その(1)息子が参加した日本での音楽会
その(2)アメリカにおける新しい芸術教育の試み
に続く最終回です。
「ゆとり教育」から「脱ゆとり教育へ」
さて、再び話は日本の教育に戻ります。PISA(OECD生徒の学習到達度調査)における日本の順位が、2000年から2006年にかけて科学・数学・読解力の3分野全てで下がり、「理数離れ」「数学・科学応用力の落ち込み」「考える力の低下」ということが指摘されているとは前に書きました。文部科学省は、ゆとり教育を目指した学習指導要領に問題があったとしています。ゆとり教育に関しては、大まかに以下のようなことが指摘されてきました。
・授業時間が減った分内容も大きく削られたので、実質6時間で12のことを勉強していたのを、5時間で10に変わっただけ。一つ一つの内容に時間をかけたり、内容を深めた学習にはなっていなかった。その結果、取得する学習内容が減少し、各国との比較では「到達度調査」の順位が下がった。
・週休二日制は、「親子で過ごす時間」「学校以外の活動に充てる時間」を増やす意図があったにも関わらず、有効な活用ができていなかった。親子のコミュニケーションの増加にはつながらなかったり、家庭の経済力によっては土曜日の習い事や塾通いなどで生徒間の格差が広まったりした。
・ゆとり教育の目的の一つであった「創造性」や「解決能力」を養うということが、目に見える成果につながっていないこと。創造性教育を始めとするゆとり教育に必要な指導を、現場の教師たちが手探りで取り組むような状態だった。
そして、2008年に再び学習指導要領は改訂され、来年春から使われる小学生の教科書が軒並み3割厚くなることになったわけです。つまり、「脱ゆとり教育」を目指し、ゆとり教育で削減された内容が復活し、算数では33.3%増、理科では36.7%増の内容となっているといいます。
水泳で言えば、「全員が100メートル泳げるようになること」がかつての詰め込み教育だとすると、ゆとり教育では「全員が70メートル泳げるようにすること」とハードルを下げました。その結果、余裕はあるけれど、本来100メートル泳げる子供は物足りなく、塾通いなどは加速し、一方で全体としてのレベルは下がってきてしまったというのが、PISAの結果であり、ゆとり教育の弊害と見なされているわけです。そして再び「100メートルを目指す」内容になっているようです。
素人考えでいえば、全体的な学力の低下が指摘される中で、教科書の内容が現在より充実したものになることは悪い方向ではないとは思います。しかし、また詰め込み型の学習に戻ったのでは、例えPISAの順位が上がったところで、これから日本が目指すべき教育の姿とはいえません。そもそも、ゆとり教育の理念は、「生きる力の育成」だったはずです。中央教育審議会では、「生きる力」を以下のようにうたっています。
[生きる力]は、これからの変化の激しい社会において、いかなる場面でも他人と協調しつつ自律的に社会生活を送っていくために必要となる、人間としての実践的な力である。それは、紙の上だけの知識でなく、生きていくための「知恵」とも言うべきものであり、我々の文化や社会についての知識を基礎にしつつ、社会生活において実際に生かされるものでなければならない。http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/chuuou/toushin/960701e.htm
「脱ゆとり」と称される2008年の学習指導要領は、「ゆとり教育で削減された内容の復活」と同時に、「知識・技能を活用する学習(観察・実験、レポート作成、討論など)」の充実にも重点が置かれているようです。これは、非常に重要なポイントだと思います。子供たちが知識だけでなく活用力をつけるには、課題を考えたり、文章や図・グラフに表したり、発表や討論などをし合ったりする授業が必要となります。このような授業では、子供たちは「正解がなかったり回答がひとつではない課題について突き詰めて考えること」「他の人の意見を聞き尊重すること」「その上で自分なりの考えをまとめること」などを経験することになります。そのような経験は、前述の「これからの変化の激しい社会において、いかなる場面でも他人と協調しつつ自律的に社会生活を送っていくために必要となる、人間としての実践的な力」、つまり、「生きる力」につながっていくでしょう。脱ゆとり教育は、「詰め込み型への後退」ではなく、そのような「生きる力」を育む「本当のゆとり教育」への前進とならなければなりません。
と同時に、私たちは、「生きる力」というのは一朝一夕に習得できるものではなく、必ずしも従来の学力テストで測れるものでもないことを理解しておく必要があります。学習指導要領が変わり、新年度からの教科書が厚くなっても、「OECD生徒の学習到達度調査」の各国別順位が急に上がるようなことはないかもしれません。というよりむしろ、本当の「生きる力」は、詰め込み教育型の能力判定テストと同じ尺度では測れないのですから、その順位に一喜一憂することは無意味になります。
日本の「本当のゆとり教育」と、アメリカの「芸術教育の新しい試み」
では、100メートル泳げる子と、10メートルしか泳げない子が共存するクラスで、「本当のゆとり教育」を実践するとは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか?私は、理想的な教育とは、「100メートル泳げる子供がシラけずに更に意欲的に上を目指し、且つ、10メートルしか泳げない子供があきらめずに20メートルを目指してがんばれるような環境を作り出す」ことだと思います。そういった環境は教師が一人で作り出すものではありませんし、生徒全員に個別の指導を行うとか、能力別のクラス編成にするといった類のことをいっているのではありません。泳げる子が泳げない子をバカにしたり軽蔑したりせず、泳げない子が引け目を感じたり自信をなくしたりしない、そんな環境。泳げる子が泳げない子を励ましたり、泳げない子が泳げる子の泳ぎを見習うことが自然に行われる環境です。そのような環境を作り出すための大前提として、教師がまず子供たちに教えなければいけないことは、「人は誰もが違うことを認めること」「互いを尊重しあうこと」「共感を持って行動すること」ではないでしょうか。
泳げる、泳げない。絵が得意、絵が不得意。計算が速い、計算が遅い。お金持ち、目立ちたがり、泣き虫、ドッジボールが上手い、忘れっぽい、大食い、世話好き・・・。本当に多種多様な能力とキャラクターの入り混じるクラスは、大人社会の縮図のようなものです。日本全体に広がる格差社会の影響は子供たちが受ける教育の量や質にも格差をもたらし始めています。好むと好まざるとに関わらず、このような現実をまず認めなければなりません。その中で、「互いを尊重し合い」「共感を持って行動する」ことを教える教育は、国語・算数・理科・社会の主要4科目を教える授業ではできるはずもないでしょう。ではどんな教育によって教えることができるのでしょうか?それはきっと、「自然や動物と触れ合う」「美しい音楽や芸術、文学にたくさん触れる」「スポーツでチーム一丸となって挑む」「ボランティア活動をする」そして何よりも「感動的な体験をたくさんする」ことによって育まれる、それに尽きると私は思うのです。だから、私は音楽や美術を含む情操教育はかけがえのないものだと思うのです。
ここまで、主に情操教育を通して見た日米の教育事情、それぞれの教育が抱える問題点と新たな挑戦について書いてきました。テーマがいささか壮大すぎ、日米の教育比較などと大仰なタイトルをつけてしまったことを後悔しています。でも、焦点が定まらぬまま文章を書きつづっているうちに、あることが私の中で忽然と繋がってきました。それは、本稿の二つのテーマ−日本の「本当のゆとり教育」とアメリカにおける「芸術教育の新しい試み」は同じ方向を目指しているということです。社会背景も教育の問題点も大きく異なる両国ですが、両者に共通しているのは、子供たちに「生きる力」−自律心や協調性、考える力、共感できる温かい心など−を育む教育を目指し変遷する姿でした。
しかし、アメリカでは音楽や美術の“失われた30年”を取り戻すことから始めなければならないのに対し、日本ではその情操教育の伝統は脈々と受け継がれ、義務教育におけるその地位も時間もしっかりと確保されているのです。公立小学校で、主要4科目以外の学習−音楽・美術・体育・書道・道徳など−に全体の4割近い時間が当てられていること−誰もが当たり前のように思っているこの情操教育は、日本の誇るべき財産なのです。もちろん、日本の教育には今回取り上げなかった様々な問題もあるでしょうし、現場の先生方には私には見えないご苦労もあるでしょう。これからもっと創意工夫が求められ先生方の力量が問われることにもなるかもしれません。でも、私がぜひ、声を大にして言いたいのは、日本の学校教育が既に持っている素晴らしい財産を失わないで欲しい、まずはそれを大切にしていって欲しいということです。そして、(アメリカより)優れているのだから・・・と慢心せずに、さらによりよい教育を目指していって欲しいということです。
話は、一番最初に戻りますが、息子にとって連合音楽会は素晴らしい体験でした。でも今回私が感銘を受けたのは、それだけではなかったとも書きました。二人の子供たちは、それぞれ音楽の授業でリコーダーの練習もしましたし、習字の道具をお友達から借りて書道をしたり、体育では何度もプールの授業がありました(アメリカのほとんどの公立学校にはプールの設備はありません)。ドッジボール大会では、全校生徒が学校の体育着を着ていました。「この体育着は、ワールドカップに出場した日本チームのユニフォームのように、私たちの学校のユニフォームなのです。だから責任と誇りをもって大会を楽しみましょう」という先生言葉は、団結力やチームワークの大切さを伝えるメッセージとして印象的でした。娘の教室ではバッタやカマキリを育てていました。最終日に、蝶が卵からかえる瞬間を目撃した時の子供たちの目は実に活き活きとしていました。息子のクラスで行った新聞制作やお友達への誕生日カード作りなどの手間隙かかる創作活動も、人と人をつなぐ素晴らしい授業だと思いました。テストの点数にはすぐには反映されないかもしれないけれど、このような子供の「生きる力」を育む素晴らしい指導を私は目の当たりにし、大きな感銘を受けたのです。
まだあります。毎日朝の会で全員で歌を唄うこと(アメリカでは朝の会なるもの自体ありません)、全員で教室や学校のそうじをすること(あちらでは学校のそうじは一切、清掃職員に任されています)、授業の始まりと終わりに挨拶をすること、帰りの会で「今日あった良いこと」を報告しあうこと・・・・。日本では当たり前の光景かもしれませんが、アメリカから見たら驚くような、誇るべき素晴らしい日本の学校教育の一端です。
改めて、子供たちに日本での体験入学の機会が与えられたことに心から感謝します。お世話になった先生方、仲良くなったお友達、日本の学校生活の経験の一つ一つが子供たちの胸に刻まれ、彼らの人生の糧となってくれることでしょう。最後に、本稿を書くための資料をいろいろ調べている最中に目に留まった以下の二つの文章をそのまま引用したいと思います。
文部科学省・中央教育審議会の答申より。
[生きる力]は、理性的な判断力や合理的な精神だけでなく、美しいものや自然に感動する心といった柔らかな感性を含むものである。さらに、よい行いに感銘し、間違った行いを憎むといった正義感や公正さを重んじる心、生命を大切にし、人権を尊重する心などの基本的な倫理観や、他人を思いやる心や優しさ、相手の立場になって考えたり、共感することのできる温かい心、ボランティアなど社会貢献の精神も、[生きる力]を形作る大切な柱である。アメリカ・アリゾナ州の州教育長であるトム・ホルン氏の言葉。
When you think about the purposes of education, there are three," Horne says. "We're preparing kids for jobs. We're preparing them to be citizens. And we're teaching them to be human beings who can enjoy the deeper forms of beauty. The third is as important as the other two."
教育の目標は3つある。第一に子供たちを将来職を得る準備をさせること、第二によき市民となる準備をすること、そして、第三に人間らしさ−生きることの奥深い美しさを味わうこと−教えることである。3番目は、他の二つと同様に大切である。
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