2010年07月15日

情操教育を通して見た日米教育比較 その(3) 「本当のゆとり教育」を目指して 

この記事は、3回シリーズ「情操教育を通して見た日米教育比較」
その(1)息子が参加した日本での音楽会
その(2)アメリカにおける新しい芸術教育の試み

に続く最終回です。

「ゆとり教育」から「脱ゆとり教育へ」
さて、再び話は日本の教育に戻ります。PISA(OECD生徒の学習到達度調査)における日本の順位が、2000年から2006年にかけて科学・数学・読解力の3分野全てで下がり、「理数離れ」「数学・科学応用力の落ち込み」「考える力の低下」ということが指摘されているとは前に書きました。文部科学省は、ゆとり教育を目指した学習指導要領に問題があったとしています。ゆとり教育に関しては、大まかに以下のようなことが指摘されてきました。

・授業時間が減った分内容も大きく削られたので、実質6時間で12のことを勉強していたのを、5時間で10に変わっただけ。一つ一つの内容に時間をかけたり、内容を深めた学習にはなっていなかった。その結果、取得する学習内容が減少し、各国との比較では「到達度調査」の順位が下がった。
・週休二日制は、「親子で過ごす時間」「学校以外の活動に充てる時間」を増やす意図があったにも関わらず、有効な活用ができていなかった。親子のコミュニケーションの増加にはつながらなかったり、家庭の経済力によっては土曜日の習い事や塾通いなどで生徒間の格差が広まったりした。
・ゆとり教育の目的の一つであった「創造性」や「解決能力」を養うということが、目に見える成果につながっていないこと。創造性教育を始めとするゆとり教育に必要な指導を、現場の教師たちが手探りで取り組むような状態だった。

そして、2008年に再び学習指導要領は改訂され、来年春から使われる小学生の教科書が軒並み3割厚くなることになったわけです。つまり、「脱ゆとり教育」を目指し、ゆとり教育で削減された内容が復活し、算数では33.3%増、理科では36.7%増の内容となっているといいます。

水泳で言えば、「全員が100メートル泳げるようになること」がかつての詰め込み教育だとすると、ゆとり教育では「全員が70メートル泳げるようにすること」とハードルを下げました。その結果、余裕はあるけれど、本来100メートル泳げる子供は物足りなく、塾通いなどは加速し、一方で全体としてのレベルは下がってきてしまったというのが、PISAの結果であり、ゆとり教育の弊害と見なされているわけです。そして再び「100メートルを目指す」内容になっているようです。

素人考えでいえば、全体的な学力の低下が指摘される中で、教科書の内容が現在より充実したものになることは悪い方向ではないとは思います。しかし、また詰め込み型の学習に戻ったのでは、例えPISAの順位が上がったところで、これから日本が目指すべき教育の姿とはいえません。そもそも、ゆとり教育の理念は、「生きる力の育成」だったはずです。中央教育審議会では、「生きる力」を以下のようにうたっています。

[生きる力]は、これからの変化の激しい社会において、いかなる場面でも他人と協調しつつ自律的に社会生活を送っていくために必要となる、人間としての実践的な力である。それは、紙の上だけの知識でなく、生きていくための「知恵」とも言うべきものであり、我々の文化や社会についての知識を基礎にしつつ、社会生活において実際に生かされるものでなければならない。http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/chuuou/toushin/960701e.htm

「脱ゆとり」と称される2008年の学習指導要領は、「ゆとり教育で削減された内容の復活」と同時に、「知識・技能を活用する学習(観察・実験、レポート作成、討論など)」の充実にも重点が置かれているようです。これは、非常に重要なポイントだと思います。子供たちが知識だけでなく活用力をつけるには、課題を考えたり、文章や図・グラフに表したり、発表や討論などをし合ったりする授業が必要となります。このような授業では、子供たちは「正解がなかったり回答がひとつではない課題について突き詰めて考えること」「他の人の意見を聞き尊重すること」「その上で自分なりの考えをまとめること」などを経験することになります。そのような経験は、前述の「これからの変化の激しい社会において、いかなる場面でも他人と協調しつつ自律的に社会生活を送っていくために必要となる、人間としての実践的な力」、つまり、「生きる力」につながっていくでしょう。脱ゆとり教育は、「詰め込み型への後退」ではなく、そのような「生きる力」を育む「本当のゆとり教育」への前進とならなければなりません

と同時に、私たちは、「生きる力」というのは一朝一夕に習得できるものではなく、必ずしも従来の学力テストで測れるものでもないことを理解しておく必要があります。学習指導要領が変わり、新年度からの教科書が厚くなっても、「OECD生徒の学習到達度調査」の各国別順位が急に上がるようなことはないかもしれません。というよりむしろ、本当の「生きる力」は、詰め込み教育型の能力判定テストと同じ尺度では測れないのですから、その順位に一喜一憂することは無意味になります。

日本の「本当のゆとり教育」と、アメリカの「芸術教育の新しい試み」
では、100メートル泳げる子と、10メートルしか泳げない子が共存するクラスで、「本当のゆとり教育」を実践するとは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか?私は、理想的な教育とは、「100メートル泳げる子供がシラけずに更に意欲的に上を目指し、且つ、10メートルしか泳げない子供があきらめずに20メートルを目指してがんばれるような環境を作り出す」ことだと思います。そういった環境は教師が一人で作り出すものではありませんし、生徒全員に個別の指導を行うとか、能力別のクラス編成にするといった類のことをいっているのではありません。泳げる子が泳げない子をバカにしたり軽蔑したりせず、泳げない子が引け目を感じたり自信をなくしたりしない、そんな環境。泳げる子が泳げない子を励ましたり、泳げない子が泳げる子の泳ぎを見習うことが自然に行われる環境です。そのような環境を作り出すための大前提として、教師がまず子供たちに教えなければいけないことは、「人は誰もが違うことを認めること」「互いを尊重しあうこと」「共感を持って行動すること」ではないでしょうか。

泳げる、泳げない。絵が得意、絵が不得意。計算が速い、計算が遅い。お金持ち、目立ちたがり、泣き虫、ドッジボールが上手い、忘れっぽい、大食い、世話好き・・・。本当に多種多様な能力とキャラクターの入り混じるクラスは、大人社会の縮図のようなものです。日本全体に広がる格差社会の影響は子供たちが受ける教育の量や質にも格差をもたらし始めています。好むと好まざるとに関わらず、このような現実をまず認めなければなりません。その中で、「互いを尊重し合い」「共感を持って行動する」ことを教える教育は、国語・算数・理科・社会の主要4科目を教える授業ではできるはずもないでしょう。ではどんな教育によって教えることができるのでしょうか?それはきっと、「自然や動物と触れ合う」「美しい音楽や芸術、文学にたくさん触れる」「スポーツでチーム一丸となって挑む」「ボランティア活動をする」そして何よりも「感動的な体験をたくさんする」ことによって育まれる、それに尽きると私は思うのです。だから、私は音楽や美術を含む情操教育はかけがえのないものだと思うのです。

ここまで、主に情操教育を通して見た日米の教育事情、それぞれの教育が抱える問題点と新たな挑戦について書いてきました。テーマがいささか壮大すぎ、日米の教育比較などと大仰なタイトルをつけてしまったことを後悔しています。でも、焦点が定まらぬまま文章を書きつづっているうちに、あることが私の中で忽然と繋がってきました。それは、本稿の二つのテーマ−日本の「本当のゆとり教育」とアメリカにおける「芸術教育の新しい試み」は同じ方向を目指しているということです。社会背景も教育の問題点も大きく異なる両国ですが、両者に共通しているのは、子供たちに「生きる力」−自律心や協調性、考える力、共感できる温かい心など−を育む教育を目指し変遷する姿でした。

しかし、アメリカでは音楽や美術の“失われた30年”を取り戻すことから始めなければならないのに対し、日本ではその情操教育の伝統は脈々と受け継がれ、義務教育におけるその地位も時間もしっかりと確保されているのです。公立小学校で、主要4科目以外の学習−音楽・美術・体育・書道・道徳など−に全体の4割近い時間が当てられていること−誰もが当たり前のように思っているこの情操教育は、日本の誇るべき財産なのです。もちろん、日本の教育には今回取り上げなかった様々な問題もあるでしょうし、現場の先生方には私には見えないご苦労もあるでしょう。これからもっと創意工夫が求められ先生方の力量が問われることにもなるかもしれません。でも、私がぜひ、声を大にして言いたいのは、日本の学校教育が既に持っている素晴らしい財産を失わないで欲しい、まずはそれを大切にしていって欲しいということです。そして、(アメリカより)優れているのだから・・・と慢心せずに、さらによりよい教育を目指していって欲しいということです。

話は、一番最初に戻りますが、息子にとって連合音楽会は素晴らしい体験でした。でも今回私が感銘を受けたのは、それだけではなかったとも書きました。二人の子供たちは、それぞれ音楽の授業でリコーダーの練習もしましたし、習字の道具をお友達から借りて書道をしたり、体育では何度もプールの授業がありました(アメリカのほとんどの公立学校にはプールの設備はありません)。ドッジボール大会では、全校生徒が学校の体育着を着ていました。「この体育着は、ワールドカップに出場した日本チームのユニフォームのように、私たちの学校のユニフォームなのです。だから責任と誇りをもって大会を楽しみましょう」という先生言葉は、団結力やチームワークの大切さを伝えるメッセージとして印象的でした。娘の教室ではバッタやカマキリを育てていました。最終日に、蝶が卵からかえる瞬間を目撃した時の子供たちの目は実に活き活きとしていました。息子のクラスで行った新聞制作やお友達への誕生日カード作りなどの手間隙かかる創作活動も、人と人をつなぐ素晴らしい授業だと思いました。テストの点数にはすぐには反映されないかもしれないけれど、このような子供の「生きる力」を育む素晴らしい指導を私は目の当たりにし、大きな感銘を受けたのです。

まだあります。毎日朝の会で全員で歌を唄うこと(アメリカでは朝の会なるもの自体ありません)、全員で教室や学校のそうじをすること(あちらでは学校のそうじは一切、清掃職員に任されています)、授業の始まりと終わりに挨拶をすること、帰りの会で「今日あった良いこと」を報告しあうこと・・・・。日本では当たり前の光景かもしれませんが、アメリカから見たら驚くような、誇るべき素晴らしい日本の学校教育の一端です。

改めて、子供たちに日本での体験入学の機会が与えられたことに心から感謝します。お世話になった先生方、仲良くなったお友達、日本の学校生活の経験の一つ一つが子供たちの胸に刻まれ、彼らの人生の糧となってくれることでしょう。最後に、本稿を書くための資料をいろいろ調べている最中に目に留まった以下の二つの文章をそのまま引用したいと思います。

文部科学省・中央教育審議会の答申より。

[生きる力]は、理性的な判断力や合理的な精神だけでなく、美しいものや自然に感動する心といった柔らかな感性を含むものである。さらに、よい行いに感銘し、間違った行いを憎むといった正義感や公正さを重んじる心、生命を大切にし、人権を尊重する心などの基本的な倫理観や、他人を思いやる心や優しさ、相手の立場になって考えたり、共感することのできる温かい心、ボランティアなど社会貢献の精神も、[生きる力]を形作る大切な柱である。アメリカ・アリゾナ州の州教育長であるトム・ホルン氏の言葉。

When you think about the purposes of education, there are three," Horne says. "We're preparing kids for jobs. We're preparing them to be citizens. And we're teaching them to be human beings who can enjoy the deeper forms of beauty. The third is as important as the other two."

教育の目標は3つある。第一に子供たちを将来職を得る準備をさせること、第二によき市民となる準備をすること、そして、第三に人間らしさ−生きることの奥深い美しさを味わうこと−教えることである。3番目は、他の二つと同様に大切である。


posted by Oceanlove at 02:34| カルチュラル・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月09日

情操教育を通して見た日米教育比較  その(2)アメリカにおける新しい芸術教育の試み

この記事は、3回シリーズ「情操教育を通して見た日米教育比較」の第2回です。
前回、アメリカの公教育の中で音楽などの芸術教育が行われなくなってしまっている現状について書きました。アメリカでの公教育の実情や子供たちの学力について、少し詳しく見て見ます。

一年間の授業日数の日米比較
ここで、年間の授業時間数について日米比較してみました。

A:国・算・理・社(主要科目時間数)
B:音・図・体・道・その他(その他科目時間数)

日本
A:600(61.2%)
B:380(38.8%) 
合計980時間

アメリカ
A:547(70.1%)
B:233(29.9%) 
合計780時間

まず、日本の某市立小学校の今年度の学校要覧によると、4年生では一年間の国語・算数・理科・社会の4科目の合計時間数が600時間、音楽・図工・体育・道徳・総合の合計が380時間の計980時間となっています。主要4科目の割合は61%、その他の科目では38%となっています。

一方、アメリカの公立小学校小学1〜4年生の平均的な時間割を見てみます。アメリカ教育省教育統計センター(National Center for Education Staistics) 
の統計によると、一週間の授業時間数は31.2時間、そのうち英語(国語)・算数・理科・社会の4科目に費やされる時間は21.9時間と70%を越えています。一週間の時間数で見ると、英語は11.2時間、算数は5.6時間、理科と社会はそれぞれ2.3時間で、実に全体の35.6%が読み書きに費やされています。

前述の通りアメリカでは一年間の登校日数が180と短いので、実質の授業日数をおよそ175日として年間の合計時間数を換算すると、主要4科目は約547時間、その他の科目は233時間、合計では780時間となります。つまり、年間の授業時間数がおよそ200時間も少ない分、どうしても主要4科目に偏重せざるを得ないのです。それでも、主要4科目の授業時間数は日本の時間数を大幅に下回っているのですから、音楽・図工・体育といった科目に費やす余裕がないことは容易に想像できます。

落ちこぼれゼロ政策の失敗
さらに、追い討ちをかけるような制度が、ブッシュ政権時代の2001年に導入されました。通称「落ちこぼれゼロ政策」(“No Child Left Behind Act”)と呼ばれる政策です。毎年、年度末に各州ごとに一斉の学力判定テストが行われ、この学力テストで合格ラインを満たさない子供は進級させないことで、「落ちこぼれゼロ」を達成しようとしたのです。連邦政府の教育関連予算は、この政策の実施のため2001年の422億ドルから2007年の544億ドルへと大幅に増加したりしました。しかし、一斉テストによって一人一人の学力が把握ができる一方で、様々な弊害が指摘され、政策の有益性が疑問視されています。

学校現場では、学校全体の成績が良くないと学校や教師の評価が下がり、学校の評判が下がると子供たちをより評判のよい学校に行かせようとする親が増えるので生徒数が減り、その結果学校の予算も削られることになります(生徒数に応じて予算が配分される仕組みです)。従って、現場では学力判定テストの点数を上げることに躍起になり、学年末近くになると他の授業を削ってテスト対策に多大な時間を費やします。落ちこぼれゼロ政策が施行されてからの5年間で、英語と算数の授業がさらに増加する一方、他の科目が減少した学校は全体の44%に上っています。小学生のテスト内容は、英語と算数だけなので、通常の理科や社会の時間までが削られて、丸一日英語と算数の復習に追われるといった事態になるのです。

理科や社会が削られるのですから、音楽や図工に当てる時間など毛頭ありません。カリフォルニア州では、週教育委員会が、それぞれの学年における音楽、美術、演劇などの習得レベルの指針を一応は出しているのですが、2006年の調査では、小・中・高合わせて89%に当たる公立学校でこのレベルが満たされていませんでした。さらに、1999年から2004年の間に、音楽の授業を受けている生徒は小・中・高合わせて46%減少、音楽の教師の人数も26.7%減少しました。正規の音楽教師の採用がない学校は全体の67%にものぼっています。

学習到達度調査の日米比較
では、子供の学力についてはどうでしょうか。学力について、客観的な評価をすることはなかなか難しいことですが、文部科学省が日本の子供の学力を他国と比較する際に用いているPISA(Programme for International Student Assessment)の順位を参考にすることにします。PISAは、15歳の子供を対象に2000年から3年ごとに行われている「OECD生徒の学習到達度調査」で、2006年度には57カ国が参加しています。ここでは、比較のため日本とアメリカの順位をまとめてみました(表2)。

     表2:学習到達度調査の日米比較

日本    
      科学 数学 読解力    

2000年 2位 1位 8位    

2003年 2位 6位 14位    

2006年 6位  10位 15位    

アメリカ
    科学   数学   読解力(註)

2000年 14位  19位  9位

2003年   22位  28位  −

2006年   29位  35位  18位


(註)アメリカの「読解力」に関しては、データ不備で評価が無いので、アメリカ教育省所管の国立教育統計センターのリポートhttp://nces.ed.gov/pubs2008/2008017.pdf を使用しました。小学4年生の読解力の国際比較では、アメリカは2001年には9位(28か国参加)、2006年には18位(45カ国参加)という結果が出ています。

PISAにおける日本の順位は、2000年から2006年にかけて科学・数学・読解力の3分野全てで下がっていることから、「理数離れ」「数学・科学応用力の落ち込み」「考える力の低下」が指摘されました。それに対する文部省の見解は、学力低下の原因として授業時間の不足を挙げ、「活用力を上げるには基礎基本の知識が必要だ」「授業時間が足りていない」と、「ゆとり教育」を目指した学習指導要領に問題があったとしています。「ゆとり教育」に関しては、それだけで大きなテーマですが、次回改めて考察してみたいと思います。

一方のアメリカでは、ご覧の通り、日本よりはるかに順位は低く、先進国の中でも上位とはいえない状況です。2000年から2006年にかけて、科学で14位、22位、29位、算数で18位、28位、35位、読解力でも9位から18位へと順位を大幅に下げています。授業日数や学習時間が元々少ない上に、落ちこぼれゼロ政策で、他の教科を犠牲にしてまで英語や算数だけに偏った勉強をしている結果がこの有様です。さもありなんです。もちろん、アメリカは日本とは比べ物にならない格差社会である上に、人種問題、貧困問題、移民問題など深刻な問題が多数存在していますので、公的教育のレベルを一定に保つのは非常に困難です。少数のトップは世界のトップでありながら、ハイスクール・ドロップアウト(高校中退者)は、一年間に120万人、全体のおよそ3割にも上るのが現実のアメリカ社会です。

危機的状況にあるアメリカの公教育
教育問題は常に政治のテーマになっていますし、教育改革はお決まりのように毎回の選挙公約のひとつになっていたりします。最近では、三月にオバマ大統領が、中退者の多い高校がその流れを食い止めるための経済的支援と教師の拡充に9億ドルの予算を計上すると発表したのが耳に新しいところです。しかし、このような政府による教育政策も焼け石に水のように思われます。なぜなら、教育関連予算は慢性的な赤字となっている上、一昨年からの世界的不況の影響で、予算不足は悪化の一途をたどっており、各州と学区の現場は新たに授業日数を削減するという危機的状況に直面しているからです。最近では、なんと予算不足分を穴埋めし教員の解雇を防ぐために、週休3日制を取り入れている州が増えているのです。

現在、カリフォルニア州、バージニア州、ワシントン州など全米17州100校が週4日制を取り入れています。削られた一日分の授業は、4日間に振り分けられるため、一日あたりの時間数は増えることになります。しかし、用務員、カフェテリア(給食担当)の職員、スクールバスの運転手などの人件費や、交通費、光熱費を削減することができるのです。授業時間数は変更しないので教員の給与が減らされることはありませんが、他の職員、運転手などの給与は一日分減らされ最大およそ2割の削減になるというのです。週休3日を取り入れている学区はそれほど多いとはいえませんが、中でも多いのはコロラド州で、州内の前178学区のうち約3分の1が導入しています。ハワイ州では、2009年、年間17日の「休暇の金曜日」の導入を義務付けました(ウォール・ストリート・ジャーナル:2010年3月8日)。

アメリカに暮らし、普通の公立小学校に子供を通わせている親として、教育をめぐるこのような状況に危機感を覚えますし、子供たちの将来は、そしてアメリカという国の将来はどうなってしまうのかと憂慮せずにいられません。とても学校だけには任せておけず、多くの親たち、教育の専門家、NPO団体、地域のコミュニティー、キリスト教会などが、学校内外の様々な場で、スポーツや芸術活動、ボランティア活動に関わりながら子供たちの育成に関わっていこうと考え、行動を始めています。

アメリカの公教育における新しい芸術教育の試み
さて、話を音楽や美術などの芸術教育に戻します。このようなアメリカの公教育の危機的状況の中で、芸術教育に新たな潮流、すなわち「包括的で創造的な芸術教育」が始まっています。この新しい構想は、最先端の脳科学研究や人間の認知発達の研究成果−「芸術教育は、学校教育に期待されること、つまり親や社会が子供たちに与えたいことのすべてに深く関係している」−を根拠としています。音楽に親しむことが、脳の数学的思考、パターンの認識、記憶力などと深い関係があること、算数や読解力のみならず、集中力、認知力、ものを考える力、そして情緒の発達といった面にも大きく貢献しているという科学研究の結果が、より広く認知されつつあり、見過ごされてきた音楽や芸術教育の重要性が見直され始めているのです。大学の研究機関やNPOなどで、学校で音楽や美術の授業を取り入れることと、学校の標準テストの成績のプラスな相関関係についての多くの研究論文が発表され、教育現場でも公教育活性化のための画期的なツールとしての芸術の必要性を訴える声も高まってきています。

以下の文章は、フラン・スミス氏による記事「Why Arts Education is Crucial, and Who’s Doing it Best」を一部抜き出し要約したものです。


様々な公共政策に提言を行っているNPO団体“ランド・コーポレーション”の芸術に関する報告書(2005年)には次のように書かれています。「芸術によってもたらされる喜怒哀楽や共感は、単なる、個人の人生を豊かにするだけではない。芸術は、周りの人々との結びつきを強め、一種のコミュニティーを作り出し、人々をより広く深く世界へと繋げていく。そして、違った観点から物を見ることを教えてくれる。学校における音楽や芸術のカリキュラムは、格差の広がった子供たちのギャップを埋めることにも貢献している」。

また、「芸術は共感と忍耐を体験させてくれる」とは、芸術教育の普及に力を入れるウォーレス財団の研究・評価部門のディレクター、エドワード・パウリー氏の弁で、ジャズ音楽を鑑賞したり、「セールスマンの死」(アメリカ人作家アーサー・ミラーによる戯曲)を鑑賞したり、「アラバマ物語」を読むといった衝撃的な経験は、他のどんな教科からも学べるものではなく、芸術的体験からしか得られないとも述べている。

そこで訴えられている教育における新しい芸術教育とは、かつて学校で教えられてきた単なる歌や絵画、あるいは学問的な音楽や美術の授業とは少し異質なものです。それは、人間の学習能力を開花させ発達させるために有益であるのみならず、自律心や協調性、問題解決能力、創造力、積極性など、人間的成長に資するまさに「生きる力を育む源」として必要不可欠な体験としての芸術なのです。それが、先に述べた「包括的で創造的な芸術教育」の構想なのです。

この新しい芸術は、従来の音楽や美術の授業という枠にとらわれず、創造的なアプローチで柔軟に教育の中に取り入れられています。例えば・・・

音楽を他の学習のためのツールにする(分数を習う時音符を使う)
芸術を他の主要科目の要素に取り入れる(奴隷制度の歴史を学ぶ授業で自分たちが演劇を書いて演じる)
学校全体を芸術性豊かな環境に変える(モーツアルトの曲を校内放送で流す、制作アートで校内を飾る)


などです。子供たちに、この新しい芸術を体験する機会を与えよう、カリキュラムにも取り入れようという動きは、学校教育という枠を超え、アーティスト達やNPO、大学の教育学部や芸術学部、自治体や地域コミュニティー全体のコラボレーションという形ですでに各地で始まっています。例えば・・・

テキサス州ダラス市では、芸術家、慈善団体、教育関係者、企業家たちが共同参加して、市内のすべての学校に芸術の授業を取り入れ子供たちを市全体の芸術活動に取り込むための「ダラス芸術教育計画」を立ち上げました。何年も働きかけを続けた結果、現在、過去30年間で初めて、ダラス市のすべての小・中学校で週に45分間の美術と音楽の授業が行われるようになったのです。

アメリカの州の全ての子供たちに芸術教育を提供するのにはまだまだ到底及びませんが、ニューヨーク・シティー、シカゴ、ミネアポリスなどの各都市、アーカンザス州、イリノイ州、アリゾナ州などでもこのような新しい芸術教育の潮流が始まっています。

次回、「情操教育を通して見た日米教育比較 その(3)本当のゆとり教育を目指して」に続く・・・


posted by Oceanlove at 23:42| カルチュラル・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月05日

情操教育を通して見た日米教育比較  その(1) 息子が参加した日本での音楽会

日本の小学校での体験入学
我が家では、アメリカの学校が夏休みに入る毎年6月に1ヶ月ほど里帰りをします。その折に、二人の子供たちが小学校で3週間ほど体験入学をするのがここ数年の恒例となりました。今年、長男は小学4年生、長女は3年生のクラスに入れてもらうことになりました。このような短期間の入園・入学は、すでに幼稚園の頃から経験していますので、日本の生活習慣や学校生活にも大分慣れており、比較的すんなりと教室の中に溶け込んでいるようです。先生方やクラスのお友達も、「今年も待ってたよ」と温かく笑顔で迎えてくれました。

私の夫はアメリカ人です。子供たちはアメリカ生まれアメリカ育ちですが、私も夫も、彼らにできる限り両方の国の文化や伝統を受け継いで欲しいと切に願っています。こうして、祖父母の家での日本の生活・・・ご飯・味噌汁・納豆・漬物中心の朝食を食べ、寝る時は畳に布団を敷き、子供たちだけで歩いて通学する(アメリカでは車で送り迎えで、安全上子供だけで出歩く機会はまずありません)、そんな当たり前の生活を体験する中で、言葉を覚えるのみならず、アメリカとは異なる社会や文化、日本人の行動様式やものの考え方といったものを肌で感じて欲しい、そんな思いで子供たちを送り出しています。

公立小学校が、外国から来る子供たちをこのように温かく迎え入れてくれる体験入学という制度は、アメリカではあまり聞いたことがなく、皆に驚かれます。親としては、日本にこのような機会があることを大変ありがたく、快く迎え入れてくれる学校の先生方、クラスのお友達、保護者の皆さんにはただただ感謝しています。

息子が参加した連合音楽会
さて、私の実家のある某市では、毎年市内の全ての小学校の4年生全員による「連合音楽会」が開かれます。各学校ごとに、楽器の合奏や合唱を披露するもので、その歴史は昭和30年代にまでさかのぼる伝統のある音楽会です。私自身も、かつて参加したことを今でもよく覚えています。先週、息子の授業参観の日に、子供たちの演奏を生で聴くことができました。息子は、たった2週間しか練習する期間がなかったのですが、合奏ではタンバリンを、合唱は歌の歌詞を一生懸命覚えてみんなと一緒に歌うことができました。

曲目は、合奏はいきものがかりの「ジョイフル」、合唱は「You and I」という曲です。「ジョイフル」では、リコーダー、鍵盤ハーモニカ、アコーディオン、木琴、鉄琴、複数の打楽器、ピアノなど、様々な楽器が使われ、リズミカルでテンポの速いメロディーにのって迫力のある演奏を披露してくれました。「You & I」は、若松歓氏が作詞作曲し、かつて日本と韓国の子供たちの合唱で歌われた曲です。「歓びも悲しみも分かち合えたらいいのに」「世界中の友達がひとつになって、この思い宇宙(そら)に届けたい・・・」。歌詞が素晴らしく、人と人の心をつなぎひとつにしてくれる、胸を打たれる曲でした。

演奏の前に、子供たち一人一人が音楽会に参加した感想、練習の様子、どんなところが大変だったか、などを披露してくれました。「初めは、楽器ができるかどうか心配だったけど、少しずつ練習して吹けるようになったときはとても嬉しかった。」「一人一人が違う楽器を担当して、みんなで合わせたら素晴らしい曲になった」「音楽は、耳で聞くものではなく、心で聞くものだと先生に教わった」・・・。そんな、素直な初々しい感想が聞き、この子供たちは、知らず知らずのうちに、みんなと協力して何かひとつのものを作り上げる素晴らしさ、友達との共感など、音楽を通して何にも変えがたい素晴らしいことを学んだんだな・・・ととても嬉しくなりました。

息子は、自らこのような音楽演奏に加わったのは初めてのことでした。シャイな性格で、人前で何かの演技をするなど大の苦手の彼が、周りの子供たちの楽器に合わせリズムに乗ってタンバリンを叩いている様子、覚えたての歌をみんなと心を一つにして一生懸命うたっている姿は、私の親としての喜び、子を誇りに思う気持ちを大いに掻き立ててくれました。息子ながらに、音楽の素晴らしさを心に感じるものがあったのでしょう。音楽に限ったことでありませんが、子供が様々なことを経験し成長する姿をを見守ることほど親にとって嬉しいことはありません。

しかし、今回私はその個人的な喜びと同時に、別のある感銘を受けました。それは、日本の学校教育のなかで、情操教育の大切さが認められ、音楽や美術などの授業がしっかりと確保されていることについてです。今回、私は息子の体験入学で、特に音楽に力を入れている部分を見せてもらったわけですが、これは音楽に限ったことではありません。図工や書道、体育、家庭科、道徳などを含めて、主要科目とされる国語・算数・理科・社会以外の科目にも、実に多くの時間が確保されています。息子のクラスの一週間の時間割表を見てみると、週29時間の授業のうち、主要4科目は17時間で全体の58%、その他の授業が実に42%を占めています。

日本の義務教育では当たり前のことのように思われていますが、実はそれは、日本の外、特に私たちの住んでいるアメリカから見たら逆に驚かれるような、とても羨ましいことなのです。なぜならアメリカでは公教育(特に小学校)の中で音楽や芸術の授業がほとんど行われなくなってしまっているという現実があるからです。私の子供たちが通うカリフォルニアの公立小学校でも、正規の音楽や図工の授業はなく、楽器はおろか歌をうたう機会もほとんどありません。アメリカでは、日本のように全ての生徒たちが音楽や美術の基礎を学べる環境は全く整っていないのです。

アメリカの公教育事情
どうしてアメリカではこのような状況になってしまったのでしょうか。実は、アメリカでも1970年代までは公教育のカリキュラムに音楽や美術が含まれていました。全ての子供たちが音楽の基本や合唱を習い、様々な種類の楽器に触れ、音楽鑑賞をする機会があったのです。美術についても同じです。水彩、チャコールの他様々なメディアを使って創作活動をし、偉大な画家についても学びました。そのために必要な、教材は提供されていましたし、楽器は僅かな料金で学校から借りることもできました。

しかし、1980年代以降、教育費の予算カットで真っ先に削られたのが音楽や美術の授業です。専門の教師たちは解雇され、専門外の教師たちが何とかその肩代わりをしようとしてきました。しかし、それは教師の負担増につながりますし、できることにも限度がありました。やがて、子供たちが音楽や芸術に触れる機会は激減していったのです。親や、教育関係者の中にも、公教育における芸術の必要性を感じない人々が増えてきていると指摘もあります。1980年代以降に育った世代は、学校で音楽や美術の授業を受けていないので、その重要性や価値が分からないのです。従って、芸術は素晴らしいけど、公教育においては必要不可欠なものではない、という認識が一般化してしまったのです。過去30年という長い年月にわたり、多くの公立学校での芸術教育の扉は閉ざされてきました。付け加えると、音楽や美術の授業がないだけでなく、体育も最低限(例えば4年生以上のみ週に2回)しかありませんし、家庭科や道徳といった科目もほとんど聞いたことがありません。

ただし、私立の学校については別で、独自のカリキュラムで現在でも公立学校とは比べ物にならないレベルの音楽・美術の教育が行われています。公立でも一部の学校(比較的裕福な家庭の多い地区の学校など)では、保護者からの寄付や寄付金集めのイベントなどの収益金で独自に専任教師を雇い、音楽や美術を授業に組み入れているような学校もあります。また、正規の授業はなくても、高学年以上になると希望する生徒は学校のバンド(吹奏楽部)に参加するなど、課外授業のような形で音楽に親しむ機会がある場合もあります。

では、音楽や美術の授業がない分、「国語・算数・理科・社会の主要4科目の授業数が日本に比べてずっと多いのか」とか「日本の子供より学力が高いのか」という素朴な疑問が湧いてくるのではないでしょうか。その答えは両方ともNOです。それは、アメリカでは年間の授業日数がかなり少ないことに所以(日本ではおよそ200日に対してアメリカでは180日以下)しますが、日米の授業時間数の違いやと子供の学力について次回少し詳しく見てみます。


「その(2)アメリカにおける新しい情操教育の試み」へ続く・・・


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2010年06月24日

ハーグ条約への加盟をめぐる考察 その(2)

この記事は、前回の「ハーグ条約への加盟をめぐる考察 その(1)」の続きです。

前回の記事を書いているときは、ハーグ条約に加盟すべきだと考えていましたが、さらに調べを進めていくうちに、その前提として重大な国内的議論が必要であるということに気付き、拙速な加盟はすべきではないという方向に考えが変わってきました。

「ハーグ条約加盟」−議論の表面下にある重大な国内問題
さて、子どもの連れ去りで昨今批判の渦中にいるのは、もっぱら欧米人との結婚に破綻した日本人女性です。「欧米系男性に憧れて結婚したものの、異文化や言葉の壁などの困難を乗り越えられず、理想と現実のギャップを思い知り、子どもを連れて日本に帰ってくる・・・」などと、批判的に語られることが多いわけです。確かに、国際結婚や国際離婚は、近年増加の傾向にあります。国際結婚は、05年の2万7700件から06年に4万4700件と1・6倍増の一方、離婚は7990件から1万7100件と2・1倍に急増しています(2008年10月25日毎日新聞)。しかし、どのような国籍の相手との国際結婚や離婚が多く、「連れ去りのトラブル」はどの程度の割合なのか、ということはほとんど知られていません。

そんな中、日本人妻に子どもを連れ去られたアメリカ人の夫が、テレビカメラの前で涙ぐみながら「私には父親として子どもに会う権利がある」「子どもを勝手に連れ去った母親を保護するとは日本という国はひどい」などと訴える場面が流れれば、外国には当然「日本人女性は卑怯だ、日本はひどい国だ」などとという印象を持たれてしまいます。それが、対外的にそう思われるのみならず、国内でも国内事情を棚に上げて、「日本のイメージを悪化させているのは、欧米人男と結婚して子どもを連れ帰る女性たちだ」などと、問題の矛先が一点に向けられます。

しかし、そのような見方は極めて短絡的で無見識以外の何物でもなく、ニュースでの取り上げられ方、つまり問題の表面化した一部だけが取り上げらていることが問題なのです。事実、欧米人男性と日本人女性の結婚の破綻(代表してアメリカ人およびイギリス人との離婚430件)は、日本人同士の離婚総数(25万5505件)から見ればほんの僅かであり、離婚に至る割合は日本人同士の離婚や他の国際離婚(日本人男性とアジア人女性、日本人女性とアジア人男性など)と比較すると同程度か、逆に少ないのです(平成16年度。この後、統計を示します)。

では、ニューで取り上げられていることが、表面化した問題の一部だというのなら、表面下にある問題とは何でしょうか?実は、「欧米人との離婚により日本人妻が子どもを連れ帰る」トラブルを防ぐという理由だけで、「ハーグ条約に加盟」すべきという拙速な議論は、重大な問題を見落としています。それももちろんありますが、それ以上に重大なことは、ハーグ条約に加盟するためには、その前提となる日本の民法について議論し改正する必要があるということです。民法の改正は、とてつもなく困難なことと思われます。しかし、それなしに、ハーグ条約に加盟するということはありえませんし、あってはなりません(なぜかは後に述べます)。そのことを強く訴えるために、広く日本人が関わる婚姻と離婚、離婚後の子どもの親権の実態などについて調べてみました。

国際結婚と国際離婚の統計
日本人の国際結婚の統計を見てみると、平成18年度の数字では、日本人女性と外国人男性との婚姻(8708件)よりも、日本人男性と外国人女性との婚姻(3万5993件)の方が圧倒的に多いことがわかります(厚生労働省:夫婦の国籍別に見た婚姻件数の年次推移)。この数値は、平成7年度には、それぞれ6940件と2万0787件でしたから、伸び率はそれぞれ25%、73%で、日本人男性が外国人女性と結婚する傾向が一段と高まっていることになります。

国籍別に見てみると、日本人男性と外国人女性の婚姻では、妻の国籍は、フィリピン(1万2150人)、中国(1万2131人)、韓国・朝鮮(6041人)、ブラジル(285人)の順で、およそ89%をアジア国籍の女性が占めています。日本人女性と外国人男性の婚姻では、夫の国籍は、韓国・朝鮮(2335人)、アメリカ(1474人)、中国(1084人)、イギリス(386人)の順で、およそ半数をアジア国籍の男性が占め、アメリカ人またはイギリス人と結婚した日本人女性の割合は、国際結婚をした日本人女性全体のおよそ20%です。この割合は、平成7年度の数値(21%)と比較してもほぼ横ばいです。注目したいのは、日本人女性と欧米人男性(代表してアメリカ人とイギリス人の数字の合計)の婚姻の割合は、日本人が関わる国際結婚全体の約4%に過ぎないということです。

では、離婚についてはどうでしょうか?国際離婚が増えているといいますが、国際結婚をした人たちの離婚は日本人同士の離婚と比べて率が高いのでしょうか?厚生労働省の人口動態統計表の「夫妻の国籍別にみた離婚件数の年次推移」と「夫妻の国籍別にみた婚姻件数の年次推移」の平成16年度の統計を比較してみます。離婚総数が27万0804件、日本人同士では25万5505件、どちらが一方外国人の国際離婚は1万5299件です。国際離婚の割合は、日本人が関わる離婚全体の5.6%、欧米系男性(代表してアメリカ人とイギリス人)と日本人女性の離婚(430件)の割合は、僅か0.06%に過ぎません。

単純に、離婚数を婚姻数で割ったものをその年の離婚率とすると、日本人同士の離婚率は37.5%、日本人夫と外国人妻の離婚率は37.5%、日本人妻と外国人夫の離婚率は37.5%となります。また、日本人妻と欧米人夫(代表してアメリカとイギリスのみ)の離婚率は23.4%と低めで、逆に日本人夫とアジア人妻(韓国・朝鮮・中国・フィリピン・タイのみ)の離婚率は39.6%と高めです。この数値だけで断定することはできませんが、日本人同士であろうが配偶者が外国人であろうが、今日、離婚は全体の3割から4割近い人々が経験する事態となっているのです。少なくとも、欧米人と結婚した日本人女性だけに特別多い現象ではないことは明らかです。

さらに、「連れ去り」についてはどうでしょうか。これに関しては、正式なデータがありませんが、2009年11月の時点で、日本に子どもの連れ去ったとするトラブルは、アメリカで73件、イギリスで36件、カナダで33件、フランス26件など、合わせて170件といわれています(過去10年間の数とみなします)。件毎年4万人前後が外国人と結婚しているという厚生労働省のデータを元に、最近10年間で国際結婚に関わった日本人全体を約40万人と推定すると、「子どもの連れ去り」の170件というのは、割合にして0.04%程度となります。

割合が少ないから、無視してよいといっているわけではありません。強調したいのは、子どもの連れ去りや「ハーグ条約加盟」に関する議論をする上で、問題の焦点や、重要な観点を、しっかり見極めるべきだということを提起したいのです。この議論は、国際結婚をした日本人だけを焦点とすべきではなく、国内における離婚や親権問題、それに関わる民法を含めた広い観点から議論すべきだということです。そして、感情論に流されたり、米・英・仏など欧米各国からの圧力に押されて節足に加盟するのでなく、ハーグ条約に加盟することの意義や目的を国内で十分に議論する必要があるということを言いたいのです。

ちなみに、日本人男性とアジア人女性の離婚率が比較的高めになのにもかかわらず、アジア人女性が子どもを母国へ連れ去るというようなニュースをあまり聞きません。この辺の事情は把握していないのですが、もし、実際にあまり無いのだとしたら、その理由は、一つには、アジアのほとんどの国で日本と同様ハーグ条約に加盟していないので、仮に連れ去りが起きているとしても政府間で何の取り決めも無く、お互いクレームがつけられない状況にあることが考えられます。もう一つは、妻が後進国出身の場合、母国に連れ帰るよりも経済的に豊かな日本に定住していた方が子どものためになるという考え方から、アジア人妻による連れ去りというケースは少ないのではないかとも考えられます。

日本での、離婚後の親権争いの実態
上記に、日本人同士の離婚件数が25万5505件(平成16年度)、その年の日本人同士の離婚率は37.5%であると述べました。この数字は、現在さらに上昇しているでしょう。子どもがいる夫婦の離婚のついて、親権制度の観点から調べて見ました。

前述しましたが、民法819条に基づく単独親権制度により、協議離婚の場合でも、家庭裁判所が判断する場合でも、親権者は父親か母親のどちらか一方に定められることになります。100%親権を獲得するか、完全に親としての権利を失ってしまうかの二者択一です。また同766条では、子どもの監護権について、「父母が協議で定めるか、それができないときは、家庭裁判所が定める」と書かれています。これが文字通りならば、親権の無い方の親(非養育親)が協議の上子どもと交流をする機会を設けることは可能です。しかし、親権のある親(養育親)が協議結果や約束を破り非養育親と子どもの交流を妨害したり拒否してしまえば、非養育親と子どもが交流する機会は失われます。その場合、家庭裁判所には何ら権限もなく、約束を破った側に法的制裁が課せられることは無いので、子どもに会えない非養育親の父親(または母親)が大勢いるのが実態です。

また、養育費を払っているにもかかわらず、面接権の無い非養育親がいる一方で、養育費の支払いが滞ったり、調停内容を無視して初めから払わない非養育親も見られ、ある調査ではおよそ5割近い非養育親が養育費の支払いを放棄しているという実態があります。しかし、家庭裁判所にそれ以上の権限は無く、その場合でも差し押さえ等の法的な罰則は科せられず、母親側(養育親側)は養育費が滞っても泣き寝入りするしかないのが現状です。

家庭内でDVがある場合(夫婦間のDVや子どもの虐待など)がある場合などは、子どもの福祉の観点から子どもとの面会・交流を制限するなどの措置が採られるべきでしょう。しかし、現状では何か特別な事情でもない限り、母親が親権を得るケースが8割を超えています(平成15年度司法統計調査)。したがって、子どもに危害を加える心配の無い父親や、子煩悩の父親でも、離婚によって子どもとの交流が断ち切られてしまうケースが現実に数多くあるのです。

そのため、子どもの親権争いは壮絶なものとなっており、一方の親による子どもの連れ去りが横行したり、虚偽のDVなどで親権を奪い合うという事態に発展しています。こうなってくると、怒り・ねたみなどの感情が高まり夫婦間の亀裂は深まるばかりです。通常は、いがみ合った状態の両親との交流を持つことは、子どもの安定した生活を阻害する恐れがあるという観点から、「父親が子どもと交流する権利」よりも「子どもの福祉を守る」ことが優先されます。したがって、非養育親は子どもと会う機会を失っていくことになります。夫婦間の熾烈な親権争いは、子どもの福祉に資した解決どころか、一番の弱者である子どもに犠牲を強いる結果を生んでいるのです。

こうしてみると、明治時代に作られられた現在の民法は、父親の権利や義務、子どもの福祉のいずれの観点からも、離婚率が4割近いという現代日本の実情に即していないと言わざるを得ません。日本での両親の離婚後の子どもの親権争い、面接権の無い父親、養育費の支払い放棄等に関する実態は、非常に不幸で深刻なものです。日本人同士の離婚による親権争いで、何万何十万という母親による「子どもの連れ去り」(親権が母親に渡り父親に会わせないこと)、「父親の泣き寝入り」もしくは「父親の養育放棄」が日本では常態化しているのです。その数は、国際離婚で外国から日本に子どもを連れ帰る女性の数(数百?)とは桁が違っているわけで、国際結婚の場合だけが非難の標的になるのはまったくのお門違いなのです。そういう女性たちを擁護しているわけではありません。国際結婚をしている以上、互いの国のルールが異なることをわきまえていなければならないのに、それができない人がいることは遺憾なことです。

しかし、その背景には、母親に圧倒的に有利な日本の民法や社会慣習、子どもの連れ去り(子どもを父親に会わせないこと)が日本国内で常態化して当たり前のようになっていることが一つの要因としてあると言いたいのです。「子どもの連れ去り」が、窮地に陥った国際結婚をした日本人女性の選択肢の一つとなってしまっているのは、欧米では非常識な日本の常識をそのまま持ち出してしまっているからに外なりません。もし、日本国内で共同親権が認められていたり、子どもの連れ去りが法に問われる犯罪行為であったなら、国際離婚の際も子どもを連れて帰国するしようという発想は安易には出てこないはずです。いずれにしても、国内の離婚では「親権を取ってしまえば勝ち」、国際離婚では「連れ帰ってしまえば勝ち」というのは正義に反するのです。

突き詰めてゆくと、「子供の連れ去り」問題で、私が訴えたいことは次の二点に尽きます。
1.ハーグ条約に加盟する以前に、日本国内の離婚と子どもの親権に関わる民法を、社会情勢に即して改善し、「共同親権」を可能にすべきであるということ
2.民法改正やハーグ条約加盟を待つまでもなく、身勝手な「子どもの連れ去り」は、道徳に反した行為であるから言語道断だということ。国際結婚であろうと無かろうと、離婚後の子どもの養育は両親が合意できる方法を探すべき。国際結婚しているならば、その自覚を持って相手国のルールにのっとって解決する覚悟がいるいうこと。

民法改正なしのハーグ条約加盟は絶対反対
ハーグ条約加盟についての議論は、政府の中で少しずつ進んでいるようです。民主党では、離婚後した親の「面接交渉権の法制化」が政策パンフレットにすでに記載されています。千葉法務大臣は、今年3月9日の衆議院法務委員会で、「子どもの利益を考えたときには、どちらの親も、子どもに接触できることは大事なことだ」と述べました。そのうえで、「離婚したあとも、両親がともに子どもの親権を持つことを認める『共同親権』を民法の中で規定できないかどうか、政務3役で議論し、必要であれば法制審議会に諮問することも考えている」と従来より踏み込んだ内容に言及しました(NHKニュースhttp://www3.nhk.or.jp/news/t10013082981000.html )。また、3月には鳩山首相がマスコミに向けて、「日本が(単独親権ののために)特殊な国だと諸外国に思われないように対処しなければならない」と発言し、共同親権法制化に積極的な姿勢を見せました。

ただし、はっきりしておきたいことは、すでに書きましたが、民法を改正することなしに、ハーグ条約に加盟するということはあってはならないということです。前向きな議論が進んでいることは、喜ばしいことですが、ハーグ条約に加盟するためには、その前提となる日本の民法について議論し改正しなければ、とんでもない事態になります。

どんな事態かというと、日本で共同親権が認められいない以上、国際離婚は必ず外国人の父親にとって不利になりますから、国際的には、日本の司法の場で公正な調停を行うことは不可能であるとみなされるでしょう。事実そうです。おのずと、国際離婚や親権などの調停は、全て外国の法律の下で行うしかない事態になります。つまり、国際離婚に関わるすべての権限を外国の法廷に委ねることになり、現時点でのように日本人を保護することすらできなくなってしまうのです。

そうなった場合、日本人妻が離婚して子どもを連れ去ればハーグ条約によって外国に子どもを取り戻され、調停や裁判は外国のルールで行われ、結局、離婚後子どもと暮らすためには外国に留まるしか選択肢はなくなります。子どもの福祉の観点から、母親と日本に居住することが好ましいと判断されるようなケースでも、日本への居住は不可能になります。どうしても日本に帰りたければ、子どもを外国において帰ってくるしかありません。もし、民法が改正されて共同親権が可能となり、外国人の父親にも親権や面会権が認められれば、調停により日本人妻が子どもと日本に居住することも可能で、外国の法律で誘拐罪に問われるような事態にもならないのです。

これは、重大な問題です。繰り返しますが、民法の改正なしにハーグ条約に加盟するということは、現状の「日本人の母親が勝手に子どもを連れ去って外国人の父親が泣き寝入りしている」不平等な状態から、「子どもを合法的に外国人の父親に引き渡して日本人の母親が泣き寝入りする」不平等な状態に変わるだけです。しかも、国内の現状は変わらないのですから、日本人同士の離婚による父子関係の断絶という悲劇は増える一方です。こんな馬鹿な話があってはなりません。ですから、外国からの圧力で、国内の議論を経ず民法の改正なしに、拙速にハーグ条約に加盟してしまうような事態は断じて避けなければならないということを訴えたいと思います。



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2010年06月19日

ハーグ条約への加盟をめぐる考察 その(1)

ハーグ条約とは
外国人と結婚した日本人女性が結婚に破綻し、子どもを連れて日本に戻ってくるケースが増えているというニュースを、最近頻繁に耳にします。主だったものでは、2009年9月、日本人の母親がアメリカから連れ帰った子供を取り返そうと来日したアメリカ人の父親が福岡県警察本部に逮捕される事件がありました。子供を無理やりアメリカに連れ戻そうとしたとして、未成年者誘拐の疑いがかけられたのです。男性は10日間の拘留後釈放されましたが、この件は、日本人妻による子ども奪取(Abduction)事件としてアメリカのマスメディアなどで大きく取り上げられることになりました。テレビのインタビューで父親が「私は何も間違ったことはしていない。子どもは両方の親と会う権利がある」「子どもに会えないことほど辛いことはない」と涙ながらに訴える姿が、一般の視聴者の同情をそそり、そのお陰で、「子どもを父親から引き離しても平気とは、日本はなんという残酷な国か」というような印象がアメリカの人々の間では広まっています。

国際結婚の破綻などによる子供の連れ去りは年々増えており、このような事態に対処するために、1980年、「国際的な子の奪取に関するハーグ条約」という国際条約が締結されました。欧米諸国を中心に、現在82か国がこの条約を締結しています。この条約は、一方の親が他方の親に無断で子供を自国に連れ帰るといった親権の侵害を伴う、国境を越えた移動について、子供を移動前の居住国に返還するための国際協力の仕組み等を定めるものです(外務省)。この条約は、このような移動により生じる有害な影響から子供を保護することを目的とし、親権の所在を決着させるための裁判手続は移動前の居住国で行われるべきである、との考えに基づいています。

つまり、加盟国は、子ども(16歳未満)が、どちらか一方の親に連れ去られもう片方の親にその子どもを返すよう求められた場合、子どもの居場所を調べ在住していた元の国へ戻す義務を負います。親の代わりに、国が子どもを連れ戻すということです。

しかし、日本はこの条約に加盟していません。G7の国の中で加盟していないのは日本だけです。日本人の妻に子どもを連れ去られた外国人の夫が、子どもを連れ戻そうとしても、日本政府には協力をする義務がなく、妻と子どもの居場所が分からないケースや、父親が子どもと長期間にわたって会えないケースが増えています。

「子どもの連れ去り」の現状
現状では、様々な問題が未解決の状態になっています。例えば、カナダ人との結婚が破綻した日本人女性が夫の同意なく子どもと日本に帰国。夫は子どもとの面会見を求め、カナダで裁判を起こし勝訴しましたが、日本にいる母親と子どもには実効性はなく、ハーグ条約に加盟していないため、日本政府にも対応する義務はありません。また、子どもを連れ帰った日本人女性は、元の在住国の刑法によって実子誘拐罪に問われる可能性があり、その場合日本国内にとどまっていることはできても、一歩国外に出ればICPO(インターポール:国際刑事警察機構)の通じて国際指名手配され、外国の入管で拘束・逮捕されることになります。
逆のパターンもあります。日本在住の国際結婚カップルで、英国人の父親が「日本で離婚すれば日本人の妻に親権を取られ、子どもと会えなくなる」と、母親に無断で子どもを連れてイギリスに帰国。日本がハーグ条約を締結していないために、イギリス政府の協力は得られず、母親は、自己負担で相手国の弁護士に調停を依頼し約700万円の報酬を支払って子どもを取り戻したケースなどです。

欧米では、離婚後の子どもの親権は父親・母親、両者に共同で与えられる「共同親権」が一般化しています。調停により、子どもが母親と暮らすことになった場合でも、父親が子どもと面会する機会(面会権)は法的に認められています。したがって、母親が父親の面会権を無視して一方的に子どもを日本に連れ帰ることは「子の奪取」であり、「親権の侵害」と見なされます。

取り組みの遅れている日本政府
これまで、アメリカ、カナダ、フランス、イギリスなどを含む各国から、日本に条約に加盟して欲しいとの度重なる要請がありました。しかし、日本政府は何ら具体的な対応を取っていません。さかのぼること4年、当時の小泉首相は、カナダのハーバー首相との会談中で条約への加盟を促され、「協力できることがあれば協力したい」と述べましたがが、その後も条約締結に向けての日本側の動きはありませんでした。昨年5月には、米・英・仏・加の駐日大使らが、東京の米大使館で共同会見して「日本へ連れ去られると、取り戻す望みがほとんどない」と訴えました(2009年7月15日 朝日新聞)。

各国の大使館によると、2009年11月の時点で、日本への子どもの連れ去ったとするトラブルは、アメリカで73件、イギリスで36件、カナダで33件、フランス26件など、あわせて170件に上っているということです。アメリカのキャンベル国務次官補は、2009年11月のオバマ大統領の初来日を前に、上院外交委員会での最初の会談でこの問題を取り上げたいと表明しています。さらに、キャンベル氏は、今年2月初めの来日の際には、「北朝鮮拉致問題での米政府の対日支援に悪影響を及ぼす恐れがある」という脅迫めいた言い方で外務省幹部に警告、加盟を強く求めています。英語では、子どもの「連れ去り」にあたる単語は「Abduction」で、日本語の「拉致」に当たります。北朝鮮による日本人の拉致問題と、日本人の母親に子どもを連れ去られた米国人の悲しみには「共通点がある」として、日本政府に早急な対応を求めたというのです(2010年2月7日 共同通信http://www.47news.jp/CN/201002/CN2010020601000521.html)。

2010年3月18日、8か国の駐日大使が共同声明を発表し、日本に対し、子供の連れ去りを防ぐためのハーグ条約に加盟するよう、あらためて要求しきました。http://news24.jp/articles/2010/03/18/10155609.html

条約加盟に消極的な理由
日本政府が、ハーグ条約加盟に慎重な姿勢を保ってきた理由には、離婚家庭の子どもの「単独親権」か「共同親権」の法的違い、家族観や文化の違い、日本人女性がDV(ドメスティック・ヴァイオレンス)の被害者となっているケースが多いこと、などが挙げられます。これらの理由について検証し、考察をしてみたいと思います。

「単独親権」か「共同親権」の違い、家族観に対する理解や文化の違い
日本では、両親が離婚した場合、子どもの「共同親権」は認められておらず、どちらかの親の「単独親権」となります(民法819条)。多くの場合、母親が「単独親権」を得て養育することが習慣となっている日本では、外国人の父親が親権を主張して子どもを連れ戻そうとしても、日本では外国の法律は適用されないのですからすれ違うばかりです。ハーグ条約を締結するということは、父親の親権を認めること、すなわち「共同親権」を認めることですから、そのためにはまず日本の民法を改正しなくてはなりません。また、日本の現行法は、子どもの所在を突き止めて強制的に連れ戻す権限を国に与えてはいません。ハーグ条約に加盟するためには、この権限をかかる省庁に付託する法的整備が必要になりますが、関係する省庁が、法務省、外務省、警察庁と複数にまたがるため、その手続きの制定や法律改正を行う必要があります。

しかし、「単独親権」か「共同親権」かは、国際結婚のトラブルでのみ発生する問題ではありません。日本人同士の夫婦が離婚した場合、親権がほぼ自動的に母親に与えられ、父親には子どもの養育にかかわっていく権利が認められないという現在の民法、日本の社会習慣は果たして公平か、子どもの福祉にとって最良のものといえるか、ということを考える必要があるのではないでしょうか。これは、離婚後子どもを養育する責任は誰が負うべきか、離婚後の親子関係はどうあるべきか、という社会の本質的問題です。この部分を考慮し、国内での親権問題の議論を行い必要ならば法改正をすることなしに、国際結婚の場合だけハーグ条約を当てはめるというのは筋が通っていないと私は考えます。日本国内での離婚件数が増加傾向にある今日、まずは国内の問題として見直していく必要のある問題だと思います。

しかしながら、こうしている間にも、日本人が関わる子どもの連れ去りは起きています。日本政府としても、こうした、悲劇的な状況を改善・解決していくための他国との約束ごととして、両方の親にとって公平で、そして何よりも最大の被害者である子どもの福祉を優先した何らかの制度を設けることは、急を要していると言えます。その選択肢として、ハーグ条約の締結を検討することは必要急務だと考えます。

欧米が主張する親の面接権の重要性
離婚後の親権については、日本では「単独親権制」で母親が子どもを引き取る場合がほとんどなのに対し、欧米では共同親権を採用し、離婚後も両親が子どもの養育に関わっていく考え方で、両者に大きな差異があることは周知の通りです。子どもの問題に限ることではありませんが、異なる習慣・文化を持つ者同士が国際結婚をする大前提として、自分の国の考え方や習慣を押し通すのではなく、互いに相手の主張に耳を傾ける姿勢が必要であることは言うまでもありません。

日本では、両親ともに日本人であっても、親権の無い親(多くの場合父親)には、子どもとの面会権が保障されていないことはすでに述べました。母親と不仲の父親との交流は、子どもの安定した生活を阻害する恐れがあるという観点から、「父親が子どもと交流する権利」よりも「子どもの福祉を守る」ことを重視するとしています。しかし、欧米諸国の一部では、子どもは両親との交流を保ちながら成長するのが好ましいという考え方から、親権の無い親であっても、子どもとの面接権は適正に与えられています。アメリカでは、離婚の原因がDVであったとしても、子どもに対して危害を加えていない場合には、子どもとの一定の面会権は与えられます。

アメリカ国務省のミシェル・ボンド国務次官補代理は、「面会がなぜ重要なのかを説明することは、親がなぜ子どもを愛するのかを説明しようとすることと同じ。面会は、親権のない親に親子関係を育む機会を与えるために重要」。(中略)「世界の多くの国は、親による子どもへの接触と面会を基本的人権と見なしている」。そして、「家族法や文化が違っても変わらないのは、子どもに対する親の生涯変わらぬ愛であり、子どもが自分の両親が誰であるかを知り、両親を愛する必要があるという点」であると述べています(「国際的な親による子の奪取−子どもの親権をめぐる問題に対する米国国務省の取り組み」)。

従って、アメリカでは、たとえ子どもを連れ去った者が母親であったとしても、その行為は子どもと父親との関係を断ち切ろうとする行為であり、父親から法律で定められた「親としての権利」を奪う犯罪とみなされ、刑事告発される要因となるのです。この規範は、米国では、連邦およびほとんどの州の刑法で定められています。「親の権利」という点だけでなく、子どもが「親と関係を持つ権利」つまり「子どもの権利」という点からも、同様に犯罪とみなされます。

ハーグ条約を支持するアメリカの主張
前出のボンド米国務次官補代理は、ハーグ条約の目的は、「子どもが違法に連れ去られる前に居住していた国の法廷で、親権問題を解決するための管轄権を守ることにある」と述べています。つまり、ハーグ条約は、子どもの福祉を最優先して公正な親権調停をするものではなく、あくまで子どもの定住国における法の適用の保護、親権の保護に重点が置かれています。ですからハーグ条約によって子どもが元の居住国に戻された後の対処(連れ去った親は刑事告発されるか、子どもがどちらの親と居住するか、他の親とどれほどの面接権が生じるかなど・・・)は、国によって異なることになります。

アメリカ国務省によると、「子どもの連れ去り」の案件に対応する国務省児童課では、ハーグ条約に基づき「米国市民である子どもの福祉を守ることを最優先事項とし、連れ去り先の国の政府に対し虐待や育児放棄などの懸念を提起し、親権を持つ親の元に取り戻すために合法的で適切なあらゆる手段をとる」としています。

日本のようなハーグ条約非加盟国との間でおきている問題への対処としては、子どもを連れ去った親を刑事告発する選択肢があることを残された親に助言する、国際刑事警察機構へ通報する、奪取者を米国査証不適格者とする、といった手段をとっています。これは、子を連れ去った親の移動を制限し、問題解決のための交渉に応じるよう圧力をかけるためです。

次回へ続く・・・


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2010年05月05日

オバマの忍耐論と返り咲くサラ・ペイリン

4回シリーズの
「アメリカに急拡大するティーパーティー運動」
「アメリカに急拡大するティーパーティー運動 その(2)」
「高まるオバマ政権への批判−オバマ支持者たちはどこへ?−」
に続く最終記事です。

オバマの反論と忍耐論
そんな中で、オバマ大統領が、国民に向かって繰り返して訴えていることは、「大統領就任時に引き継いだのは、ブッシュ時代に膨らんだ1兆3千億ドルの財政赤字、泥沼のイラク戦争、世界的不況という負の遺産である」ということです。つまり、今ある財政赤字はオバマ政権が生んだものではなく、最悪の経済状況の中、これだけの負の遺産を元手に国家運営をするのだから、物事を好転させるまでには時間がかかる、もっと忍耐が必要である、ということを訴えているわけです。さらには、「人種差別や過激な人々の発言は、対話を阻害し、民主主義や自由の精神と逆行する。泥仕合はやめて、国のために一丸となって政策を実現していかなければならない」とも述べています(Obama defends priorities, makes plea for civility)。それはもっともだと思う読者の皆さんも多いのではないでしょうか。

つまり、こういうことです。予算を増やさずに、景気対策も、医療制度改革も実現することはできない。予算を増やせば財政赤字の膨張を批判されることになるが、批判は承知の上で、公約に掲げたことを一つ一つ実現していかなくてはならない。すべての人のニーズを満たすことなどできはしないのだから、限りある財と選択肢の中で、優先順位をつけ、システムの効率化を計りながら、一つ一つ対処するしかない。自分たちが選んだオバマ大統領を信頼して、もう少し長期的な視点で政策の実現を見守っていくべきではないか、と。

私個人としては、これは極めて論理的で冷静な態度に見えます。しかし、そのような目でオバマ大統領を支援し続けているアメリカ人は、いったいどれほどいるのでしょうか。私が見る限り、その様な「忍耐をもって見守る」という捉え方や見方は、アメリカという国ではあまり一般的ではないという気がします。。「忍耐を持って見守る」という状況は、日本ではよく遭遇することですし、一般に肯定的に受け止められる姿勢でしょう。しかし、アメリカでは「忍耐を持って見守る姿勢」は、「問題があるのに我慢するだけで解決に乗り出さない消極的な姿勢」とみなされることが往々にしてあります。積極でないものの見方はあまり魅力的ではなく、ニュース性もなく、ニュースで取り上げられないことは広まらないので世論の主流にはなっていきません。ゆえに、忍耐を持ってオバマ氏を見守りたいというアメリカ人がいたとしても、表面的にはわからず、その声はかき消されてしまっているというのが現状です。

ちなみに、なぜ、「忍耐を持って見守る」という姿勢がなぜ一般的でないかというと、これはあくまで私的な意見ですが、アメリカは、「忍耐」ということにあまり価値を置く国ではないからです。誤解を招く言い方かもしれませんが、政治問題に限らず、日常的・個人的なレベルでも、「不満があっても忍耐する」よりも「自分の意見を堂々と言う」「個人の自由を尊重する」といったことに重きが置かれているという実感があるからです。現状の問題点に対して意見を言い合ったり、その解決のために積極的に行動したりすることが求められる一方、「厳しい状況でも忍耐力と地道な努力で乗り越える」という選択肢はあまり人気がないようです。

有権者心理を利用する政治の駆け引き
これは、アメリカ社会の特徴というより、現代社会の特徴のひとつかもしれませんが、人々は欲しいものはすぐに手に入れたいし、我慢しながらただ待っているなどというのは嫌なわけです。政治の世界でも、同じことです。政権や党の支持率などは、せっかちな有権者の欲望をどれだけすばやく満たせるか、あるいは、満たされていない有権者たちをどのような甘い言葉で勧誘できるかに大きくかかっていると言えます。政治家たちは常に、有権者たちを納得させ喜ばせることが必要で、困難な政策でも、支持者たちの“Patience“つまり忍耐の尾が切れる前に、回答を出すことが情け容赦なく求められているのです。

4年に一度の大統領選挙と、その中間で行われる中間選挙のタイムラインは設定されています。中間選挙での勝敗は、政権一年目でどれだけの結果が出せるか、つまり、どれだけ有権者たちを満足させられるかにかかっています。アメリカン・ポリティクスはその意味で大変シビアです。アメリカの2大政党政治における優劣は、極論すれば、そのような有権者心理を巧みに利用し、メディアを総動員して世論を形成することにかかっているといっても過言ではないでしょう。

返り咲くサラ・ペイリンと中間選挙を見据えた攻防さて、その政治の駆け引きは、早くも今年11月の中間選挙が焦点となっています。中でも最も注目を集めている人物の一人が、前アラスカ州知事で2008年選挙の副大統領候補だったサラ・ペイリンです。共和党が敗れた後、しばらく沈黙していたペイリンですが、ティーパーティー運動の波に乗るように、政治の表舞台に返り咲こうとしています。中間選挙の共和党候補者の応援で各地を駆け回り、行く先々で何千人もの聴衆を集め集会を開いています。

今年4月7日、最も名の知れた共和党女性議員二人が、ミネソタ州ミネアポリスで開かれた大規模な集会に姿を現しました。ミシェル・バックマン(ミネソタ州下院議員、3選を目指す)とサラ・ペイリンです。共に知名度のある共和党のセレブ的存在なだけあって、数千人の聴衆が会場に詰めかけました。二人は、ティーパーティーの組織からも絶大な支持を得ています。集会では、核軍縮や非核化を推進する外交政策や、拘束したテロリストに「ミランダの権利(事件の容疑者に、黙秘権や弁護士と話す権利について伝えること)」を適用することなどの批判を連ね、オバマ政権を軟弱だと徹底攻撃しました。「オバマ政権は一期で終わる。次期大統領には、最も勇敢で、憲法を遵守する保守派の史上最強の大統領を選出する。」といった強気の発言に、聴衆は歓喜の声を挙げています。この夜に開かれたパーティーでは150万ドルを集めたそうです。

集まる群集を前に、様々な政策に莫大な国家予算をつぎ込むオバマ政策を批判し、有権者たちの不満をあぶりだします。「我々のものは、我々のもの。政府には、個人の財を税という形で取り上げて貧しいものに与える権利はない。公平や平等という言葉は、社会主義と同格である。オバマの目指しているものは、社会主義だ」「だから、オバマ政権を打倒しよう、みなで力をあわせて戦おう」と。

そしてせっかちな有権者たちに、「共和党が政権を取れば、あなたたちの不満は解消されるでしょう。そして、あなたたちの欲しいものが手に入る(すなわち政策が実現する)でしょう」と訴えているのです。巨大メディアとティーパーティーを巻き込み、有権者たちの不満を共和党支持のエネルギーに変換・拡大する作業、いわゆる選挙キャンペーンが、今まさに進行中です。2年ほど前、不満を抱えた有権者たちがオバマ支持の草の根キャンペーンで熱狂していたのと全く同じ構図です。

オバマ大統領は有権者の忍耐を引き出せるか
ワシントンポスト紙のコラムニスト、デイビッド・ブローダーは、「オバマ政権の進める改革のスピードに天運がかかっている」と書いています( Obama and the challenge of slow change
「欲しいものはすぐに手に入れなければ満足できないこの国と人々の風潮の中で、結果を出すまでに時間のかかる政治手法は、受け入れがたい面がある」と。以下、要約です。

「大統領が、自身の任期を越えた長期的なビジョンで政策を実行していることは賛成だが、それらが実現する以前に、有権者の支持離れが広がり政権を維持できなくなる恐れがある」
「もし、世論の不満がさらに募り、共和党の逆襲を助け、中間選挙で予想以上の敗北となれば、医療制度改革にしても外交問題にしても、見直しや廃止を迫られることになるだろう。」
「しかし、オバマ大統領は、(子供程度の我慢しかできない)有権者を速やかに喜ばす政策を善しとしないのなら、彼らに大人並みの我慢強さを植え付けるような努力も怠ってはならない。


政策実現のスピードが、2大政党間の綱引きの材料として使われるアメリカン・ポリティクス。中間選挙まであと5ヶ月。共和党はどこまで優勢に立ち、オバマ民主党はどこまで有権者を引き止められるか、予断を許さないといった雰囲気です。


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2010年05月03日

高まるオバマ政権への批判−オバマ支持者たちはどこへ?−

今回の記事は、前回の「アメリカに急拡大するティーパーティー運動」に続く記事です。

高まるオバマ政権への批判
ティーパーティー運動は、一言で表現すれば、「保守派の人々や団体が、オバマ政権への批判を旗印に集まり連携し、一大勢力を形成した運動」と言えるだろうと述べました。ティーパーティー運動の拡大に伴い、オバマ政権への批判の世論が次第に高まっていることが、各種世論調査の数字にも表れています。
以下の数字は、2010年4月のCBSテレビによる世論調査の結果です。http://www.cbsnews.com/8301-503544_162-20001629-503544.html

• 大統領支持率・・・・・「支持する」44% 「支持しない」41%
• 医療制度改革に関する評価・・・・・「評価する」34% 「評価しない」は55%
• 経済政策に関する評価・・・・・「評価する」42% 「評価しない」50%
• 失業問題・・・・「不安がある」59% 「不安はない」41%

オバマ大統領の支持率は、最高値だった2009年4月の68%から次第に下降し、2010年4月には44%と最低値となりました。この数字は3月の医療制度改革法案の可決以前の49%より5ポイント下がっており、医療制度改革の実現は支持率の回復につながっていません。「不支持率」は、2009年4月の23%から現在の41%へと増加しています。また、経済状況が依然厳しいと感じている人は84%という数字も出ています。

オバマ支持者たちはどこへ?
このような、オバマ政権に厳しい最近の世論と、ティーパーティー・ブームを目の当たりにするにつけ、まずはじめに私の頭に浮かぶのは、一年半前の大統領選であれだけ熱狂的にオバマ氏を支持し、史上初のアフリカ系大統領の誕生させ歴史的な一歩を踏み出した、あのアメリカ人たちはいったいどこに行ってしまったのだろう、という疑問符です。

「変革」を目指したオバマ氏を支持し、アメリカ全土で繰り広げられた選挙キャンペーンは、まだまだ記憶に新しい出来事のはずではないでしょうか。タウンホール・ミーティングと呼ばれる小さな集会があちらこちらで開かれ、インターネットを通じて集められた小口の献金は莫大な額となって草の根の選挙運動を盛り上げました。今まで選挙運動に参加したことがなかった人、投票所に行ったことすらなかった人々が、オバマ氏を熱狂的に支持し、民主党を大勝利へと導いたのは、ほんの1年半前のことです。

オバマ氏は、イリノイ州選出の上院議員になってからわずか4年という過去に例のない速さで大統領まで上り詰めました。私は、大統領選を終えた後の感想で、「政治・経済・軍事すべてに行き詰まり、どうしようもない閉塞感に覆われた社会が、変革を求めていた。そこへ、突如救世主のように現れたスーパースター・オバマ氏が諸手で受け入れられた。」と書きましたが、オバマ氏は、支持者たちにとってまさに救世主のよう存在だったのです。彼らには、自分たちの手で救世主のオバマ大統領を誕生させたという自負もあったでしょうし、「我らの見方のオバマ大統領なら、低所得者やマイノリティーなど社会的弱者のための政策を実行してくれる」という絶対的な信頼感が膨れ上がっていました。

しかし、大統領選でのオバマ氏勝利が、あまりにも劇的で熱狂的な出来事だったがゆえに、人々は草の根のパワーが政治を変えられるという過度な期待、ある種の幻想を抱いてしまったかもしれません。超スピード出世したのと同じくらいの勢いで、次々と問題を解決し、政策を打ち立ててくれるはずだと、人々は浮れ気味だったように思います。

期待と現実のギャップに気づいた人々
そのスーパースターのオバマ氏も、大統領就任以来の政策の実現では、苦戦を強いられています。実際の政策実現のスピードは、人々が抱いていた非現実的な予想や期待よりはるかに遅く、人々は幻想と現実のギャップに気づき始め、人々のフラストレーションが高まっていきました。

例えば、10年間で9380億ドルの予算を必要とする医療制度改革では、将来に更なる財政赤字をもたらすとして逆風は強く、実現に約一年かかりました。改革法の中身の多くは、適用開始が2014年とあと3年も待たなければなりません。核のない世界を目指すと宣言した2009年4月のプラハでのスピーチから、今年4月のワシントンでの核サミット開催までも約一年かかりました。また、2008年のサブプライム・ローンに始まった金融危機を受けて、その再発を防ぎ、納税者を将来の金融機関救済から守るための金融規制法案の審議も、やっと4月ぎりぎりに上院での採決にこぎつけたところです。教育、エネルギー、環境、国家財政など、順番待ちの政策は山ほどあります。

7870億ドルの景気刺激策にしても、その恩恵はいまだ実感できず、いまだ景気回復には向かっていません。2008年に5.82%だった失業率は、2009年に9.28%、2010年は9.41%と、依然として高い失業率にも人々の不満が反映されています。

信頼を失う連邦政府
PEWによる世論調査(2010年4月18日)では、連邦政府を信頼しているとこたえた有権者は22%と、50年間で最悪でした。人々の不満と怒りの原因は、やはり、最悪の経済状況、そして党派間の抗争にあがいている各議員への不満です。連邦政府がポジティブな影響力を持っていると考えている人の割合は38%、ネガティブな影響力を持っているとしたのは43%でした。97年当時の調査では、それぞれ50%と31%だったのに比べると、連邦政府に対するイメージや信頼はがた落ちの結果となっています。

ティーパーティー運動の中心勢力が共和党支持者たちであることは間違いありませんが、こうした連邦政府への信頼の失墜と、オバマ政権に失望しつつある元オバマ支持者たちのフラストレーションとが、見境なく相まって、ティーパーティー運動に油を注いでいる状況だといえるでしょう。


・・・次回、「オバマの反論と忍耐論」および「返り咲くサラ・ペイリンと中間選挙の攻防」へ続く・・・




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2010年04月21日

アメリカに急拡大する「ティーパーティー運動」 その(2)

ティーパーティーの主張
ティーパーティーの公式ホームページによると、ティーパーティーの基本理念・政治思想として、

• 財政責任(Fiscal Responsibility)
• 合憲的な小さな政府(Constitutionaly Limited Government)
• 市場主義経済(Free Market)

の3点が謳われています。そして運動の目的は、これらの思想を市民に広め、教育し、民意を動かすことで、これらの理念を政策に反映させていくこととしています。

ティーパーティー運動の中心勢力は、参加者の7割を占める共和党支持者と言われていますが、民主党支持者や無党派層、リベタリアンなどの人々も参加しています。その意味で、この運動は党派を超えて、自由主義(Libertatianism)や保守主義(Conservatism)の考え方が、「より少ない予算」と「小さな政府」という共通項によって混ざり合っているといってもよさそうです。

何れにしても、ティーパーティー運動は、本来は少しずつ違った目標を持つ保守派の人々や団体が、オバマ政権への批判を旗印に集まり連携し、一大勢力を形成した運動、とでも言ったらよいでしょうか。具体的には、景気刺激策への反対、金融機関の救済への抗議、赤字財政への抗議、医療制度改革法への反対などをこれまで訴えてきました。

ところで、ティーパーティーを形成する主だった組織には以下のようなものがあります。

ティーパーティー・パトリオット(愛国者)http://teapartypatriots.ning.com/)は、1000を超える支部と、13万人の会員を擁する全国組織です。2010年4月15日の「税の日」には全国で560に及ぶさまざまなイベントを展開しました。共和党の前院内総務(Majority Leader)ディック・アーミーが率いる保守派の非営利団体「フリーダム・ワークス」と連携し、早くも11月の中間選挙に照準を合わせ、民主党議員を落選させるための選挙キャンペーンを展開しています。

ティーーパーティー・エクスプレスhttp://www.teapartyexpress.org/ )は、オバマ政権の赤字財政や増税、巨大化する連邦政府に抗議しながら、全国30〜40都市を回るバスツアーを行っています。このツアーは保守系組織「Our Country Deserves Better」によって運営されていますが、この組織は、サクラメントの共和党系コンサルタント会社Russo, Marsh, and Associatesによって創設され、バックアップを受けているといわれています。

ティーパーティー・ネイションhttp://www.teapartynation.com/)は、自身のホームページに次のように書かれています。「建国の父によって書かれている『神によって個人の自由が与えられている』という考え方に賛同する人々の集まりです。私たちは、小さな政府、言論の自由、憲法修正第2条(市民の武器の所持の権利)、アメリカ軍、そして国家と国境の安全保障を信条としています」。2010年2月に開催された全国大会では、2008年大統領選挙の副大統領候補だったサラ・ペイリンがメインスピーカーでした。大会の参加費用は549ドルと高額で、ペイリンは10万ドルという報酬を受け取ったことで批判の対象となりましたが、その後、受け取った金は保守派の活動のために寄付すると発表しています。

過激派を巻き込むティーパーティー運動
しかし、ティーパーティー集会の参加者の中には、あからさまなオバマ敵視・侮辱をしている人々もいます。例えば、アフリカライオンがホワイトハウスにいる絵とか、白人の顔をしたオバマの顔が描かれたプラカードを手にする人々。トーマス・ジェファーソンの「自由の木は、時には愛国者と専制君主の血を注がれなければならない」という言葉が書かれたTシャツを着て、「時には、暴力も必要だ」と訴えている人々です。

さらに、ネオ・ナチと呼ばれる過激グループまでが加わり、銃規制に反対するため銃を掲げてのデモを起こそうとしています。白人至上主義団体として有名な「ストーム・フロント」も、ティーパーティーに参加しています。黒人、同性愛者、ユダヤ人などを排斥する運動を続けているこの団体は、14万人の会員を集め、ティーパーティー集会では、白人の共和党政治家や候補者を支持する姿勢を打ち出しています。

このような人種差別主義者や極右主義者、過激派の団体など、少数派の政治的に異端視されているグループが、ティーパーティー運動に多数紛れ込んでいるのが実情です。彼らは、ティーパーティー運動に便乗する形で、ネットやツイッターなどを通して議論を交わし、集会などにも公然と姿を現し、その活動の場を広げています。

非営利団体「サウザーン・ポバティー・ロー・センター」によると、いわゆる過激派グループ(Extremist Group)の数は、2008年の1248団体から、2010年の1753団体へと実に40%も増加しているといいます。さらに、過激派の運動は、より大きな愛国者運動(Patriot Movement)の動きとも連動しており、2009年には363の愛国者を名乗る新団体が設立されています。

愛国主義、過激派、極右主義の主張
愛国主義、過激派、極右主義などに傾倒している諸グループには、人種差別主義(Racism)、市民軍(Militia:市民の武装する権利を主張するグループ)、反ユダヤ主義(Anti-Semitism)、陰謀論(Conspiracy theory)、課税反対(Tax Protest)、など様々な主義・主張があります。

市民軍の考え方や、税金に反対するグループは、「我々は、神によりこの地を与えられた独立市民であり、誰にも(政府にも)市民に干渉する権利はなく、税の徴収をする権利もない。従って、連邦政府税は違憲であり、我々市民には独自に武装する自由がある」と主張します。

また、白人優位を主張する根拠にあるのは、「神はアメリカをこの地を白人に手渡した。白人以外の人々は憲法修正第14条によって市民権を与えられた人々であり、従って黒人やヒスパニック系の移民は我々と同列ではない」というものです。1980−90年代の人種差別主義運動もここから発しており、現在もヒスパニック系の移民を排除したり移民に対する権利を制限するべきだと主張しています。

主義主張は様々でも、こういったグループは、概して政府の権限の拡大を極度に嫌い、牽制する傾向があります。オバマ政権が、2010年1月、連邦政府と州政府の連携を強め国内における軍事機能を高めるために10州の州知事で成り立つ知事会議を立ち上げた時には、「オバマ政権はマーシャル法(軍が民事政権に取って代わること)を制定しようとしている」といった憶測が飛び交い、オバマ政権への攻撃を一段と強めました。

1990年代、クリントン政権時代にも反政府の旗を掲げた愛国者運動が巻き起こっていますが、今の状況が当時と異なるのは、政府のリーダーシップをとっているのが黒人大統領であるということです。愛国者たちにとって今回の運動は、「アメリカはもはや白人が支配する国ではなくなってしまった」という社会の変貌への抵抗、反発、嘆きのように見えます。そして、その愛国者運動は、「人種差別の側面」、「巨大化する政府の権限と財政赤字に対する抗議」、「アメリカ人から自由を奪う敵としての政府への抗議」など、複数の考え方と混沌と混ざり合い、ティーパーティーという一大勢力に吸収・統合されるようになったと考えられます。

極右的発言をする政治家たち
通常は、過激派や極右主義の人々の動向がメディアに取り上げられたり、注目されることはほとんどないといっていいでしょう。しかし、最近の傾向の特徴は、共和党議員や右よりの政治家たちの中に、過激派かと見紛うような発言が相次いでいるということです。

例えば、ミネソタ州選出の下院議員ミシェル・バックマンです。2009年4月、地元ミネソタのラジオ番組に出演し、「オバマは密かに若者向けの再教育プログラムを主催して、若者たちを再教育し政府の思想やプロパガンダを教え込み、働かせようとしている。このままでは、アメリカから自由が奪われ、政府がすべてをコントロールする社会主義国家となってしまう」といった発言をしました。

若者の再教育プログラムとは、「ケネディ・サーブ・アメリカ法(The Kennedy Serve America Act)」という超党派の政府主催のコミュニティー・サービス・プログラムのことです。オバマ政権発足後、採用枠を75,000人から250,000人に拡大する法案が上・下院を通過したこと受けてのコメントでした。バックマンの話を聴いて素直に真実だと信じこんでしまうラジオ視聴者たちも大勢いたことでしょう。その一方で、これは若者によるボランティア活動を推進するプラグラムなのに、彼女のコメントには誇張がある、事実が歪曲されている、非常識な見解だという抗議も殺到し、メディアを賑わせていました。他の政治家たちはこのようなコメントをあえて批判したがらないため、黙秘する形になり、かえって状況を助長しています。

コロラド州出身の元下院議員トム・タンクレドは、2010年2月4日のティーパーティー大会のスピーチで、「オバマは社会主義者だ。オバマが選挙に勝ったのは、無能な者たちが投票したからだ。必要なのは、識字テストだ」などという、暴言を放ちました。(http://www.cbsnews.com/8301-503544_162-6177125-503544.html)。黒人たちに選挙権を与えないために、識字テストを課した歴史の暗部を持ち出し、黒人大統領を皮肉り、暗に批判したのです。タンクレドは、ティーパーティー運動を、「左方向(社会主義方向)へと向かっているこの国を元に戻す逆変革の運動である」と位置づけています。

ティーパーティーを加熱させるメディア報道
こういった物議をかもす発言は、政治家だけでなくテレビメディアからも多発しています。オバマ政権への批判や陰謀論などを自身の番組で盛んに広めているのが、保守派メディアの代表格であるフォックスニュースの人気司会者で、挑発的な発言で知られるグレン・ベックです。世間を騒がせたのが、2009年3月に3回シリーズで放映されたFEMA疑惑です。FEMA(Federal Emergency Management Agency)とは、災害やテロなどが起きた際に緊急出動し救援などに当たる政府機関で、国土安全保障省の一部です。FEMA疑惑とは、オバマ政権に反対する人々を収容するために、FEMAに極秘に収容所を建設したのではないかというものです。

この疑惑の発端は、2009年2月に成立した、さまざまな公共事業への財政支出を決めた総額7870億ドルのいわゆる景気刺激対策法(The American Recovery and Reinvestment Act)の予算の使い道です。FEMAに割り当てられた予算の一部が、そのような収容所の建設に使われているのではないかと、それらしい証拠写真を見せながら解説しました。話の筋書きは、人気映画「X−ファイル」(1998年)のストーリーに酷似していて、「オバマ政権によってマーシャル法が宣言され、緊急部隊が出動し、大量の反政府派がFEMAの収容所に送られる」などというものでした。番組では、最終的に「その事実は確認されなかった」という結末になりましたが、番組を視た3百万人とも言われる視聴者に、疑惑を信じ込ませるような絶大な影響力を持っていました。政府に対する人々の懐疑心や不安を煽ったことは間違いありません。(http://glennbeck.blogs.foxnews.com/2009/04/06/debunking-fema-camp-myths/

次回へ続く・・・
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2010年04月18日

アメリカに急拡大する「ティーパーティー運動」

医療改革法の対立から「ティーパーティー」へ

2010年3月、アメリカの民間の世論調査会社Harris Pollによる調査で、以下に示すような驚くべき数字が発表されました。http://news.yahoo.com/s/dailybeast/20100323/ts_dailybeast/7269_scarynewgoppoll
• オバマ大統領を社会主義者だと考えている人の割合・・・共和党支持者の67%(アメリカ人全体では40%)
• オバマ大統領はイスラム教徒だと考えている人の割合・・・共和党支持者57%(全体では32%)
• オバマ大統領はアメリカ生まれではなく、したがって大統領になる資格はないと信じている人の割合・・・共和党支持者45%(全体では25%)
• オバマ大統領はヒトラーがしたようなことをしていると考えている人の割合、共和党支持者38%(全体では20%)
• オバマ大統領は反キリスト者だと考えている人の割合・・・共和党支持者24%(全体では14%)

この調査は、医療制度改革法案の審議が大詰めを迎えた2010年2月頃に行われました。およそ一年近い論戦が繰り広げられた末、法案は、2009年12月に上院で、2010年3月に下院で修正案が可決され、3月23日にオバマ大統領が署名、法律化されたばかりです。これによって、現在約3000万人いるといわれる無保険者の人々が新たに保険に加入できることになりました。

この法案をめぐっては、共和党と民主党が両極に割れるのみならず、民主党内でも最後まで対立が続き、一般市民の間にも大きな論争を巻き起こしました。法案への賛成派・反対派の対決は、次第にオバマ政権の支持派と反対派へと発展し、世論を真っ二つに引き離していったのです。

共和党支持者を中心とする反対派の主な主張は、今後10年間で9380億ドルの予算をつぎ込むこの改革は、「アメリカの保険制度や医療経済の行方を政府がコントロールするのみならず、人の健康や命に関してまでも政府が関与することとなり、これは人々から自由を搾取する社会主義のやり方である」というものでした。オバマ大統領が社会主義者であるという考え方は、医療制度改革の論争に、その一端を発していると言っていいでしょう。この論争のあらましについては、2009年11月の記事をご参考ください。(http://ocean-love.seesaa.net/archives/200911-1.html

上記の世論調査の数字に見られるように、オバマ大統領に対する誤解や誹謗はメディアによって吹聴され、オバマ政権への批判や抗議の声はますます増大しています。11月に中間控えた今、反政府勢力は、共和党を主軸としながら他のさまざまなグループや団体を巻き込み、巨大な一大勢力となって、アメリカの社会を揺るがし始めています。その一大勢力を総称で「ティーパーティー」と呼びます。今回は、いまや、その名をテレビやラジオで聴かない日はないほど、勢力を増したアメリカのティーパーティーについて、解説していきます。そして、ティーパーティーの動きを通して、現在のアメリカ社会の動向を探ってみようと思います。

ティーパーティーとは

ティーパーティーは、オバマ政権による景気刺激策としての財政出動や金融機関の救済への抗議をきっかけとして、課税・増税に反対を唱える保守勢力が結集して2009年始めごろから始まった政治運動です。ティーパーティーという名は、アメリカ独立以前の1773年、植民地の移民たちが、参政権がないのに本国イギリス政府から課税されることに抗議して起こした歴史的ボストン・ティーパーティーに由来します。その運動は、後に独立戦争へと繋がっていったのですが、今回のティーパーティー運動も、時代を超えて現オバマ政権への抗議という形で、アメリカの歴史の再現を彷彿とさせています。

アメリカ政治において、増税への反対や赤字財政に対する抗議は目新しいことではありません。特に、リバタリアン(自由主義者)や保守層にとって、かつてのボストン・ティーパーティーは、課税・増税への反対運動の象徴でした。最近では、共和党のロン・ポール下院議員が、2008年の大統領選挙の前哨戦キャンペーンで、自身の財政緊縮政策をアピールするのに、「ティーパーティー」を持ち出したりしています。

ちなみに、現代版の「ティーパーティー」という言葉が定着する以前は、政府の財政政策批判の代名詞は、「ティー」ではなく「ポーク・バレル(豚の樽)」でした。「ポーク・バレル」は、南北戦争以前、樽に入った燻製の豚肉を黒人奴隷に配ったことに由来しますが、転じて、政治家が、選挙区で有利になるように、地域開発事業などに政府の補助金を出させる、利益誘導型の政治を指します。景気刺激策や金融機関の救済は、ポーク・バレル、つまり税金の無駄遣い、いわゆるばら撒き方の政策だという風に使われていました。

現代版ティーパーティーの誕生

今回のティーパーティー運動の発端は、7870億ドルに上る景気刺激対策法案(Stimulus Bill)への反発です。オバマ政権発足後間もない2009年1月、法案が下院に提出されるやいなや、共和党の政治家、保守派のメディアのコメンテーター、緊縮財政を支持する保守派運動家などが法案反対で意気投合していきます。この法案は、あまりにも支出が大きすぎ将来に大きな付けを残すとして、共和党議員は下院では全員反対、上院でも3名を除き全員反対でしたが、民主党の数の力で2月13日に成立しました。

これに呼応して、各地で新政権への批判の声が上がります。2009年2月10日、オバマ政権発足後初めて、フロリダ州のフォート・マイヤーズで開催された反対集会が、ティーパーティー運動の先駆けとも言われています。また、ニューヨークタイムズ紙によると、2月16日の大統領記念日の祝日にシアトルで開催された反対集会の主催者である保守派運動家ケリー・キャレンダーを、最初のティーパーティー運動の主催者だとしています。キャレンダーによると、保守派メディアや政治家、シンクタンクなどに働きかけた結果、最初の集会で集まったのは120人。その後、著名人のブログを通して宣伝するなどして運動は急速に盛り上がり、4月15日「税の日」の集会には1200人を集めるまでになりました。

一方、中西部シカゴでは、2月19日にCNBCテレビのビジネス番組でエディターのリック・サンテリが、政府による「焦げ付いた住宅ローンの再融資(借り替え)計画」を批判して「支払能力のない人々の借金を返すのにどうして我々の税金を使うのか」と激怒し、シカゴ・ティーパーティーに奮起を呼びかけました(http://www.cbsnews.com/stories/2009/03/04/opinion/main4843055.shtml)。そのテレビ番組の映像はYoutubeなどでネット上を駆け巡り、呼びかけに応えたシカゴ・ティーパーティーが抗議運動に乗り出します。2月20日にはFacebookが開設され、瞬くうちにテキサス、ニューヨーク、LAをはじめ、全国40都市に抗議の輪は広まっていったのです。そして、2009年2月27日、シカゴでティーパーティーとしての初めての全国一斉の抗議行動が起こされたのです。

・・・次回に続く

posted by Oceanlove at 22:39| アメリカ政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月23日

海を渡ったお雛様 〜雛人形の美に関する考察〜

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「いつかはお雛様を飾ってあげたい」。娘が生まれて以来抱いていた願いが、去年叶いました。娘6歳の春でした。

ご覧の7段飾りの雛人形は、私が生まれた年に、祖父母が買ってくれたもので、長い間日本の実家の押入れの中に眠っていました。2年前の里帰りの際に、しっかり梱包し、段ボール箱5つに分けて、船便ではるばるカリフォルニアへと送ったのです。到着までに3ヶ月くらいかかったでしょうか。重くて料金が高くつくスチール製の段組は送らず、新たにベニヤ板と角材を使って手作りの階段を作りました。

リビングの一角に設置し、段に赤い毛氈を敷き詰め、人形、台座、屏風、調度品などを次々に箱から取り出します。それぞれの人形の持ち物や帽子を取り付け、順序正しく備えていきます。娘も嬉しそうに、作業を手伝います。母が丁寧に保管しておいてくれたおかげで、傷みはほとんどなく、とても何十年もたったとは思えない品々です。一体一体の人形はもとより、雪洞(ぼんぼり)の電球まで昔のまま、明かりをつけることが出来ました。

こうして飾り付けられた7段の雛人形。最後に飾ったのは、確か私が小学校6年生くらいの時だったので、かれこれ○○年ぶりに日の目を見たことになります。整然と並べられた様は、何とも美しく豪華です。早速、何人かの友人たちに声を掛け、披露しました。雛人形を見るのは初めてのアメリカ人たち。みな一様に「Wow, Beautiful!」と言って、感嘆の声を上げています。彼らには、異国情緒たっぷりの美しい芸術品に見えるようです。

私自身も、今まで味わったことのない感動を覚えました。以前は、昔の日本の形式ばった風習になどあまり興味は無く、伝統行事としてお雛様を飾っても、特に深い思い入れはなかったのです。それなのに、この歳になって雛人形に感動するなんて、自分でもちょっと驚いています。    

その感動は、雛人形の美しさ、つまり、人形の表情や指先、着物のディテールの繊細さなど、純粋に日本の伝統工芸の素晴らしさということもあるし、祖父母にもらったものを我が娘に受け継ぐことが出来たという喜びもあります。

でも、今回私が抱いた感動は、私が日常の中で経験している、ある二組の対比・・・つまり、「古風な価値観と現代的な価値観との対比」および「西洋的な価値観と日本的な価値観の対比」から生まれたのではないかと思うのです。


古風な価値観と現代的な価値観の対比


私は雛人形の美しさを、特に、左右対称に上位から下位へと整然と並べられた全体像に感じます。「秩序のある美」とでも言ったらいいでしょうか。

言うまでもなく、人形の立ち位置やそれぞれの持ち物、役割、序列などの決まりや意味づけ、それらは、封建時代の宮中のしきたりに由来するもので、民主主義とか個人の尊重などの現代的な価値観とは全く相容れないものです。着物にしても、きちんとした作法があって、身分の違いによって身につけるものも異なったり、柄や紐の結び目一つにまで細かい決まりがあり、現代の感覚ではとても堅苦しいものです。たまに、着物姿の女性を街で見かけて、美しいなと感じることはあっても、決して昔風の暮らしに戻りたいとか、封建時代的な秩序の中で生活したいと思うわけではありません。

にもかかわらず、その美しさに惹きつけられたり、新鮮な驚きと感動を覚えるのはなぜなのでしょうか。

私はこんな風に思うのです。秩序というものがあらゆる意味で失われつつある現代社会において、人は(私自身も含めて)そのことの危うさと憂いを感じていて、そして、心のどこかで「ある種の秩序」を求めているのかもしれないと。

それは封建主義的な秩序そのものではなく、その時代の人々が持っていた精神性、例えば、礼儀とか忠義とか和を重んじる心の持ち方のようなものです。

もちろん、過ぎ去った時代のシステムの一部分だけ取り出して、都合よく現代社会に当てはめることなど出来るはずもありません。それでも、それらは、時代を問わず人の生き方の基本として普遍的に価値をもっているからこそ、伝統の中で輝きを放ち、現代の私たちの心を惹きつけるのではないでしょうか。

現代社会の中では「形」として見えにくいそのような精神性が、古典的価値観の象徴である雛人形の姿かたちの中にはっきりと見えるがゆえに、その美しさが衝撃的に映るのかも知れません。


 西洋的な価値観と日本的な価値観の対比

雛人形に感動したもう一つの理由は、異文化的意味合いによるものだろうと思います。

つまり、秩序を重んじる日本的価値観と、個人主義的で自由がより尊重されるアメリカ的価値観とのギャップからくるものです。

単純比較するのはどうかとも思いますが、あえてアメリカのクリスマスツリーと日本のお雛様を比較してみます。どちらも、一年に一度一ヶ月程度、室内に飾って家族で伝統行事を祝う、という共通点があります。どちらも、見た目にとても豪華です。

でも、姿かたちの決められた雛人形に対して、クリスマスツリーには決まりがありません。大きさも色も形も実に様々なオーナメント、リボンやライトで自由にツリーを飾り付けます。全体としてみればきらびやかで美しいツリーは、バラバラな個が作り出す、言わば「無秩序の美」です。

お雛様は、秩序や全体の和を重んじてきた古典的な日本文化の象徴であり、クリスマスツリーは個性や自由な生き方を尊重するアメリカ文化の象徴、そんな風にも見えるのです。それぞれに価値のある、しかし、全く異なる二つ文化と価値観。

アメリカで暮らし、その開放的で自由なライフスタイルに慣れ親しみながらも、いつもどこかでその光と影を垣間見る私にとって、整然と立ち並んだ雛人形の美しさは、目から鱗とでもいうような、ツリーとは対極に位置する何かとても大切なものを思い起こさせてくれているような気がするのです。

今は亡き私の祖父母。明治生まれの二人にとって、アメリカははるか遠い異国だったことでしょう。孫娘に贈った雛人形が、半世紀近くを経て海を渡り、日本人の母とアメリカ人の父親を持つひ孫のもとに届くとは、誰が想像したでしょうか。

これから先ずっと、この雛たちは、我が家の、そして娘の大切な宝物であり続けるでしょう。お雛様を大切にする心は、日本の伝統文化を大切にする心、異国の文化や価値観を尊重する心。アメリカで育っていく私の子供たちに、ぜひとも、アメリカのよさと、日本のよさと、両方の素晴らしいものを受け継いでいって欲しいと願いを新たにしたのでした。
posted by Oceanlove at 14:28| カルチュラル・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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