えば、2001年、カナダ政府が、国内で販売されるタバコのパッケージに、「マイルド」「ライト」という表示することを禁止する規制を設けようとしました。「マイルドだから吸っても大丈夫」という誤ったメッセージを消費者に与えないための規制だったわけですが、カナダでタバコを販売する米フィリップモーリス社は、規制の導入はNAFTA協定違反だと訴え、カナダ政府はこの計画を断念したのでした。(U.S. companies profit from investor-state dispute system

TPP交渉反対派としてメディアにも頻繁に登場している京都大学の中野剛志准教授も、このISD条項に関して強い警告を発しています。以下の文章は、中野氏の「米国丸儲けの米韓FTAからなぜ日本は学ばないのか」からの一部抜粋です。
「ある米国の廃棄物処理業者が、カナダで処理をした廃棄物(PCB)を米国国内に輸送してリサイクルする計画を立てたところ、カナダ政府は環境上の理由から米国への廃棄物の輸出を一定期間禁止した。これに対し、米国の廃棄物処理業者はISD条項に従ってカナダ政府を提訴し、カナダ政府は823万ドルの賠償を支払わなければならなくなった。」

「メキシコでは、地方自治体がある米国企業による有害物質の埋め立て計画の危険性を考慮して、その許可を取り消した。すると、この米国企業はメキシコ政府を訴え、1670万ドルの賠償金を獲得することに成功したのである。」

韓国は、TPPに参加せず、アメリカとの2国間協定であるFTAを締結しました。去る10月21日、オバマ大統領はこの米韓FTAに正式署名をし、韓国国会での承認を経て来年1月発行となる見込みです。ところが今頃になって、韓国国民の間で米韓FTAにISD条項が含まれていることへの不満が噴出し、野党はISD条項を取り除かなければ承認しないなどと、議会を混乱させています。与党は国会で過半数を占めているので最終的には承認される見通しだそうです。

私たちは韓国の例から学び、TPP交渉参加にあたり、このISD条項については特に慎重に検討しなければなりません。現地国の公共の利益を犠牲にしてまで、企業利益を保護するような訴訟を可能にするISD条項には断固反対し、全ての参加国にとって公正なルールを策定すべきです。

5) 非関税障壁の撤廃を許してはならない

TPPは、関税撤廃だけでなく、関税以外の貿易障壁―「非関税障壁」の撤廃を大原則とした協定です。政府は、関税や規制の撤廃に個別の例外を設けること、交渉の余地があるなどとしていますが、確約されたものは何もありません。例えば、米韓FTAでは、関税の撤廃により韓国からアメリカに輸出する自動車にかかる関税が撤廃されることになりました。

これについて、前出の京都大学の中野剛志準教授は、「(もし韓国車が)米国製自動車の販売や流通に深刻な影響を及ぼすと米国の企業が判断した場合は、無効になるという条件が付いている」、更には、「関税撤廃の条件として、韓国は、排出量基準設定について米国の方式を導入するとともに、韓国に輸入される米国産自動車に対して課せられる排出ガス診断装置の装着義務や安全基準認証などについて、一定の義務を免除することになった。つまり、自動車の環境や安全を韓国の基準で守ることができなくなった」と指摘しています。

TPPに関するアメリカの通商代表部の報告書によると、アメリカから日本に対し、非関税障壁の撤廃が求められている分野には、次のようなものがあげられています(一部の例です)。

・牛肉のBSE(牛海綿状脳症)対策で日本が行っている月齢制限などの規制の緩和
・残留農薬や食品添加物の規制の緩和
・遺伝子組み換え食品の表示義務の撤廃 
・医療の混合診療の全面解禁
・株式会社の病院経営への参入
・血液製剤の輸入規制の緩和

まさに日本国民の「食の安全」や「健康」にかかわる様々な規制撤廃・緩和要求が列挙されているのです。非関税障壁が撤廃されれば、医療面では健康保険の使えない医療ビジネスが増加し、お金のある人しかよい医療を受けられなくなる、医療の過疎地が拡大するなどの危惧は現実のものとなるでしょう。これらの分野での非関税障壁が全て撤廃されれば、私たちの生活は根底から脅かされることになります。野田総理大臣は、「守るところは守る」と言いました。個別の規制を守るために断固たる態度で交渉に臨まなければなりません。


TPP交渉と国民の思想

さて、ここから後半に入ります。まだTPPの具体的なやルールや仕組みの全容が見えない現段階ではこれ以上の検討のしようがありませんが、素人なりの検討の結果、私自身はTPP交渉は日本にとって経済的利益より不利益のほう大きいと考えています。しかしながら、交渉参加が決定した以上、交渉自体を少しでも実りのあるもの、日本の国益を損なわないものとしていくことを考えなければなりません。

ここからは、経済のグローバル化にまつわる問題を、「国家の主権」と「国民の思想」という観点から考察し、国の未来を大きく左右するTPP交渉への参加にあたり、私たちが忘れてはならない大切なもの、日本が守らなければいけないものについて思うところを書いてみます。

🎨グローバリゼーションと国家の主権

それぞれの国が得意とするモノを効率的に生産し、それらのモノを国境を越えて売り買いする貿易によって互いに経済発展をしていくといグローバル経済の光。しかし、そこには、先進国のグローバル企業が、途上国の労働者を低賃金で働かせ、製造した製品を大消費国に逆輸入し大量販売して巨大化していく、そんな図式が存在します。グローバル化が進んだ90年代から、この図式の中で、企業側が現地の労働者たちに労組を結成する権利を与えなかったり、現地国家の環境への影響を無視した操業を行ったりという、様々な弊害が指摘され、グローバリゼーションの影の部分として国際社会で問題視されてきました。そのリーダー格のアメリカ社会でさえ、現地国の人々の人権や環境を代償にモノを安く手に入れるという行為への一種の罪悪感、あるいは良心の呵責からか、「グローバリゼーションの影」はメディア等で自己批判的に取り上げられたり、大手企業がバッシングを受けたりしたこともありました。

しかし、グロール化によって犠牲になるのは、環境、健康、そして安全のための規制といったものだけではありません。グローバル企業との間に結ばれた協定やルール(例えばISD条項) が優先され、その国が自国と国民の利益のための政策を自己決定することができなくなる、つまり、国家の主権やその国の民主主義そのものを崩壊させてしまう危険がグローバリゼーションの影には潜んでいるのです。ノーベル経済学賞を受賞したコロンビア大学のジョセフ・スティグリッツ氏が「NAFTAには、新しい形の企業権利が盛り込まれており、これは国家の民主主義を弱体化させる可能性がある」と述べたのは、NAFTAの弊害が明るみにでていった10年以上も前の話です(U.S. companies profit from investor-state dispute systemより)。

しかし、このような影が付きまといながらも、グローバリゼーションの光が陰ることはありませんでした。グローバリゼーションを正当化し続けたのは、Trickle Down Theory (恩恵が底辺にもこぼれ落ちるという理論) と呼ばれる理論です。つまり、自由貿易によって生産性が向上し、モノや金の流れが大きくなり、GDPが増えて国全体が豊かになれば、富める人がより豊かになるだけでなく、水が高みから低きへと流れ落ちるように、貧しい人々にもその恩恵がまわってくるのだから、それはいいことなのだという考え方です。確かに、グローバリゼーションの仕組みには、先進国の消費者にはモノを安く大量に供給する一方で、途上国には雇用を提供するという相互メリットの要素もありました。

TPP交渉参加国の中には、NAFTAにおけるアメリカとメキシコのような相互依存のメリットがもたらされる国もあるかもしれません。しかし、日米間にそのような相互依存関係は存在しません。TPPによってより大きな利益を得るのは、前述のオバマ大統領の戦略どおり、様々な分野で日本市場への参入を図るアメリカです。日本にとって、TPPに参加するということは、企業活動の効率化や生産性の増大のために、安全性・健康・環境などに関する様々な非関税障壁を撤廃し、国民を守る手段を自ら手放す結果になるかもしれないということです。さらに言えば、国の政策を自ら策定する国家の主権や民主主義が脅かされる可能性をも意味しているのです。

TPP交渉への参加を前に、私たちはこのこと−つまり、交渉台に載せられるのは農業だけではなく、国民生活を守る手段であり、国家の主権であり、そして日本の民主主義であるということ−を良くわきまえなければなりません。TPP交渉は、国家主権をかけた戦いといっても過言ではないのです。

🎨アメリカ人にとっての普遍の命題

私はアメリカに10年以上暮らしてきて、日本人とアメリカ人の思想の違い、考え方の違いを日々味わってきました。個人の生き方、考え方から社会全体で共有されている価値観、政治思想に至るまで、アメリカという国に厳然と横たわっている「普遍の命題」を、今強く感じています。それは、個人の「自由と幸福追求の権利」です。アメリカ独立宣言に記された「生命・自由および幸福追求の権利」は、植民地から立ち上がり、自由を手にした人々が獲得したアメリカの原点です。独立宣言の原文の日本語訳は以下のようになっています。
「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。」
アメリカ大使館ホームページより

私は、この「自由と幸福追求への権利」意識が、普遍の命題として、アメリカ人の生き方・考え方の根底に組み入れられていると強く感じるのです。そして、彼らはこの権利を脅かすいかなる力をもことごとく警戒します。

上記の宣言には、個人が「こうした(幸福追求の)権利を確保するために政府が樹立される」と書かれています。言い換えれば、政府は個人の「自由と幸福追求の権利」を担保する義務を負っているということです。そして、政府の働きを監視するチェック・アンド・バランスの機能を果たす三権分立制をしきました。それでもなお、政府の権限が強大化して個人の権利が侵害されることを恐れ、上記の独立宣言の続きには、「政府がその目的に反するようになったときには、人民は政府に反旗を翻し、新たな政府を樹立する権利がある」(筆者意訳)とまで書かれています。

さらに、合衆国憲法修正第14条では、「いかなる州も合衆国市民の特権または免除を制限する法律を制定あるいは施行してはならない。」と定め、様々な行政上の規定を定める州法によって、個人の「自由と幸福追求の権利」が矮小化されることをも、入念に禁じています。

アメリカ政治において、よく「小さな政府、大きな政府」と分類されることをご存知のことでしょう。簡単に言えば、小さな政府とは、民に対する政府の関与は最小限にすべきで、企業活動を妨げる法律や規制をなくしていくべきだという考え方です。減税や社会保障のカット、企業利益を最優先した市場至上主義政策を目指します。一方の大きな政府とは、政府の権限や国民生活にかかわる行政上の規制を強化し、増税するかわりに、様々なサービスを提供し、社会福祉や年金、医療といったセイフティーネットを拡充する政策を目指すわけです。

伝統的に共和党は小さな政府を、民主党は大きな政府を目指しており、アメリカにも様々な考え方と政策があることは事実です。しかしながら、ここで私が強調したいのは、人々の持つ「自由と幸福追求の権利」意識は、支持政党や人種や所得階級などの違いにかかわらず、アメリカ社会全体を凌駕する普遍的な思想であり、国を突き動かす原動力となっているということです。

🎨日本人の考える幸福追求権との違い

私たち日本人にも、憲法で個人の「自由と幸福追求の権利」が保障されています。しかし、この権利に対するアメリカ人と日本人の意識には、大きな違いがあると感じます。単なる程度の差ではなく、その権利を求める姿勢の違い、または価値の置き方の違いといったらよいでしょうか。

日本国憲法第13条は以下のように記されています。
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

お気づきかと思いますが、日本国憲法の幸福追求条項には「公共の福祉に反しない限り」という文言が付いています。

「公共の福祉に反しない限り」とは、平坦にいえば「他人や社会に迷惑をかけない限り」という意味で、個人が自由や幸福を追求する前提条件です。この条件は、人に迷惑をかけるような勝手なことはしてはいけないという、日本人が昔から当たり前にもち続けてきた道徳観に他なりません。そんなことはわざわざ言われなくても、他への配慮なしに勝手に自分の自由や幸福を追い求めることを権利だと主張する思想は、日本の風土の中にはなかったものです。日本社会には、個人の自由や幸福の追求よりも、家族や集団、地域社会全体の「和」や「調和」というものを重んじる考え方や行動が根付いてきたのであり、それを徳と見なす思想を日本人は育んできました。

日本人にとっては当たり前の「公共の福祉に反しない限り」という文言がアメリカの独立宣言には存在しません。この文言があるか無いかは、決して単なる形式的な文句の有無ではなく、実は日本人とアメリカ人の精神文化、思想における極めて大きな違いを象徴しているように思うのです。

無論、アメリカ人が他人や公共の福祉をまったく省みないと言っているわけではありません。しかし、アメリカ人にとって「自由と幸福追求の権利」は、建国と独立への戦いの中で自ら勝ち取ったものであるがゆえに、その権利の保持のためにはいかなる前提条件をつけることもありえないのです。それは、絶対的に最優先されなければならない命題であり、国家と国民がよってたつ思想なのです。

これはどちらが良いとか悪いとかの話ではありません。それぞれ民族固有の、国の成り立ちや歴史の中で時間をかけて形成してきた人々の考え方・思想であり、行動様式だということなのです。そして、その思想こそ、人がその国の国民であることの証であり、誇りであり、決して失ってはならないものだと私は思うのです。

🎨🎨TPPは思想と思想の対決

この日本とアメリカの国民的な思想の違いを、経済のグローバル化や、もっと言えば今日のTPPの問題に絡めて考えるのは我田引水かもしれません。「自由と幸福の追求」と「経済的利益の追求」は同じではないという反論もあるでしょう。しかし、現実的に「経済的利益の追求」も「自由と幸福の追求」の一部でありましょうし、ある人々にとっては全てかも知れません。

でもあえてアメリカ人的な思想を用いれば、「経済的利益の追求」に「公共の福祉」を介入する余地は無いと言えるでしょう。要するに、お金儲けは「自由と幸福追求の権利」なんだから、正当な行為なのだ、誰にも邪魔される理由はない、政府は口出しするな、というわけです。かくして、アメリカ社会では企業利益を最優先する市場至上主義が台頭し、行政上の規制を無くし小さな政府を目指す共和党が財界から強力な支持を受け、そして、その勢いは国境を越えてグローバル化に突き進んでいきました。

しかし、市場至上主義と、経済のグローバル化が何をもたらしているかは、今日アメリカ社会が抱える様々な窮状に歴然と現れています。医療費の高騰と機能不全の医療保険システムで、国民の3分の一が医療を受けられない現状。無担保ローンでマイホームを売るからくりや怪しい金融商品を生み出し金儲けに走った金融業界。金融危機をもたらした張本人たちを救うために公的資金を投入した政府。州や地方財政の悪化で次々に切り捨てられる行政サービスや教育。雇用の回復は見込めず、大学を卒業しても就職先がない若者たちの抗議行動によるウォール・ストリートの占拠・・・。

はっきりしていることは、「公共の福祉に反しないことが幸福追求の前提条件」という思想を持つ国民と、「幸福追求は前提条件の付かない命題」という思想を持つ国民の間には、決して埋められない溝があるということです。この両者の関わるTPP交渉というビジネスにおいて、いわゆる非関税障壁を撤廃するか否か、ISD条項を設けるか否かは、すなわち「公共の福祉に反しない限り」という文言を設けるか否かとおなじことであり、これはまさに二つの国の思想と思想の対決なのです。

思想で飯が食っていけるかと叱られるかもしれません。しかし、思想のない国は滅びたも同然だと思います。「平成の開国」、「世界の孤児」、とんでもない勘違いだと思います。国民の生活を守る砦を取り払い、アメリカ企業を儲けさせてあげた挙句に残るのは、荒れ放題になった農村の風景、勤勉な日本人の貯蓄が外資に崩されますます困窮する庶民、利益至上主義と米国流の訴訟習慣の広がりとでさらに無味乾燥になってゆく人の心と人間関係、失われていく「和をもって尊しとなす」の思想とと日本人の誇り・・・。

そのようなことにならないように、TPP交渉への参加と交渉開始にあたり、日本の国益を経済的な観点からのみでなく、「国家の主権」や「日本人の思想」という観点からも追求し死守していかなければならないと主張します。野田総理は、守ることろは守る、勝つところは勝ち取る、と言い切りました。必ずや国民の暮らしと、国家の主権と、日本人の思想を守り、未来の日本を勝ち取ってもらいたいものです。

posted by Oceanlove at 08:54| 日本の政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月23日

登山について、雑感


7月初旬、家族での登山に出かけた。場所は、カリフォルニア州北部、シエラ・ネバダ山系のPlumas National Forest に点在する、スミス・レイク、ジャミソン・レイクなど複数の湖をつなぐ縦走コースだ。標高は最高点で2200メートル、3泊4日で約20キロを歩いた。

天候、歩行距離、難易度、景色、野営に好都合な環境など、全てに恵まれた。コースについては事前に調べて行ったが、ヨセミテのような観光地とちがって詳細な情報が無く、果たして子連れでの登山に向いているかどうか、水の補給は十分にできるか、雪は解けているかなど、少々不安があった。

アメリカには、広大な自然の中に登山道は無数に存在するが、バックパッカー(登山者)の数は相対的に少ない。日本では要所に置かれている山小屋のようなものも無く、情報は必ずしも充実していない。登山前に、管理事務所で、「雪がどれくらい残っているか帰りに教えてくれ」と逆に頼まれて、驚いた。

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すれ違う登山客はほとんどいない。今年は夏に入ってからも気温が低めで、2000メートル以上ではまだ雪がかなり残っている。濃い緑と残雪の白のコントラストが眩しく、湖を見下ろす眺めはまさに絶景だ。日中は27度くらいまで気温が上がり、ザックを背負って歩いていると汗だくになった。湖に飛び込んだら、ひんやりとさぞ気持ちがいいだろう、と意を決して実行したが、雪解け水は冷たすぎて、皆すぐに飛び出てしまった。

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夜は湖畔にテントを張り、石で囲ってかまどを作りキャンプファイアーを焚く。私たち家族以外は誰もいない。夜、テントの中で聞こえるのは風のうなりと小動物の鳴き声、まさに大自然のただ中だ。

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子供たちも、前回よりしっかり歩いた。愛犬ラナも自分用の食料を背負って小走りについてくる。今後の課題は荷物をもう少し軽くすること。谷川で補給できる水(ろ過して使う)以外は全て担いでいかなくてはならない。4人分の4日間の食料となると、半分くらいフリーズドライにしても、かなりかさばり重い。

子供たちのザックは、各自寝袋とマット、着替え、雨具、ライト、水筒、おやつなど基本のものだけで精一杯の重さになる。大人二人で、テント二つ、食料、なべやコンロなど調理器具、ロープや非常用の道具、救急箱、非常食、カメラ、電池類・・・もちろん可能な限り軽量のものだが、これらを分担すると、夫のザックは25キロ、私のも20キロ以上になった。足腰よりも、肩にずっしりとこたえる。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日が沈み、一家4人、黒々とした山と湖に囲まれる。じっと眺めていると、底なしの闇に吸い込まれそうになる。夏山とはいえ、何かが起きて助けを呼ぼうにもすぐには呼べない、そんな幾ばくかの緊張を感じずにはいられない。自然の圧倒的な凄さと、計り知れなさがひしひしと迫ってくる。

そのせいか、普段あまり使われていない体内の本能的な感覚が目覚め、思いは果てしなく広がってゆく。例えば、かつてこの大自然を住処としていたネイティブ・アメリカンの暮らしはどんなだったのだろうかと。衣食住の確保も部族の繁栄も、全てが自然との共存の中にあったのだろう。そして、きっとこの昼の日差しと夜の暗闇の対照のように、生と死が隣り合わせる日常だったのだろう・・・。

月明かりに照らされる黒い湖と、その水面を吹き渡る風の音を聞きながら、私の思いは歴史のいくつものページを飛ぶようにさかのぼり、悠久の人類の生命を辿る。私たちの祖先が居住していたのは、もしかしたら灼熱の砂漠だったろう。あるいは熱帯の森林、川ベリの平原、あるいは険しい山岳地だったかも知れない。どこであろうと、人類の営みは大自然の中でのサバイバルだったのであり、その中で、私たちの命は今日まで繋いでこられた。そして私の思いは、自ずと自分が今この瞬間ここに存在することの不思議に行き着く。気の遠くなるような奇跡的な命の連鎖と、社会の発展と、科学技術の進歩の末に、自分がここに存在していることの不思議に。

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さらに考える。今私が見ている絶景は、何千年も前のバッファローの毛皮を身につけたインディアンが見たものと、おそらく大きくは変わっていない。しかし、彼らの生活がこの自然の中で完結していたのに比べ、現代人の私は、ここでは登山用の軽量テントやダウンの寝袋やフリーズドライの食糧無しには、数日と生存できない存在だ。そして、私の存在は、下界に置いてきた多くの複雑極まりないものごと−日常生活や社会とのつながり−から、決して切り離すことはできない。

それは例えば、日々の家計のやり繰りや職場での任務であり、国の政治や経済活動であり、天災や戦争や環境汚染であり、家族や友人や地域社会とのかかわりであり、子どもを生み育てることであり、病との闘いであり、老いることであり・・・現代に生きる私たちは、おびただしいこれらのものごとにがんじがらめになって、一日たりとも逃れることはできない。これらを引き受けなければならない重圧は、生を受けた瞬間から死の床に至るまで、いやおうなく私たちにのしかかっている。

そんな日常の喧騒を離れ、つかの間自然を堪能し、自然への驚異なり畏敬の念を抱いて、またもとの場所へ帰っていく登山客の私。

人はなぜ山に登るのか、という問いがあるが、私が、うっかり足を滑らせて谷に転がり落ちても誰もすぐには助けに来てくれそうもない山奥まで汗を流して登ってきたのはなぜかといえば、そうしてこそ得られる特別な喜びや満足感を求めているから、だろう。

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だが、今回歴然と気付かされたことがある。それは、こんな登山も、他のどんな旅行やお手軽ツアーと、実は一寸の変わりは無いということだ。普段肌身離さない携帯やパソコンのみならず、煩わしいものを全て下界に置いてきたつもりが、たった4日間でさえも、私は少しも自由にもなれなければ解放もされなかった。その証拠に、下界の暮らしの象徴である20キロの重み−必要最小限だけれど、現代人の私がここで数日滞在し、その峰の雄々しく美しい景観に魅了されるためには絶対不可欠な登山の装備−がずっしりと肩に食い込んでいる。

そして同時に気付かされたことは、いざこの自然が牙を剥いたとしたら、どんなに重いハイテクな装備でさえも私を守ってはくれないという予測の確かさであり、自然に対峙する人間の本質的な無力さだった。

たかが子連れの山登りで大袈裟な、と言われるかもしれないけれど、そんな自らの無力ささえ、私は日常忘れている。忘れるのはいともた易い。下界では、自らの本質的な無力さを忘れた人間集団が、自然を都合よく利用し、かき乱し、破壊しつくそうとしている。破壊し、犠牲にしているものの対価にも鈍感になった私たちは、健忘と愚の結集を、科学技術という英知への称賛で置き換えることまでをも平気でやってのける。

けれど、おそらく・・・。満月に近い月が高さを増していくのを見上げながら思う。そんな計り知れない犠牲をもってしても、皮肉なことに現代の私たちは、同じ月を見上げていた大昔の人々より、ほんの少しも自由ではなく、少しも苦悩が軽減されたわけではなく、少しも余計に幸福になってはいないのではないだろうか・・・。

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そんな人間が、便利な登山グッズを背負い、何かしらの満足感を求めて山に登る登山という行為は、どこか滑稽だ。だが、山は旅人を拒まない。いつも変わらぬ佇まいで、その大らかな懐に私たちを迎え入れてくれる。人は山に魅せられ続け、懲りもせず一歩一歩土を踏みしめて登る。私も、また体力の許す限り登りにいくだろう。自然の美に眼を潤し感動すること以外、何も深い意味など求めはしない。

でも、こうも思う。もし登る度に、普段忘れているものを思い出すことができるのなら・・・眠っている感覚を目覚めさせ、研ぎ澄ませて、自然と人間のあるがままの姿を感じることができたら・・・、もしかしたらそれこそが人間の本物の英知の源となり得るではないか、と。
posted by Oceanlove at 01:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月30日

日本社会の構造的問題と有権者の責任 〜新たな日本のタペストリーを織り成すために〜


福島第一原発の事故は、福島周辺に住む人々の命や健康を大きな危険にさらし、精神的にも経済的にも大きな苦しみをもたらしました。放出された放射性物質は美しい自然環境を汚染し、農業・牧畜・漁業などを含む人々の生活の基盤を奪い、その影響は日本各地そして世界中に広がっています。日本中の人々が、初めて、身をもって原発の恐ろしさ、危険性を実感しています。

現在稼動中の日本中の原発について、速やかな安全点検が行なわれ、地震や津波などのリスクの高いものについては即刻停止するなど、短期的な対策が早急に採られなければなりません。同時に、代替エネルギーへの転換や、長期的視点にたった将来の日本のエネルギー政策について議論していく必要があります。原発を維持していくのか、それとも原発脱却という大転換を図っていくのか。これは国民の生活と国の将来に関わる重大な問題です。一人一人が真剣に考え、議論し、将来の日本のために最善の方法を選択していかなければなりません。

その議論の前提として、まずは事故原因の徹底究明がなされなければなりません。当然のことながら、事故の直接的原因は、莫大な利益をもたらす原発の管理・運営に関わりながら、国民には「安全神話」を刷り込み、地震や津波への万全の備えを怠ってきた東電と政府組織の怠慢・過失にあります。でも、私はあえて今回、私たち自身に疑問を突きつけ、事故を起こしてしまった原因と背景の中に、私たち国民側に改めるべき部分はないだろうかと考えてみました。

そこから、浮かび上がってきたのが今回のテーマ「有権者の責任と日本社会の構造的問題」です。また、福島原発の事故問題は実は原発だけの問題ではなく、背後には日本社会に蔓延している構造的問題があるということについても、問題提起をしたいと思います。私たちが冷静に「有権者の責任」を検証することは、今後の原発をめぐる議論やエネルギー政策が本当に国民の意見が反映されたものとなるために、ひいては、これからの日本を、公正で人の命を大切にする本当の意味で豊かな国にしていくために必要不可欠なことであると考えるからです。

🎨国民の側にある問題とは
「事故原因は、自然災害の危険性を甘く見積もり、原発の安全管理を怠ってきたことによる人災である」
「事故の責任は政府や東電にある」
「事故後の政府の後手後手の対応に、被災者は更なる苦痛を強いられている」

このように感じている国民はたくさんいます。原子力保安院や東電の会見を見ていても、どこまで本当なのか、信じるに足る情報なのか、とても困惑させられる場面がたくさんあります。実際、私たちには事実を知る術はなく、それらの会見を基にしたニュース報道がすべてですが、政府でさえ事実関係が掌握できていないのが実態なのではないか、事を荒立てないために伏せていることがあるのではないか・・・、多くの人々がそんな疑いを抱いてしまうのも不思議はないと思います。それが私たち一般国民の直感、善良で常識的な多くの人々の感覚であり、批判の矛先はひとえに政府と東電に向けられています。

しかし、事故をもたらした間接的な原因に、私たち国民一人一人も全く無関係とは言えないと、私は考えています。そのように考えるわけは、事故が起きるまで、私たち国民のほとんどは原発について関心を持っていなかった事実を今痛烈に思い知らされているからです。湯水のように使ってきた電力がこれだけ原子力に頼っていたということに今回はじめて気付いた人は、私を含めてどれほどいるでしょうか。平常に安全に運転されていて恩恵を受けているときは何も言わず、事故が起きた今になって東電と政府を責めているのが私たちです。原発周辺の人々に向けて言っているのではありません。東電の原発の電力で生活してきた首都圏の人々、家電、パソコン、携帯、交通、商業活動・・・原発エネルギーを当たり前に使う豊かな生活をおくってきた日本中の人々に当てはまることです。だからこそ、あえて私は国民の側に改めるべき部分はないだろうかと、冷静に考えてみるべきだと思うのです。

当然、東電や官僚たちには一般市より遥かに大きな直接的過失と責任があります。例えば、過去の事故の際にも情報を十分に公開してこなかったこと、国会議員の原発に関する質問を適当に受け流し、徹底した安全対策の見直しをしなかったこと、また、危険回避や安全対策より企業利益を優先する判断をしてきた組織のあり方そのものであり、国民の目に不透明なシステムです。

しかし、私たち国民はどうでしょうか?何をしたでしょうか?または何をしなかったでしょうか?過去の事故に際しても、原発周辺の住民以外の国民はそれほど危機感を持つことはなく、市民レベルで徹底検証をするという大きな動きも見られませんでした。幾度となく起きていた小さなミスや事故も、原発推進の政府と業界関係者の恩恵が守られるような形で丸く納められてきました。

🎨事故の遠因となった国民の無関心・無責任
私たちは何もしていない、単なる消費者だ、事故とは関係ないと、責任などあるわけがない、と言われるかもしれません。でも、「何もしていない」「私は関係ない」という態度が、実はめぐりめぐって、利益を優先するような企業体質、政府と電力会社の馴れ合い関係を温存させ、安全管理や危機感の欠如を蔓延らせる遠因となったと私は主張しなければなりません。更に言えば、別に悪意などなく普通に生活を送り、電気を当たり前に使ってきた日本中の人々が、原発周辺の人々の生活の基盤と糧を奪い苦しみをもたらした事故の発生に、いくらかでも加担してしまっていたのだと、私は自責の念を込めて言わねばなりません。

なぜそのように考えるのか。一般論になりますが、私は時として、有権者の政治に対する姿勢を疑問に思うことがあります。私たちは往々にして政府や政治家への批判を口にします。当然のことながら言論の自由は守られなければなりません。しかし、ある政策が自分に恩恵をもたらしている時は、特定の政治家や政党とのぬくぬくとした関係や、小さな過失や抜け穴も見過ごすような馴れ合いの関係が保っていながら、風向きが悪くなると手のひらを返すような行動をとることはないでしょうか。また、ある政策から恩恵を受けている時はその政策の欠点には目もくれないでおいて、何か問題が起きたとき、欠点を見過ごしていたのは政府だったと一方的に責めるようなことは・・・?このようなことが起きているとしたら、これは有権者として極めて無責任な態度だと言わざるを得ません。

福島原発に関しても、同様のことが言えます。これまで安全に運転されていた時には当たり前のように電力を消費し、過去の事故の際にも問題意識を持たず、政府と電力会社と馴れ合いの関係を間接的に許してきた私たち国民が、事起きてから「事故は、安全管理を怠った政府や東電の責任だ」と短絡的に責めるのは、それは少し虫がいいのではないかということです。当然、何度も繰り返しますが、直接的過失は政府や業界側にあります。しかし、私たち国民は、すべてをお役所任せにせず、安全神話を鵜呑みにせず、もっと原発の安全性について意識を高く持つべきだったのではないでしょうか。過去の事故について、市民レベルで徹底的に検証することもできたはずです。一般市民には見えにくい馴れ合いの癒着構造についても、批判するだけではなく、市民運動を起こして徹底的に追及することもできたはずです。

🎨国会議員が発していた警告
そのような原発の安全性を追及する活動を、過去十数年間にわたり、国会の場で行なってきた議員がいました。共産党の吉井英勝議員です。数多くの質問趣意書を提出したり、予算委員会、経済産業委員会などで繰り返し質問に立ってきました。このことは事故後すぐにニュース等でも取り上げられましたが、改めて、実際にどのような質問がされ、政府によるどのような回答がなされていたのか、以下に3つ例を挙げてみました。

耐震性能の実験施設について
2005年10月31日、吉井議員は「原発の危険から国民の安全を守る事に関する質問趣意書」を提出しています。この質問は、多度津にある耐震性能実験を行っていた工学試験所が閉鎖された件に関してです。この試験所の大型高性能振動台を使って行われていた耐震性能実験は、経済的理由で2005年3月末で終了し、同年9月には試験所は閉鎖されました。質問の要点は、「運用開始後30年たっている老朽原発の巨大地震発生時の安全性の検証は多度津の起振台を使って実証実験を行うことにより、これから解明されていかなければならない問題である」とし、「来年度以降も引き続き多度津の起震台を運用して巨大地震対策に必要な実証実験を行う考えに立つべきではないか」ということでした。

それに対する当時の小泉総理大臣の回答は、「必ずしも多度津の振動台を用いた実物大の試験体による試験を行わなくても、他の研究機関の試験設備による試験、及びその試験結果のコンピューター解析によって、安全上重要な設備の地震時の挙動を把握することが十分に可能である」というものでした。

吉井議員は、その後2006年3月1日の衆議院予算委員会でも多度津の試験所の件を追求しています。建設時には310億円で国の補助金と税金で建設したものが、2億7700万円で売却されていたことを指摘し、「年間僅か10億円のこれを維持する技術屋さんらの給料が、節約しなきゃいけない、行革だといって切ってしまったんですね。しかし、年間一千億近い原発立地地域の三法交付金からすれば、10億ぐらい安いものだと思うんですが」と述べています。しかし、既に施設は売却済みで、手の打ちようがありませんでした。

津波で冷却設備が被害を受ける可能性について
2006年3月1日の衆議院予算委員会で、吉井議員は、地震による津波発生時の冷却機器の作動についても質問しています。発電所に進入してくる高波によって冷却設備が水没する可能性と共に、引き波によって海面が冷却水の取水口より低下し、水が取り込めなくなる可能性を危惧したためです。「すべての原発のそれぞれの取水口の位置と、波が引いたときの海水面の高さが標準水面からいくら下に来ているのかの関係を明らかにして、巨大地震の発生時にも機器の冷却がうまくいくのか、国内のすべての原発について示せ」と迫りました。

それに対する広瀬研吉・原子力保安院長の回答は、「水位が6メートル低下した場合には44基が一時的に下回る」が、取水槽等によりより必要な海水を取水できるよう設計されている、原子炉隔離時冷却系統により原子炉を冷却できる対策が講じられている、と答えています。また、浜岡原発の例では、冷却系に必要な量の海水が取水層に20分間分以上確保されていて、その間に水位が回復するので安全性は確保されている、とも答えています。要するに、冷却設備に問題はないということです。

炉心溶融の際の被曝被害のアセスメントについて
更に、2010年4月9日の衆議院経済産業委員会においては、炉心溶融が起こった場合の想定される放射能の総量と、被曝の及ぶ地域の範囲についての質疑も行なわれました。吉井議員は、「被曝量が7シーベルト以上の地域は何キロの範囲で、そこに住んでいる人口はどれくらいか、(略)、1シーベルトから0.25シーベルトの場合、その範囲はそれぞれ何キロで、居住している人口はいくらかと、きちんとアセスメントを行なっておく。それに対していろいろな対策も考えなきゃいけない」「これは各電力会社にそういう試算を行いなさいという指示を出すことが必要ではないか」と訴えています。

これに対し、直島正行・国務大臣の返答は、「多重防衛でしっかり事故を防いでいく、いわゆるトラブル等があっても、委員が御指摘のようなメルトダウンを起こさない、このための様々な仕組みを作っていくということです」「御指摘の点は、論理的な面で言うとそういうものを検討してみてもいいじゃないかということについては私も論理的には理解できます。(略)今日のところは、吉井先生からの問題指摘ということで受け止めさせていただければと思います」というものでした。同様に、寺坂信昭・原子力保安院長も、多重防護で安全確保をしている、といった答弁に終始しました。要するに、アセスメントは必要ないということで、最悪の事態が起きた場合の被害予測をし、その対策を講じようという姿勢は見られなかったのです。

🎨有権者として目を光らせていなければならないこと
私たち国民の代表である国会議員がそのような立派な議員活動をしていたにもかかわらず、議員の活動や発していた警告を、私はほとんど知りませんでした。そのことを痛烈に反省しています。私を含め、多くの人々が知らなかった、または注意していなかったことは、極めて遺憾なことであり一人一人が重く受け止めなければならないと思います。

もちろん、国会で行われる討論の一部始終を私たちがすべて把握することはなかなか困難です。そのために、報道メディアというものがありますが、大手の新聞でもテレビでも、私が知る限り吉井議員の質問のことを大きく取り上げることはなく、国民に知れ渡ることも波紋を呼ぶこともありませんでした。政府にとって都合が悪いことをわざわざ取り上げたり、問題を掘り起こすようなことはしないのが日本の大手マスコミの傾向ですから、それも無理はありませんが。もちろん、マスコミ報道のすべてが歪んでいるというわけではありませんが、よくよく眼を凝らして見ていくと、誰をどのように批判するか、何をどこまで追及するかは、マスコミのさじ加減一つの場合もあります。いずれにしても、私たちが忘れてはならないのは、マスコミで報道されていること、日々取り上げられていることがすべてではないということです。ニュースに取り上げられず、あまり知られていないけれども、実は国民一人一人にとって重要な案件というのはたくさんあるのです。原発問題は、この落とし穴の中にありました。

本当に大切なことを見逃さないために、私たち市民はもっと目を光らせていなければなりません。私は、「報道されなかったから知りませんでした」では済まされない有権者としての責任が国民一人一人にあると考えています。これは、政府や東電の負っている責任とは異なる種類のものです。例えば、国会の議事録は今では誰でもネット上で簡単に閲覧できます。もちろん、国政の一部始終を一般国民が把握することは難しいでしょう。それに官僚と業界の癒着などという裏舞台のことは、個人の立場で追及することは困難です。

でも、国民の代表である国会議員には、国がやっていることは何かおかしい、と思ったならそれを調査したり国や大臣に直接質問したりできる権限があります。ですから、私たちは有権者として自分たちが選んだ国会議員たちの活動を注意深く見守らなければないのです。にもかかわらず、吉井議員が執拗なほどに追求していた原発の安全性に関する質疑に注意を払ってこなかった私たちには、極めて大きな反省点があることに気付かなければなりません。

🎨日本社会の構造的問題
既に述べましたが、原発の安全性を市民レベルでよく見定める努力を怠り、原発周辺に住んでいないからと人ごとで済ませたり、マスコミで薄められた報道でなんとなく安心してしまっていた国民の無責任・無関心、有権者意識の低さは、結果として、行政の怠慢や過失を招く組織のあり方、利益優先型の官・政・業の癒着を許容してきた、そういう構図がはっきり見えてきました。ここに、日本社会の構造的問題があると私は考えます。

世論調査では、福島原発の事故に対する政府の取り組みに対しては、「まったく評価しない」(23%)と「あまり評価しない」(45%)と合わせ、否定的な回答が68%に上っています(4月18日 毎日新聞)。確かに、事故後の政府や東電の後手後手に回った対応は、誰が見てもあきれます。今の日本のリーダーが危機対応能力に欠けているのは実に不幸なことで、被災している方々の思いを考えると言葉にもなりません。

しかし、だからといってそれだけで菅さんや枝野さんを責めても仕方がありません。現政権を擁護するわけではありませんが、仮にトップの顔を変えたところで、根本的な解決にはならないでしょう。そもそも、今回の人災を起こしたのは、原発推進派の自民党政治家や官僚たちであり、今の民主党政権の人物が直接関わっていたわけではありません。自民党時代の原子力政策を受け継いだだけの菅政権に、このような事態に対応できる準備ができていたはずもありません。もちろん、問われているのは災害・復興への対応や原発事故処理です。どこまでこの根本的な構造的問題をえぐり出し、責任を追及出来るかが問われているわけですが、党内分裂寸前、空前の灯火の政権では、望むべくもないでしょう。既に災害以前から倒壊一歩手前の内閣でした。

しかし、私は、日本の政治をこのような腰抜け、骨抜きなものにしてきてしまった原因は、やはり、私たち国民にその責任の一端があると考えています。先ほどの、日本社会の構造的問題は今しがたはじまったものではありません。戦後の廃墟から立ち上がり、昭和の高度経済成長を遂げ先進国の仲間入りをし、そして人口高齢化と共に新たな問題を抱えた21世紀の日本。しかし、この世紀以上にわたる歩みを経た今、私たちは本当の意味で成熟した社会、公正で人の命が尊重される豊かな社会を実現することはできていません。

社会を構成する様々なより糸が丹念に編みこまれて国家という美しいタペストリーを作り出す代わりに、完成予想図すら描かれないまま、かといって元通り糸を解きほぐすこともできずに未完成な姿を晒しているのが今の日本です。その解きほぐすことが不可能なまでに固く絡まり既成事実化してしまっている編み目、それが、いわば日本社会の構造的問題です。

🎨新たな国のタペストリーを織り成すために
私たちが気付かなくてはいけないことは、この日本社会の構造的問題により、国民自身が不利益を被むるであろう事態は、原発に限らないということです。私たち国民に見えていないだけで、今回のような危険な落とし穴は他にもあるかもしれない、それを危惧しています。まずこの社会の構造的問題に私たち有権者たちが気付き、その上で何をすべきかよく考えて行動し、それが政治に影響を及ぼす力となっていかない限り、この社会構造は変わることはありません。また、それが変わらない限り、何か別の問題が私たちが忘れた頃に別の形で持ち上がり、再び私たち国民の首を絞めることになるでしょう。

政治家・官僚・業界が持つ権力というものは自然になくなることはありません。権力は、それを抑制する力がなければ横行するという、ごく単純な力学です。そして、抑制する力とは、言論の自由、有権者意識の高さ、そして国民の行動力だと考えます。権力の横行を許してきてしまったのは、日本人の、よく言えば善良で辛抱強く、権利を主張するより協調性を重んじる国民性であり、厳しい言い方をすれば、お上にお任せという精神風土であり、国政への無関心や怠慢であり、行動力の欠如であると思います。こうした、少しくらいのことは我慢してしまうお人好しの国民性や、国民の有権者意識の低さほど、権力や財力を温存したい政・官・業にとって好都合なものはなく、日本社会の構造的問題は、この両者の産物といえるでしょう。

今回の原発事故を受けて、私たちは、結局苦しい立場に立たされるのは自分たち、国民の側なのだということを強く認識し直さなければなりません。そして、第二の「フクシマ」を起こさないために、また他のいかなる悲劇によっても自分たちやその子どもの世代を苦しめないために、やはり私たちは、善良なだけれども何もしない無関心な国民から一歩踏み出して、知恵をつけて、行動を起こす国民にならなければならないのです。短絡的に政府を批判するのではなく、まずは一人一人が有権者意識を高め、その責任について認識したうえで、必要とあらば権力と対峙しなければなりません。そのような努力あってこそ、ゆくゆくは本当の意味で豊かな成熟した社会の実現が可能なのではないでしょうか。

私自身、今回の検証を通して、政府に厳しい目を向けるということは、同時に自分にも厳しい目を向けるということであると、痛切に感じています。個人にとっての恩恵の有無だけでなく、国全体にとって恩恵を長期的視野で考え、議論に備えていかなけれればなりません。いざことが起きてからではなく、普段から常に様々な分野にアンテナを張っている必要があります。もちろん一人ではできることではありません。市民の集まり、国民の代表である国会議員などへの支援、政府の仕事を監視するNPOのような機関、ネット上の自由な言論サイトやネットワークといった民間レベルの活動が既に活発に行なわれています。そのような活動に更に多くの人が加わって盛んになり、政治をも動かす力となっていくことが期待されます。そうなっていったときはじめて、固く絡まったより糸の結び目は少しずつ解きほぐされ、同じ糸で再び新たな国のタペストリー−日本の希望ある未来の予想図−を織り直していくことができるのではないでしょうか。
posted by Oceanlove at 14:24| 震災関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月03日

被災者支援の小さな活動 カリフォルニアの小都市から

前回の記事で、海外在住の日本人の思いについて次のように書きました。

災害当初から、私たち在外の日本人もみな心えぐられるような思いでテレビ画面を見つめてきました。現地に飛んでいって被災した人々を助けたい、何かできることはないだろうか・・・そういういても立ってもいられない気持ちは、日本にいる人々と変わりはないと思います。遠くにいるもどかしさに苛まれながら、そして平常の生活を送っていることへの罪悪感と折り合いをつけながら、でも何かせずにはいられずに、支援活動などを始めています。

今回は、その支援活動の様子について、レポートしたいと思います。

🎨義援金集めのヤードセール
記事の主役は、カリフォルニア州某市近郊に住む総勢30人ほどの日本人女性たちです。正式な団体ではなく、普段から子育てや趣味などを通して付き合いのある、年齢不詳、しかし気持ちは年齢よりずっと若い女性たちのカジュアルなグループです。3月11日の地震発生直後、互いに連絡を取り合い、日本にいる家族の安否を確認しあうなど、Eメールでの情報交換が始まりました。そして、僅か2日後の13日、ニュースを見ているだけなんてたまらない、何かの支援がしたい、そんな一人一人の沸騰した思いから飛び出すように、義援金集めのためのヤードセールの計画が立ち上がりました。

アメリカのヤードセールというのは、普通、自宅のガレージや前庭で、不用品や中古品を安く売り出すもので、誰でも気軽に行うことができます。家庭で使わなくなった家具やキッチン用品、子供の本やおもちゃ、古着、雑多なものが並べられます。広告を見て買いに来る人もいれば、通りがかりの人が立ち寄っていくことも。高く売ろうなどと欲張らず、どんどん安く引き取ってもらうのがヤードセールの基本です。売る側は粗大ゴミを出さずにすみ、リサイクルしながら多少なりとも収入が得られますし、買う側にとっては掘り出し物があったり、まだ十分使えるものが激安で手に入るので、一挙両得なのです。

そこで、数人のメンバーが中心となり、合同ヤードセールを開き、その売り上げを日本の被災者支援に寄付する企画が、速やかに練られていきました。

善は急げで、開催日は10日後に決まりです。まずは大事な場所選びです。通常は、自宅で行うのがお決まりのヤードセールですが、今回は大勢の人々に来てもらうため、交通量や人通りの多い場所、駐車スペースがある場所、雨天に備えて屋根がある場所などが必要条件です。始めは、カレッジ・キャンパスや広い公園などでできないかと考えました。メンバーの中には、雨の中、町中の公園を下見に廻ってくれたり、大学のオフィスに問い合わせたり、関係のキリスト教会に協力を打診してくれる人もいました。しかし、私たちが正式なNPOなどの団体ではないこと、公園等公共施設では収益を上げる活動はできないことなどで、ハードルがクリアできません。

結局、場所はグループ内のKさんのご主人が経営する会社のスペースを善意で貸して下さることになりました。広さも駐車場の心配もなく、トイレや控え室もあります。ただ、週末は人通りの少ないオフィス街にあるため、果たして土曜日のヤードセールにどれだけ集客することができるか、それが最大の鍵となりました。ならば、徹底的な広告戦略で行こう!ということに。広告と口コミで広めて被災者支援の目的を持って足を運んでもらうしかありません。

🎨女性たちの底力
一方、企画を盛り上げる様々な案が次々に提案されてゆきます。単なるヤードセールではなく、日本の文化を紹介もかねて手作りのクラフトなども売ったらどうか?買わなくても募金をしてもらえるように募金箱を設置しよう。広告には被災者支援の目的を明記すべし。地震・津波被害の状況を伝えるコーナーを作ってはどうか?募金してくれた方にお礼の和風しおりを渡そう・・・などなど。百戦錬磨の女性たちが20人以上も集まれば、それはそれは、もうたくさんっ!!というくらいのアイデアが湧き出てくるのです。

それから、一週間というもの、Fundraiser and Sale for Tsunami Victims in Japanと銘打った支援活動に、十数名のメンバーが奔走しました。それぞれが得意な分野でリーダーシップを発揮し、適材適所で無理なく、そして和気合い合いと準備は進んで行きました。

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広告のビラを作成してくれた人、新聞等に広告を載せてくれた人、ビラをスーパーやカフェや町中に貼りまわってくれた人、サンプル商品の写真付きオンライン広告を出してくれた人、折り紙の鶴を黙々と折ってくれた人、被災地のマップを作ってくれた人、書道のデモを担当してくれた人、キャノピーやテーブルを提供してくれた人、悪天候の中一日販売をしてくれた人、お金の管理と送金の手続きをしてくれた人、当日これなくても出品してくれた人、セール開催中に奥でベビーシッターをしていてくれた人、売れ残った品を次回のセール用に引き取ってくれた人、差し入れのおにぎりや温かいお茶を用意してくれた人、その他ここに書ききれない細かい詰めを、人知れず陰でやってくれた人・・・。

そればかりではありません。女性たちが、日常の仕事や家事や子供たちのために時間が費やせない分を補うように、それぞれの夫や家族が応援・協力してくれました。シャイなご主人も、実は目立ちたがりのご主人も、日本語がペラペラのご主人もそうでないご主人も、企画のアドバイス、商品の運搬などを手伝ってくれ、実に頼もしい限りです。

🎨思いと行動の結晶
当日は、朝から雨。気温も低く、予想されていたとはいえ、ヤードセールにはとてもアンラッキーな天候となってしまいました。準備は朝7時過ぎから始まりました。商品が濡れないようにシートで覆ったり、風で飛ばされないように固定したり、余計に注意を払わなくてはなりません。売り場スペースは約3メートル四方のブース4つ分。大量に集められた品物・商品で、ブースは埋め尽くされます。商品は、1ドル以下の小物から、100ドル以上のものまで様々。始めは客足は鈍かったものの、日が高くなるにつ入れて訪れる人々は続々と増え、数人の売り子さんで各ブースをカバーするのにてんてこ舞となりました。

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通常のヤードセールの常連タさんイプではなく、明らかに広告を見てきてくれた、被災者支援に協力する意思を持ってきてくださった方が大部分です。日本の文化に関心を持っている人もいて、和風のクラフトやアートなどがとても好評でした。お客さんのなかには、商品を買ってくれて、そのうえ寄付をしてくれる方もいました。ただ、黙って大口の小切手を寄付をして下さる方もいました。

私たちの小さな活動は、雨天の中詰めかけて下さった多くのアメリカの方々のお陰で素晴らしい成果を上げることができました。ちりも積もれば・・・とはまさにこのことです。売り上げと寄付をすべて合わせて、合計計5685.46ドルとなりました。私たちの予想をはるかに超えた金額です。著名な方々の募金に比べたら取るに足らない額かも知れませんが、これは「海外に住む私たち日本人一人一人の思い」を行動に移したその結晶です。金額もさることながら、アメリカの皆さんの、被災した方々への励まし、「少しでも支援したい」という温かい心を、私たちは直に感じることができました。そしてそれは必ずや、被災地の人々の心に届いてくれるに違いないと願っています。

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🎨義援金の送り先
今回集まった義援金は、すべてサンフランシスコ日本領事館領事宛に送られました。領事館では、受け取った義捐金をすべて日本赤十字社に送金するとしています。

日本赤十字社のHPには以下のように書かれています。

日本赤十字社では、今回の震災の被害が甚大かつ広範囲に及んでいることから、被災された方々への義援金を受け付けております。この義援金は、今後、被災県で設置される義援金配分委員会に全額が送金され、同委員会で定める配分基準により、被災された方々に届けられます。日本赤十字社では、少しでも早くこの配分委員会が設置され配分が開始されますよう国や関係自治体に要請しています。

つまり、災害義援金は、日本赤十字社の一般事業への寄付金とは分けられており、その用途も異なるということです。集められた義援金はすべて義援金配分委員会(被災自治体、日本赤十字社、報道機関などで構成される第三者機関)へ一括して集められ、そこで配分基準を作成し、被災された方々へ現金で配られるということです。

🎨義援金の配分について
ところで、義援金は被災者の方々に、どのくらいどのように配分されるのでしょうか?
参考までに、阪神淡路大震災の時の記録を見てみました。報道機関(NHKなど)、企業の共同募金、日赤などを通じて寄せられた義援金は、1996年4月5日現在で、総額1759億5000万円でした。これはすべて、「兵庫県南部地震災害義援金募集委員会」(兵庫県,大阪府,神戸市,兵庫県市長会,兵庫県町村会,日本赤十字社兵庫県支部,兵庫県共同募金会等26機関で構成)に託され、その決定により、被災者へ配分されています。配分額は次の通りです(平成8年版 厚生白書より)。

• 死亡者・行方不明者見舞金・・・10万円
• 重傷者見舞金・・・5万円
• 住宅全・半壊・・・10万円
• 被災児助成金・・・1〜5万円
• 住宅助成金・・・30万円
• 被災児特別教育資金(両親を失った遺児)・・・100万円

1億8千万円という多額の義援金(分子)が集まったのですが、住宅全・半壊で義援金を受け取った人だけで44万5千人にもなるなど、被災者数(分母)も大きく、従って、一人当たりの配分額は10万円程度となっています。最高額を受け取ったのは、父母共に死亡した災害遺児で100万円です。100万円では、これからの生活や教育のほんの僅かな足しにしかなりませんが、遺児たちの将来のために最高額が配分されたことを嬉しく思います。

今回の東北関東大震災では、被害地域も死者・行方不明者の数も阪神淡路大震災よりはるかに大きくなっています。義援金の受け取り手である被災者数(分母)は過去に例のないものとなることが予想されています。

政府は、今回の震災の直接被害額を16〜25兆円と試算しているようですが、福島原発の問題を含めれば、さらに経済被害額は拡大するでしょう。その中で、義援金を送ることは、民間レベル、個人レベルでできる最大の支援の一つであることは間違いありません。

日赤によると、1995年の阪神淡路大震災では、1月17日の発生から2週間後の1月31日までに164億577万円、3月31日までに892億2310万円が集まりました。今回の東北関東大震災では、3月29日までに594億と、阪神淡路大震災時を大きく上回るペースで義援金が寄せられているようです(日赤HPより、日本国内のみ集計)。

日本中、世界中の人々からの温かい心と励ましと共に寄せられている多くの義援金が、より速やかに、効率よく配分され、被災された方々の少しでも大きな支えとなってくれることを願っています。

posted by Oceanlove at 06:07| 震災関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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